7-2 激突に向けてーーバーミングハム闘争1
赤字は重要ポイント、青字はリンク
2005年10月3日脱稿今年度の前半にずいぶんと長く定期更新ができなかったため、申しわけございません、政治経済的な話、公民権運動の話をするのはずいぶんとご無沙汰していた感じがします。そこで、この節では、(1)これまで解説してきた公民権運動の過程を振り返り、(2)公民権運動理解にあたってきわめて重要な理解の枠組みを与えてくれているある学説を紹介します。
まずこの節のタイトルの意味を解説しましょう。1963年、マーティン・ルーサー・キングを会長とする南部キリスト教指導者会議は、過去の運動の分析と反省に基づき、「プロジェクトC」という作戦を実施します。Cとは、激突 confrontation の略。意図的に大規模な政治的衝突を作りだして、世論を大動員しようと企画したのです。そして、それは、1960年より激化した公民権運動の戦術的弱点を反省し、もてるリソースを最大限に利用とした結果なのでした。
では、これまで解説してきた公民権運動の過程を簡単に振り返りましょう(リンクが貼ってある箇所をクリックすると、それを詳述した節へ案内します)。南部公民権運動は、公立学校での人種隔離を違憲とする「ブラウン判決」によって、大きな一歩を踏み出しました。これにより、アメリカ南部の人種抑圧制度の根幹、人種隔離制度(ジム・クロウ)が揺らぐことになったからです。ところが、連邦制高裁の判決は、それを遵守させようとする警察・行政機構があってこそ意味があるものになるのに対し、南部州政府は、最高裁の判決自体が、州政府の権限を蹂躙する憲法違反であるという議論をとり、人種統合に徹底的な抵抗を開始します。KKKのリバイバル、白人市民会議の結成といった極右組織の活性化は、そのもっとも目立つ顕れであり、一般的にこのような南部の抵抗をmassive resistanceと呼びます。
massive resistanceと公民権勢力は、1955年、アーカンソー州の州都リトルロックで衝突することなります。焦点となった問題は、同市の公立学校、セントラル・ハイ・スクールの隔離撤廃。連邦最高裁の支援を受け、この年、地元の公民権組織は、それまで白人だけの高校だった同校に黒人の生徒を入学させることにしました。ところが、これが同校と直接関係のない白人をも激怒させることになり、黒人生徒の入学が阻まれるばかりか、学校の周囲は公民権勢力と南部白人とのあいだで暴動に近い状態に陥りました。この治安の崩壊に対し、アイゼンハワー大統領は、連邦軍を派遣し、黒人生徒を入学させます。
これは一面では公民権勢力の勝利に見えます。しかし、その後、オーヴィル・フォーバスアーカンソー州知事は、連邦政府の監視・命令による隔離撤廃を阻止するため、何と公立学校自体を廃止するという極端な手に打って出ます。その結果、結局、アーカンソー州では、連邦軍の支援があってでさえも、教育における隔離撤廃は現実のものとなりませんでした。
フォーバス州知事は、もともと人種隔離論者ではありませんでした。その彼がこのような極端な手段に打ってでたのも、公民権運動の伸張に伴い、南部の白人世論が急激な右傾化を見せていたからです。その実、フォーバス知事は、再選にあたってより隔離維持の立場を鮮明し、再選を果たします。その結果、教育における隔離撤廃の日は、かえって遠ざかってしまったのです。
他方、公民権運動を担う運動家たちの裾野は、1950年代後半から1960年代前半にかけて、劇的に拡大しました。まず、1955年からおよそ1年間続いたモントゴメリー・バス・ボイコット運動のなかから、カリスマ的魅力をもつリーダー、マーティン・ルーサー・キングが育つことになります。そして、エメット・ティル少年のリンチ事件は、南部の人種的抑圧の残虐さを、全米はおろか全世界に知らしめ、ティル少年の同世代の黒人青年は、1960年に始まったシット・インの運動、さらには学生非暴力調整委員会の運動へとコミットメントを深めていきます。
しかしながら、キングの運動スタイルとSNCCの運動スタイルは、たとえ非暴力を同じ戦略として実践していようとも、必ずしも親和性の高いものではありませんでした。キングの運動は、彼のカリスマ性に依拠し、大規模に人びとを動員するところに特徴があります。それに対し、SNCCのスタイルは、地道な草の根コミュニティ運動を育成することにあり、そのようなSNCCに対し、キングとの共闘は、必ずしも望ましいものではなかったのです。なぜならば、コミュニティ外部の「指導者」に頼ることがかえって、草の根コミュニティ運動成長の阻害になるからでした。
この両者のスタンスの違いは、ジョージア州オールバニーで展開された運動では、指導権争いにまで発展し、結局運動は何一つ具体的な成果をあげることなく敗北することになります。
