4-7 「エメット・ティルの死」

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200299日脱稿
2004年6月13日改訂

全章の冒頭で「次は経済環境の変化を…」と記しましたが、「ブラック・コミュニティのあいだのコミュニケーションの回路」を物語る貴重な事件、「エメット・ティル・リンチ殺害事件」のことは、人口動勢とくっつけて話したほうが良いと判断しましたので、急遽、章のテーマを変えました。「実験的エッセイ」ゆえご寛恕を。

さて章のタイトル、「エメット・ティルの死」は、実はわたしが考えたものではありません。これはボブ・ディランの歌のタイトルから引用しました。1955年の夏に起きた、エメット・ティルのいう名の黒人少年リンチ事件は、(1)全米中に報道されたこと、(2)殺人犯の裁判が当時の南部の人種差別制度、ジム・クロウ制度の残忍さをまざまざとみせたこと、(3)それにもかかわらず黒人大衆が反抗の姿勢を明確にしめし、その後の公民権運動につながるスピリットの醸成を示す画期となった、で大事件になりました((3)は歴史の後知恵です)。ディランの歌はこの実話に基づいているのですが、わたしはいわゆるドがつくほどのプロテストソングは大嫌いなので、これには深入りしません。が、この事件に関しては、年配のアメリカ人のひとに訊ねれば、たいていの方はしっていらっしゃいます。そして後の60年代に公民権運動の世界に飛び込んでいく青年たち、全世界的人気を博するリズム&ブルーズシンガーたちにとっては、「黒人」という同じ人種に属しているということで、ある種の共同体験になっています。

そのリンチ事件の顛末をお話するのがこの章です。

エメット・ティル少年さて右の少年が、この事件の犠牲者、エメット・ティル少年です。この少年はシカゴで生まれ、事件当時は14歳でした。つまり前の移動時期でいうと、大移動の時期に両親が南部からシカゴに移住していたのです。しかしシカゴへの移住は、南部との関係が切れるということを意味しませんでした。その実、ティル少年の親戚の多くはまだミシシッピ州にいて、彼は学校が夏休みになったのを機会に、親戚の家(祖父の家)にやってきていたのです。

しかし北部で育った彼は南部での「人種間のエチケット」を知っていませんでした。それはだいたいこのようなものです。

・白人と話すときには、Sirをつけろ、つまり日本語の構造でいうと、敬語を使えということですね。
・何をするにも白人が優先、前から白人がきていれば道をあけろ

とここまでは世の「差別」というものにある程度普遍的にみられることのので予想もつきます。ところがアメリカ南部の「人種間のエチケット」には、ひとつ独特のものがありました。1940年代初頭にカーネギー財団から膨大な予算を得て、スウェーデン人の社会学者、グンナー・ミュルダールが行った調査報告「アメリカのディレンマAn American Dilemma」は、白人がもっとも激しい抵抗を示すものの一番に、異人種間の性交渉・結婚をあげています。つまり南部の「人種間のエチケット」でもっとも大切なのは

・黒人男性は白人女性をロマンスまたは性の対象とみなしてはならない

というのがあったのです。それですから、リンチで殺された黒人男性の多くが、レイプなどの冤罪に問われたものであり、殺害の儀式のなかにはペニスを切るというものがあったのでした。

これは異人種間の交流を促したロックンロールがなぜ弾圧されたのかの理由のひとつであります。

そこでティル少年は、南部のなかでもこの「エチケット」へのこだわりがいちばん厳しいミシシッピで、やってはならないことをやってしまいました。キャンディを買いに行った店で、その店のレジ係の女性に対し、口笛を吹いてしまったのです。[1]

そうです、たったこれだけなのです、彼が犯した過ちは。上のエチケットの具体例ミシシッピ版では、黒人男性は白人女性を直視してはならない、ことになります。女性に「ベイビー」と呼びかけることは、当時のシカゴではごく普通のことなのですが、これはミシシッピの環境におかれたとき「ねぇ、かのじょ、かのじょ」と呼びかけたことを意味したのです。

