6-1 フリーダム・ライドーー冷却期間?!、これ以上「冷却」したら凍え死んでしまう!

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200311月24日脱稿
、2007年5月17日改訂

うっかり忘れてましたが、この11月19日がジョン・F・ケネディが暗殺されてから40年目だそうで、アメリカのメディアでは色々な特集が組まれるの、何かわけはさっぱりわからないが、ジョージ・W・ブッシュ大統領=キリスト教原理主義者、自分は闘わない十字軍の指揮官が特別声明を出すわのたいへんなようすでした。

しかし、わたしはジョン・F・ケネディはまったく評価していません。上の動画はホイットニー・ヒューストンが歌う、"Abraham, Martin and John"です。大統領になったジョンとともに、ケネディの大統領選挙で選挙参謀長を勤め、ケネディ政権では司法長官を務めた ロバート・F・ケネディの愛称「ボビー」が哀悼されています。ジョン・F・ケネディを評価しない代わりといっては何ですが、わたしはロバート・F・ケネディの潜在力ーー十全に発揮されることは、残念ながら、ありませんでしたーーを信じているものです。

今回は、前回では極めて保守的な態度を示したロバート・F・ケネディが政治的に成長していく大きな起点となった大運動の話になります。ジャッキー・ロビンソンの手紙

前章で詳述しましたように、黒人の側はジョン・F・ケネディを猜疑心をこめたまなざしで見ていました。というのも、彼の人種問題に対する姿勢が明確ではなかったからです。 左の写真は、1954年に戦後黒人として最初のメジャー・リーガーとなり、新人としては初のMVPを受賞したジャッキー・ロビンソンーー彼のことは、イチローが「彼以来」の記録に挑んだ年、日本でも紹介されましたねーーが新大統領に宛てた手紙です(クリックすれば拡大されるようになっています)。この当時の彼は、黒人向け新聞で政治社会問題を論じたコラムを連載するなど、「黒人指導者」のひとりとしても活躍していました。その彼の手紙には大統領の意図を確かめる質問が並んでいます。

しかしながら、このような類の手紙を送られたとしても、政治家が本心を吐露することなど当然ありえません。ジョン・F・ケネディもそのご多分に漏れず、これを無視します。彼の意図を探るには、明らかに他に何らか別の戦略が必要だったのです。

そこで、60年のシット・インの拡大により刺激を受けた団体のひとつ、人種平等会議(Congress of Racial Equality, CORE)が、ある大胆な計画を実行に移します。

その計画に入る前に、COREに関し、少し説明しましょう。この団体が結成されたのは第2次世界大戦中のこと。その中心になったのは、いかなる場合といえども暴力を行使することを否定する平和主義者たちでした。しかしながら、1947年に本格化する「赤狩り」の影響下、アメリカの政治体勢を批判すること自体が「非米的」とされ、COREの活動は停滞してしまいます。

この北部に拠点を置くCOREに息吹を吹き込んだのが、南部からの熱風でした。その第一弾が、マーティン・ルーサー・キングの登場をみたモントゴメリー・バス・ボイコット事件です。キングに対し非暴力闘争の意義を説いたベイヤード・ラスティンという活動家はCOREの幹部を努めていたことがありました。そして第2波が、シット・インとSNCCの結成。グリーンズボロでシット・インが開始された2月1日の翌日、シカゴ大学のCORE支部は、グリーンズボロの学生が標的に選んだチェーンストア、ウールワースのシカゴ大学構内にある支店でシット・インの援護射撃を行います。つまり、南部の運動は、古参の団体を刺戟するかたちで、全米大の運動へ拡大していったのです。

そのなかの団体のひとつCOREは「フリーダム・ライド」と呼ばれる運動を1961年に実行に移します。この運動は、黒人と白人が同じ席に並んで座り、南部を目指すものでした。しごく簡単なことですが、席を人種別にわけていた南部でこの運動が展開されると、それは人種隔離制度への直接攻撃を意味したのです。フリーダム・ライドの旅程

実はこれより以前の1947年、COREには「和解の旅Journey of Reconcillation」と銘打って同じ運動を展開した経緯があります。2つ以上の国が関係したものを「国際」と呼びますが、アメリカの連邦制度のもとでの独特な関係のひとつとして、2つ以上の州が関係したものを「州際」と呼ぶことになっています。戦後の世界秩序形成にあたり人種主義が喧伝されると共産圏との覇権争いに敗北すると判断したアメリカ連邦政府司法省は、州際間交通、つまり長距離バスや鉄道の旅客席の人種隔離の撤廃を求める訴訟の原告団に加わり、連邦最高裁は州際間交通における人種隔離を違憲とする判決を下しました。さて、このようなとき問題は、その判決が効力を発するか否かです。それを確かめるためにCOREは「和解の旅」を実施したのです。

この「和解の旅」によって、ノース・カロライナやテネシー、ケンタッキー、ヴァージニアという北部よりの南部ーー境界州と呼びますーーで、人種隔離は撤廃されてはいないものの、黒人と白人が一緒の席に座ること、つまり座席の人種統合を実現することに対して、白人優越主義者が抵抗を示すことはない、という事情が判明します。しかし、COREは、このときこの運動を境界州にとどめ、アラバマ、ジョージア、ミシシッピ、フロリダ、ルイジアナーーこれらを深南部と呼びますーーには進みませんでした。なぜならば、境界州と深南部とでは、白人優越主義の度合いが異なり、COREの運動家がこれらの州に入れば最後、最悪の場合は殺されかねなかったからです。このようなCOREを大胆な行動に駆り立てたのがSNCCにほかなりません。したがって「フリーダム・ライド」は深南部を目指すことになります。

