リズム&ブルーズの政治学

3-6 南部公民権運動と冷戦、そして叛逆:モントゴメリー・バス・ボイコット

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200179日脱稿

さて先週までの事実経緯のなかで、ロックンロールを抑圧しようとする勢力は、実に奇妙にも、〈保守的勢力〉として結束することで反共勢力と強い関係をもっていたという事情を説明してきました。一般に、黒人の運動が、たんなる黒人だけの特殊利益の運動としてではなく、その他の政治・社会勢力と共同歩調をとり始めたのは、今日でいう〈リベラル〉という政治勢力がうまれた1930年代とされています。(これに関しては拙稿があります、ここ、をクリック)そこには、人種関係改善に向かって努力しようしている市民団体、そして労働組合、黒人の公民権団体が糾合されていました。特に1930年代に大きな勢力として擡頭し、黒人の運動をより大きな意味をもつ社会改革運動に接合させたのが、産業別組織会議(Congress of Industrial Organization)だとされています。

また1930年代は、それまで共産主義革命という究極の目的の達成のため、ほかの政党は「堕落している」と軽蔑し、いかなる政治的連合を拒否していたアメリカ共産党が、広くリベラル勢力と共闘路線をとっていた人民戦線の時代と重なり合います。ここでアメリカという国に共産党が存在しているということで、何とも言えない齟齬感を感じたり、「ほんまかいなこの話」、はたまた「あ、あかん、こいつは黒人音楽ファンを名乗りつつ、ほんとうはアナクロなサヨク活動家だ」と思われた方がいらっしゃるかもしれませんが、史的経験論的事実としてアメリカ共産党はアメリカの政党のなかでも人種差別に最も強く対抗した政党だったのです(参考文献一覧をご覧ください、研究書は大手の大学出版局からでています)。1931年、南部アラバマ州スコッツボロで、黒人男性3名と白人女性2名が貨車に無賃乗車しているところを警察にみつけられました。そこで白人女性2名は、黒人男性3名にレイプされていたのだと話をでっち上げ、冤罪に問われた3名の黒人は白人だけの陪審員の裁判で即決死刑が言い渡されました。この黒人男性3名は、農地を移動しながらなんとかその日暮らしの生活をしていた人々で、当然、(O・J・シンプソンなどとは異なり)有能な弁護士を雇う金銭的余裕がありませんでした。そしてなおかつ、人種差別の打破を法廷で確保することを望んでいたNAACPでさえ、この3名の弁護には乗り気ではありませんでした。なぜなら彼らは黒人のなかでもとりわけて貧しい階層出身であり、当時のNAACPの優先課題は中・上流の黒人の生活の改善に置かれていたのです。そこに飛び込んできたのが、アメリカ共産党系の弁護士団体 International Labor Defense(ILD) でした。ILDは、共産党相互の国際的連絡網を通じ、この冤罪事件を世界中に知らしめるとともに、最高裁まで貧しい黒人男性3名のために弁護活動を行います。その過程では、北部の黒人コミュニティではデモ行進なども行われ、こうしてブラック・コミュニティのなかに滲透していったアメリカ共産党は、独ソ不可侵条約の締結によって反戦路線をとるまで、ブラック・アメリカのなかで地盤を形成していきます。ニューヨーク市では共産党公認の候補が市議会に当選し、黒人でニューヨークのハーレム選出の連邦下院議員、アダム・クレイトン・パウエル・ジュニアも、人前で共産党を誉め称えるのを惜しみませんでした。

実は、黒人運動と労働運動を結びつけたCIOの活動家のなかでも、労働組合内における人種差別に敏感で、黒人の苦境の改善に尽力していたものの多くはアメリカ共産党の活動家たちでした。東西ドイツの分裂によって始まった冷戦は、アメリカ国内においては、当然のごとく彼ら彼女ら共産党員の弾圧につながります。それは巡り巡って、労働運動のなかから親黒人運動路線を踏襲する人物の排除につながり、アメリカのリベラル勢力は社会改革を望みつつも、改革を望むがゆえにかえって強行な反共路線をとる〈冷戦リベラル〉へと変容したのです[1]。1943年には組合員総数57万人を数え、もっとも共産党勢力が強く、もっとも組合内人種平等が徹底して追求されていた統一電気労働組合(United Electric Workers, UE)が、1949年より容共勢力の追放に着手し、1953年の下院非米活動委員会の査問会で壊滅的打撃を受けたとき、人民戦線型のリベラル政治は終焉を迎えたのでした。

この第2章1節で述べたように、合州国連邦裁判所は公立学校における人種隔離政策を違憲としていましたが、南部出身議員の露骨な抵抗にあい、連邦裁判所の命令が遵守されない、という異常事態が展開していました。人種平等を目指す政策はいっこうに実施されず、その間にアメリカのポピュラー・カルチャーに滲透していった〈ロックンロール〉でさえも、公共の場から追放されそうになっていったのです。アメリカの改革勢力はまさに窒息寸前でした。

