7-1 大西洋の向こう側から

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2005年5月25日脱稿

ここ数か月、この連続エッセイの更新ができず、リピーターの方々にはご迷惑をおかけしました。おかげさまで、何とかいちばんの多忙期を乗り切ることができました。

さて、この章でとりあげる年、1963年から1964年までの2年間は、戦後のアメリカ現代史のなかでももっとも重要な年のひとつであり、今日の人種関係に決定的影響力をもった時代になります。以下にざっとこの年に起きたことを記してみましょう。

1963年春:南部公民権運動最大級の闘争が、SCLCのキング牧師の指導下、アラバマ州バーミングハムで実施される
1963年6月:ケネディ大統領が、連邦政府の公民権保護に対する権限を大幅に拡大した公民権法案上程の意志をテレビ演説で発表
1963年6月:ミシシッピ州の公民権運動の指導者、同州NAACP支部長、メドガー・エヴァースが暗殺される
1963年夏:バーミングハム闘争に刺戟され、全米36州で978のデモ行進が実施され、公民権運動はその最盛期に突入する
1963年8月:ワシントン大行進が実施され、キング牧師が「わたしには夢がある」"I Have a Dream"の演説を行う
1963年11月:ケネディ大統領暗殺
1964年1月:ジョンソン大統領が、福祉政策の拡充によって貧困を絶滅することを訴える一般教書「貧困との戦争」を発表
1964年2月:ミシシッピ州でKKKが復活
1964年3月:マルコムXがNOIを脱会し、政治団体Muslim Mosque, Inc.を結成、公民権運動指導者との和解と共闘を訴える
1964年4月:ミシシッピ州で選挙権を剥奪された黒人たちだけの党、ミシシッピ・フリーダム民主党(Misissippi Freedom Democratic Party, MFDP)が正式に結成し、夏の党大会で白人だけのミシシッピ民主党と代議権を争うことを目標に活動を開始
1964年6月:多数の白人学生ボランティアを運動に動員した大規模な運動、「ミシシッピ・フリーダム・サマー」が開始
1964年6月19日:公民権法案が連邦議会を通過
1964年6月21日:ミシシッピ州ネショバ郡で3人の公民権運動家が殺害される事件が起きる[1]
1964年7月2日:公民権法にジョンソン大統領が署名し施行される
1964年7月18日:ニューヨーク市ハーレムで暴動が起きる
1964年8月4日:トンキン湾事件。アメリカがベトナム内戦への介入を深め、「泥沼化」が始まる
1964年8月5日:コンゴ共和国のパトリス・ルムンバ大統領が、アメリカ政府が極秘に荷担したクーデタで失脚、コンゴ内戦が始まる
1964年8月22日から:民主党大会でMFDPの代議権が否定され、運動は敗北する
1964年11月:ジョンソン大統領が、黒人票の9割以上を獲得し、圧倒的大差で再選される
1964年12月:ミシシッピ・フリーダム・サマーへの参加者、マリオ・サヴィオをリーダーに、カリフォルニア大学バークレー校で、学生の政治的発言の自由を要求した白人学生の運動、フリー・スピーチ・ムーヴメントが開催される

と、このような具合になります。もちろん、これからこの一連の流れの詳細をゆっくりみていきますが、それでもまず最初に全体的な特徴を述べておきます。

この2年間を通じ、南部公民権運動は、人種隔離の撤廃、それまであったアメリカ社会にそのまま黒人が参加することを目標にして突き進んでいきました。この目標のことを人種隔離に対して人種統合と呼びます。しかし、その過程で、活動家たち、なかでもSNCCに集った青年たちは、「それまであったアメリカ社会自体に大きな矛盾が存在し、その矛盾の解決なくしては、統合されても意味がない」と考えるように至ります。具体的にいうと、肌の色、人種による差別が禁止されても、黒人を政治過程から排除しているそのほかの要因ーーたとえば、貧困ーーの解決なくして、真の統合はありえないと考え、アメリカ社会、国家としてのアメリカが吹聴する「自由」そのものに疑問を抱き始めたのです。

この章の題名に、わたしは「ムーヴメント誕生」ということばを選びました。黒人青年が上に述べたような考え方をし始めたころ、同じくアメリカ社会に幻滅を感じる人びとがいました。白人の学生たちがそうです。60年代は、世界規模で学生運動が興隆した時代でもあり、アメリカもご多分に漏れませんでした。上の年譜でいえば、フリー・スピーチ・ムーヴメントというのが、学生たちの運動です。白人学生の運動、黒人が先陣を切ったマイノリティの権利獲得・回復運動、これらを総称してアメリカ60年代史では「ムーヴメント」と呼びます。白人学生の団体、「民主社会のための学生たち」(Student for Democratic Society, SDS)の会長を務め、現在では歴史を大学で教えているトッド・ギトリンは、わけても64年をムーヴメント誕生の年と規定しています。

さて、この間、リズム&ブルースの世界は何が起きたのでしょう?