大統領に宛てたCOREの手紙さて、CORE流の非暴力運動、つまりアメリカ化されたガンジー主義には、ある定型の運動の手順があります。それを以下に記します。

・運動は相手の良心を目醒めさせることが目的である、だから悪意のある行動ではない、これが大前提。したがって運動の手順はこうなる
(1)事前に運動の計画を関係者に告知すること
(2)いかなる場合があっても暴力を行使してはならない。たとえ自衛のための暴力であろうとも行使してはならない。
(3)運動の実行とともに、相手とは交渉の回路を開くように努力しなければならない。
(4)交渉中であろうとも運動は継続する。なぜならば 「良心の目醒め」こそが最大の目標だから。

SNCCの擡頭を受け、運動の活性化を図っていたCOREは、それまでの白人の執行委員ジェイムス・ファーマー長から、NAACPの幹部であったこともあり、公民権運動家のなかでは名が通っている黒人ジェイムス・ファーマーを新たに執行委員長にします。そのファーマーは、ケネディ政権が発足した1961年2月1日、いよいよ「フリーダム・ライド」の実施に踏み切るという記者会見を行います。

そして、続く4月26日、COREは、南部の州政府、連邦司法省、そして大統領に対して、旅の目的と旅程を明記した手紙を発送します。(左にあるのがその手紙です、クリックすると拡大します)。そして5月4日、予定通りにCOREの一行は、目的地ニューオリンズを目指し、長距離バス2台にわかれて乗り込み、ワシントンD・Cを出発します。

予想したとおり境界州は何の問題もなく通り過ぎました。

しかしライダーたちがジョージア州アニストン(地図参照、モントゴメリーの右上の街です)を出発すると、バスを白人青年が追尾し始めました。そしてバスが郊外に出たところ、青年たちは1台のバスのタイヤにナイフをたてて停止させます。これだけでかなり危険度は高くなったのですが、青年たちはこれでもまだ「満足」しませんでした。停止を余儀なくされたバスに火焔瓶が投げ込まれ、乗客は命からがら脱出に成功したものの、「ライダー」たちはバスから出たところを青年たちに捕まえられ、殴られるの蹴られるので中には瀕死の重傷を負うものも現れることになりました。

ここで肝腎なことは、ジョージア州の警察にはこのような事件が予測できていたのに、しかるべき防御策を講じなかったという点にあります。つまり、白人優越主義者の暴徒の行動を知っていて見過ごしたのです。

そこで何とかライダーたちは自力で病院に向かいます。ところがライダーが「避難」した病院の場所がわかると、今度は病院の周囲に白人優越主義者の暴徒が集結し始めます。

しかしCOREの側は、運動が拠って立つ原理原則ゆえに、ここでも自衛の「暴力」を行使してはならない。この窮状を救ったのは、ライダーたちが遭遇している非常事態を聞いた、アラバマ州バーミングハムの牧師で、SCLCの幹部であり、同地の黒人指導者でもあったフレッド・シャトルスワースです。彼はショットガンを構えて病院に車を乗り付けると、ライダーたちを何とかバーミングハムに運ぶことに成功します。

もちろんこれら一連の事件の顛末を連邦司法省は知っていました。否、熟知していました。なぜならば、COREの手紙を読んだ司法長官ロバート・ケネディは、司法次官補のジョン・シーゲンセラーをライダーたちに同行させていたのです。シーゲンセラーは、アニストンで暴行を受けた一行ではなく、別のバスに乗り込んでいました。こちらの方は、バーミングハムに到着することになったのはなったのですが、そこでもとんでもないことが起きます。

バーミングハムでは暴徒が予めバス・ステーションに集合しており、到着したバスから降りてきたライダーたちに一斉に襲いかかりました。ここでも警察はいません。それどころか、やっと来た警察は、暴徒ではなくライダーたちを「治安紊乱」の容疑で逮捕したのです。

もちろん全米のメディアはこの事件の顛末を大々的に報道しました。記者たちは、当然、バーミングハムの公安委員長にこの事態の説明を求めたのですが、何とユージン・ブル・コナー委員長はこう答えたのです。「今日は母の日じゃないか、うちの署員はみんな、家庭を大事にする市民なんで、ママのところに行っていたんだよ、それで何が悪い?」。

ロバート・F・ケネディ司法長官は、ここに至って南部の人種関係の問題の大きさに気がつきます。そこでとりあえず大きな暴力事件が再発しないように、COREのジェイムス・ファーマーに「冷却期間」を置くように申し出ます。これにファーマーはこう答えました。「長官、わたしたちは南北戦争が終わってからずっと『冷却期間』に入っているんです、このままでは凍え死んでしまいます」。

この言葉を聞き、ロバート・F・ケネディは苦悩し、変化を遂げていくことになります。それと同時に、「フリーダム・ライド」はもうひとつ別のレベルへと運動をエスカレートさせていきます。

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公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。