そこにまたしても南部から叛逆の動きが現れます。南部黒人たちの自身の主体的動きのなかから。当時の南部では、バスの中の席は人種別に隔離され、さらにバスが満員になると黒人は白人に席を譲らなければならないという差別的条例がありました。そのような条例を持つアラバマ州の州都、モントゴメリーで、1955年3月2日、クローデット・コルヴィンという名の女性が白人に席を譲るのを断り逮捕されるという事件が起きました。NAACPなどの公民権団体は、差別的条例を廃止させるための法廷闘争を考慮しはじめますが、すぐにその案をたたんでしまいます。なぜならば、Ms.コルヴィンのおなかの中には子供がいて、コルヴィンは未婚だったからです。つまり法廷でコルヴィンの人格攻撃がなされることを予測し、運動開始に踏み切るわけにはいきませんでした。

席を譲るのを拒否したパークス夫人ところが、同じ年の暮れ、12月1日、ローザ・パークスという名の女性が、同じく白人に席を譲るのを拒否し逮捕されるという事件が起きました。すでにモントゴメリーでは何度かバスの人種隔離反対運動を起こそうとしていた。が、これまでそのきっかけがなかった。そこに起きたこの事件が、1930年代の人民戦線の当時から黒人ポーターの労働者組合(the Brotherhood of Sleeping Car Porters Union, BSCP)で活動していたE・D・ニクソンという男性の耳に入り、ニクソンはすぐに地元の有力者たちを集めて、バスボイコットの運動を提案します。

当初、ボイコット運動を推進するにあたって黒人有力者−−そのほとんどが牧師−−たちのあいだに意見対立がありました。白人の暴力的復讐を恐れる牧師などは、運動自体には賛成するものの、運動賛同者の名前は匿名にしてくれ、という主張をします。それを聞いたニクソンは、こう怒鳴った。「あんたら、いい加減はっきりと態度を決めたらどうだ、いっぱしの男(man)として扱ってもらいたいのか、恐れをなした子供(boy)のままでいいのか、いったいどっちなんだ」。

その後、運動のリーダーに誰がなるかをめぐって喧々囂々の議論が続きます。このときにリーダーとして推挙されたのが、有名なマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師です。ここで実に面白いことは、キングは、今日崇められている彼のイメージとは異なり、しぶしぶながらリーダーの職に就いたということ、さらに、周囲の人間は類稀なリーダシップがキングにあるから彼をリーダーにしたのではなく、他の誰も全体をまとめられる人物がいなかったので彼をリーダーに決めたということです。公民権運動の勃興の客観的条件を検討した社会学者アルドン・モリスの見解によると、黒人コミュニティには代々その土地のリーダーになっていた人物が存在し、そしてそれも黒人コミュニティ内部においては複数の派閥に分割されている、それをひとつに統合するには、既存のリーダーシップとは地縁も血縁もない人物が最適だった、マーティン・ルーサー・キングはその典型である、とされています。その実、キングは前年の9月5日に、モントゴメリーで最古で由緒ある、それゆえ中・上流階級が会衆の中心であったデクスター・アヴェニュー・バプティスト教会に赴任したばかりでした。つまり、リーダーとしてのキングは、実は消去法で指名されたのです。

ここでひとつの興味深い現象がみられます。それは、黒人コミュニティが内部に対立をかかえつつ、さらには階級差別といわれるような態度をもちつつも当面のあいだは人種隔離打倒にむけで団結し得たということです。南部黒人の叛逆が、法廷の外で始まったのです。これはひとつには南部保守派の強硬路線が、白人のあいだでの反動分子を勇気づければ、黒人側の結束も固めたことを意味します。こうすると、人種の和解のシンボルとされているマーティン・ルーサー・キングは、実は、人種対立が生みだしたものと考えることができますが、実際の運動の進展はどうだったのでしょうか?。ちょっと難しい話ばかりで長くなりました。次回は、この事件の展開、そしてそこにみられる人種交流、黒人音楽と公民権運動について考えてみましょう。次回のタイトルは、ジャズ・ベーシスト、チャールズ・ミンガスのナンバーから 『フォーバス知事の寓話』Charles Mingus - Fables of Faubus - Fables of Faubusです。さてフォーバス知事という人物は何をしたのでしょう。

【注】
白黒の写真はバスの席を譲るのを拒否し、席に座りつづけるパークス夫人の姿。
カラーの写真は1995年10月16日、「百万人の黒人男性の行進」に参加しているパークス夫人の姿。

[1] 60年代最初の大統領になるジョン・F・ケネディは冷戦リベラルの典型であり、60年代の終わりに大統領になるリチャード・ニクソンは下院非米活動委員会での活動で有名になった人物でした。[本文に戻る]

[2] 音楽ファンとしてこのサイトを訪れている方、ここでピンとくるものがあったと思います。1990年代全世界でもっとも多くのレコードを売った黒人男性ヴォーカルグループ、Boyz II Menのことです。彼らのバンド名は、黒人の歴史をしっかりと刻んでいるのです。南部では1960年代、時と場所によれば今でも、黒人は"boy!"と呼びつけられます。これは黒人はいつまでたっても成熟した男性にはなれないという白人優越主義から生まれた言葉です。これを鑑みた場合、Boyz II Menのバンド名は、自分たちがポスト公民権運動の世代なんだ、という主張を暗に含んでいるのです。[本文に戻る]

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