ここで振り返ってみると、ここまでの公民権運動は、ブラウン判決とモントゴメリー・バス・ボイコット事件という象徴的勝利はあるものの、南部の政治秩序を変革させるほど決定的な勝利を得た、具体的前進を勝ち得たとは言い難い情況にある、と整理できるでしょう。南部の政治秩序の根本的変革なくして黒人の解放はありえない。しかし、象徴的勝利のあとにはmassive resistanceが続き、結局、少し空いた扉はすぐに閉ざされてしまっているのでした。1960年代大統領選挙、フリーダム・ライドと、黒人の政治力や運動は連邦レベルの政治に一定の変化を促すことはできた。しかし、そのほかのこととなると、成果をあげるのに窮する状態にあったのです。
1963年の時点で、このような事情から公民権勢力には焦燥感があり、非暴力の運動の有効性が疑問に付されかねないことになっていました。北部でのマルコムXの人気の高まりはこのような雰囲気を反映したものだったといえるでしょう。
そこで、SCLCは、1962年のオルバニー運動敗北の直後から、次なる運動の場所と方法を模索し始めます。そうして、次のような結論に至りました。
1.運動組織内部の意見の統一を図るため、SNCCやCOREとの共闘ではなく、SCLC単独の運動を行う。
2.好意的世論を動員するため、劇的な衝突の場を選ぶ。そのためには南部穏健派が強いところではなく、人種隔離論者が政治を握っているところが良い。逆説的に響くかもしれませんが、運動前進のため、キングは強硬な人種隔離論者がいるところを選ぼうとしていたのでした。そうして運動の場として決定されたのが、アラバマ州バーミングハムです。この街には、人種隔離維持のためなら「口より手が先に出る」ことで有名な人物、ユージン・ブル・コナーが1930年代後半より市政の中心に立っていました。度重なる公民権運動家の家への爆弾投擲により、Birminghamをもじって、Bombinghamと呼ばれていたくらいです。
さて、キング研究の第一人者デイヴィッド・ギャローは、キングの運動の戦略の変化に関し、極めて興味深い理論を提示しています。それはこのようなものです。モントゴメリーバス・バス・ボイコットのときには、「悪を行うものが良心の呵責に苦しみ、最後は善に目覚める」といったある種宗教的な非暴力理論にキングはたっていた。しかし、およそ5年にわたる運動の結果、彼は精神的回心に対する希望を捨て、非暴力を世論喚起のための戦術として利用することに至る。したがって、1963年バーミングハム闘争以前のキングの方法論は「非暴力説得主義nonviolent persuasion」と規定し、同闘争以後のキングの戦術は「非暴力による強制nonviolent coercion」とすべきである。
また、法学者のマイケル・クラーマンは、逆説的だが(否、それゆえに)説得力のある理解の枠組みを提示しています。彼自身が「バックラッシュ論」と呼ぶその枠組みはこのようなものです。南部の政治指導層が連邦政府の判断を受諾しつつも行政的策略によって人種隔離を維持しようとしたならば、公民権運動は成功できなかった。なぜならば、マイノリティの運動には世論の支援が不可欠であり、密室での奸計で変革をはぐらかせられるとなると、世論の喚起は難しかったであろう。しかし、南部はmassive resistanceを開始した。その結果、バーミングハムでの強烈な衝突のシーンがテレビ画面に映し出され、それが世論を動員することでケネディ大統領を行動せざるを得ない方向に否応なしにおしやった。
この連続エッセイの枠組みは、クラーマンの議論から大きな刺戟を受けたものであり、この後必ず立ち返ることになると思います(ちなみに右上の著書は、ピューリッツァー賞を受賞した、バーミングハム闘争研究のもっとも優れたもののひとつです)。
しかし、こう述べただけだと、何だかキングが狡猾に行動したかのような印象を与えてしまいます。しかし、世論動員の計算はあったものの、彼自身、バーミングハムで運動を実施するにあたり、必死だったことは事実です。なぜならば、彼は側近に何度も「僕たちはバーミングハムから生きて出られないかも知れない」と語っていましたし、その実、運動がクライマックスに達しようとしていたとき、運動本部が爆破され、彼自身間一髪で助かったという事件も起きたのです。
では、次回は、この運動の詳細に入る前に、ケネディ政権の公民権運動に対する立場を整理します。その姿は、ボブ・ディランが歌にした事件、ミシシッピ州立大学の隔離撤廃に伴う暴動のなかで明らかになっていきました。
公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。
NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)
50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。
SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)
マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。
SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)
1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。