被告の2名とその弁護士この決定的過ちがおきた1955年8月28日、そのレジ係の女性のいとこロイ・ブライアントはJ・W・ミラムという友人とともに、ティル少年の祖父の家に押しかけ、少年を拉致します。もう祖父には何が起きたのかわかっていました。ティルは殺されるとわかっていました。ミシシッピで白人に抵抗しても殺されるだけ、ともわかっていました。

ところがシカゴにいる彼の母は違っていました。彼女の発言あって、ミシシッピ州警察もそれなりの捜査を行い、9月1日にはミシシッピ川でティル少年の死体が発見されます。川に死体発見されたといっても、ティル少年が溺死したわけではないのは明らかでした。なぜか?。それは、幼い少年とはいえ、性器が切断されており、顔は見るに耐えられないほどの暴行を受けた痕をとどめていたのです。

ティル少年を拉致した二名は、すぐさま逮捕されます。異常な事態がおきたのは裁判の過程でです。ミシシッピ州の刑事裁判は陪審員制で行われます。この陪審員選定の過程で、黒人はすべて除外されました。黒人が陪審員になるどころではなく、裁判所自体、劣悪で汚い「黒人席」ときれいな「白人席」がはっきりとわかれていたのです。

そして陪審員が討議に入る前、この事件を担当した判事は、何とこう言ったのでした。「誇りあるアングロ・サクソンに属する陪審員の方々はティルが行ったことの重大さをよくご存じであろう」。つまり越えてはならない一線を越えたからティルの殺害は自業自得だ、むしろ被告の行為は尊き血を守ったとして讃えられるべきだ、と言ったのです。そうして下された評決は被告無罪でした。

これに怒ったのはシカゴにいるティル少年の母親です。彼女は「ミシシッピの残虐さを全米の人びとに知ってもらるため」に、棺を開け、叩きつぶされたティル少年の顔が見える形で葬儀を行います。さらには黒人向けの雑誌Jetにティル少年の顔の写真の掲載を許可しました。(年配の黒人の方々の多くはこれを見たときの衝撃をいまでもわすれていらっしゃいません)。汚い手口で殺された彼の墓はシカゴ近郊にあります。

こう述べてくると、南部という土地の「後進性」が際立ってくるように見えますし、同地で人種関係は奴隷制以来何の改善もされていなかったような印象を受けます。しかし、ここには重要な変化も見られたのです。それは以下の通りです。

(1)かつてのリンチは、リンチの場所と日時が新聞で発表されて行われる儀式であった。ティル少年の殺害者は、自分たちが行っていることを、(判事の見解とは異なり)「アングロ・サクソンの血」を守るという理由では説明できない「殺人行為」であると知っていた。なぜならば彼らは罪状認否で「無罪」を主張した−−しかしその後写真週刊誌のインタビューに応え、リンチの模様を詳述した、それでもミシシッピの検察は再起訴しなかった−−し、ティル少年の死体が簡単にわからないように死体遺棄を行っていた。

(2)ミシシッピに北部からの世論の圧力が加わり、それが事件の展開に強く影響を与えた。

(3)裁判の過程では、ティル少年の祖父が犯人を指さし、「あいつがやった」と発言した。つまりもう白人優越主義者の支配はうんざりだ、という姿勢を誰もがわかる形でしめした。つまり公民権運動を支えるスピリットが醸成されつつあったのを示した。(実際に、老人のこの行為に、この裁判の傍聴に来ていたミシシッピの黒人たちは驚いたそうです)。

互いに異なる生活慣習をもっていると思われるところでも、実はコミュニケーションの回路が存在している場合があります。このときのシカゴとミシシッピの関係がまさにそうでした。ここでもう一度、前章での緑の部分をご覧ください。これらの場所は、離れていつつ、つながっていたのです。

さて、次回こそ、これを踏まえたうえで、経済環境の説明を致します。

2004年春、アメリカでこのリンチ殺害事件をテーマにしたドキュメンタリー が制作されました。驚いたことに、その制作チームは、リンチが2人「だけ」の仕業ではないことを突き止めました。それに併せ、連邦司法省が捜査を再開、約40年という時間を乗り越えて、「正義の裁き」が降りる可能性が高まっております。がんばれ司法省。

[1] 一説には「バイ」と言ってしまったというのもあります。[本文に戻る]

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