63年はレイ・チャールズが名盤Modern Sounds in Country and Western Music vol.2を発表した年であり、彼の世界がカントリー界へといまひとつの大きな「クロスオーヴァ」を敢行した年です。そして、64年は、イギリスでのデビューから4年遅れ、ビートルズがアメリカに「上陸」し、全米中を熱狂させた「ビートルマニア」の年、彼らに続き、ローリング・ストーンズ、アニマルズ、キンクスなどイギリスのR&Bバンドがアメリカのチャートを席巻した「ブリティッシュ・インヴェイジョン」の年です。そのビートルズのヨーロッパツアーのオープニングアクトを務めたのが、メアリー・ウェルズであり、この経緯あって、同年5月、ウェルズの「マイ・ガイ」は、モータウン初のビルボードポップチャート1位に輝きました(ウェルズだけなく、この年にはスティーヴィー・ワンダーも"Fingertips Part 2"という大ヒットを飛ばします)。

さらには、ビートルズは64年までに、マーヴェレッツの "Please Mr. Postman"The Marvelettes - Motown: The Very Best of the 60's - Please Mr. Postman、ミラクルズの "You've Really Got a Hold on Me"The Miracles - Smokey Robinson & the Miracles: The Ultimate Collection - You'Ve Really Got a Hold On Me バレット・ストロングの"Money"をアメリカで発表します。いまとなっては、これらの曲は、オリジナルよりビートルズのナンバーの方がきっと有名でしょう。このように60年代のリズム&ブルースを代表するモータウンの初ヒットは、大西洋の向こう側からの、いわば「逆輸入」としてやってきたのです。

このビートルズ、ならび彼らが惹き起こした「ブリティッシュ・インヴェイジョン」は、かなり有名なことなので、この章の初めの本項では、比較的マイナーなイギリス人女性R&Bシンガー、ダスティ・スプリングフィールドのことを紹介しておきます。

ダスティ・スプリングフィールドは、1939年4月16日にイギリスで誕生しました。レイ・チャールズより9つ、サム・クックより8つ年下、マーヴィン・ゲイよりわずか2週間違いの同級生、アレサ・フランクリンの3つ、ダイアナ・ロスの5つ年上です。つまり、彼女は、この年齢の順番が如実に物語っているように、クロスオーヴァーしたR&Bシンガーのパイオニアたちと、ポップチャートの常連になる後の世代のR&Bシンガーたちのあいだ、両者の橋渡し役になっているのです。ちなみに、同じイギリス人でいうと、ジョン・レノンは1つ、ミック・ジャガーは1943年生まれ4つ年下になります。

The Lana Sistersという名称のガール・グループでデビューし、その後は兄とその友達と組んだSpringfiledsで活 躍し ていたダスティは、1963年にソロに転向し、彼女がずっと親しんでいた、大西洋を挟んだ東岸からやってきた黒い音楽のフレイヴァーたっぷりのナンバーでヒットを連発します。ビートルズに先駆けること1年、63年は彼女のアメリカでのブレイクの年であり、A Girl Called Dustyというアルバムに集められた曲のなかでは、全10曲中4曲が既発のモータウンナンバーのカバーだったのです[2]このコンピレーション・アルバムは、今日では名盤となってリマスターされており、現在ではネットでダウンロードできるようになりました。その後、彼女はアメリカに活動の拠点を移し、この連続エッセイで紹介したジェリー・ウェクスラーをプロデューサーに迎え、メンフィスでも録音することになります。

そのような彼女は、もちろん、人種のあいだに壁があっていいなどとは思いませんでした。1980年代後半、イギリスやアメリカのミュージシャンたちは、アパルトヘイト政策が布かれていた南アフリカで公演することを拒否する運動を展開しましたが、そのような運動の先駆にたっていたのも彼女だったのです。

この一連の事態の展開はアメリカ社会とイギリス社会が、「人種」という要素から考えた場合、相同性をもちつつも、はっきりと異質であったことを物語っています。ポピュラー音楽、なかでも黒人の手による音楽が人種的寛容性を醸成した、これを否定するわけではありませんが、人種隔離政策とは無縁のイギリスで育ったからこそ、ダスティ・スプリングフィールド、ならびに「ブリティッシュ・インヴェイジョン」の中心となった人物は、何のてらいもなく、「黒っぽい」音を響かせることができたのにはまちがいありません。アメリカではロックン・ロールが露骨に弾圧された、このことを考えると二つの文化の対称性がよりはっきりするでしょう。

大西洋の向こう側から響いたサウンド、それは何のてらいもないリズム&ブルースであり、翻ってはそれがアメリカ社会の人種関係に強い影響を与えることになっていくのでした。次項では、その過程の詳細をみていくことになります。

【注】
[1]日本でも大々的に報道されたためにご存じの方も多いと思いますが、これは映画『ミシシッピ・バーニング』のモデルとなり、なんと犯罪が起きたときから41年経過した今年、犯人に初めて殺人罪で有罪が下された事件です。映画と実際の事件との相違は、また稿を改め詳述します。[本文へ戻る]
[2] この当時は、まだシングルレコードを中心にマーケティングがなされていた時期です。ゆえに、今日でいう「アルバム」というものは存在してなく、ポピュラー音楽のLPレコードの多くは既発のシングルを集めたものでした。[本文へ戻る]

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公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。