リズム&ブルーズの政治学

3-7 『フォーバス知事の寓話』:リトル・ロック・ハイスクール危機

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200186日脱稿

サッチモの写真1957年3月5日、ブラック・アフリカの先頭を切って、ガーナが大英帝国から独立を達成しました。ガーナの独立運動の指導者、クワメ・ンクルマ(独立後、初代大統領に就任)はアメリカ留学の経験があり、同国の独立の式典には、当時黒人指導者として頭角を現してきたマーティン・ルーサー・キングなども出席していました。しかし独立という政治的祭典でもっとも人気を集めたアメリカ黒人は、ジャズ・ミュージシャン、ルイ・アームストロング(=サッチモ)でした。当時になるとジャズは、ビ・バップを除くと、アメリカ産の音楽として拡く認知され、実際にサッチモは、アメリカ国務省から「善隣外交大使」の任務を与えられ、ガーナのあとに続いて独立を果たすブラック・アフリカの諸地域を訪問していました。時は冷戦の最中、このような行動は、いわば〈合州国の手先〉として働くことを意味しさえします。戦後の日本の民主化の〈記憶〉のなかで、ジャズや野球といったものが決して小さくない領野を持つのも、合州国は〈文化〉、より精確にいえば〈アメリカ的生活様式 American way of life〉を輸出品として流通させることで、社会主義体制の優位を主張するソヴィエトとイデオロギー戦を戦っていたからです。

そのようなサッチモもある事件の光景をテレビで見ていて激怒し、以後「善隣外交大使」として行動するのはしない、と語りました。彼ははっきりとこう述べたのです。

「南部で我が同胞が扱われているさまを見ると、政府を怒鳴りつけたくなります。情況は悪くなるばかりじゃないですか…。そこの[アフリカの]人びとはわたしにこう聞くでしょう、おまえの国はいったい何をしているのかと、これにわたしはどう応えればいいのでしょうか」。

アームストロングが激怒したこの事件は、〈リトル・ロック・セントラル・ハイ・スクール危機〉と呼ばれるものです。1954年のブラウン判決によって、公立学校における人種隔離政策は違憲と判断されました。しかし前回のモントゴメリーバスボイコットの件でも述べましたとおり、法や判決というのは、その文言を守らせる権力が存在してはじめて意味・内実を持ちます。取り締まられない交通規則は、規則ではないのです。バスでの人種隔離はモントゴメリーで始まった。しかしブラウン判決が下されてすでに3年の月日を閲したのにもかかわらず、学校の人種隔離はむかしと同じく南部では当たり前に行われていました。

このような実情の打開に向け、アーカンソー州の州都、リトル・ロックでは、ダイナミックな黒人女性活動家、デイジー・ベイツを中心に人権団体NAACPがある計画を周到に準備します。モントゴメリーバスボイコットの際に運動家たちが、未婚の母であるクローデット・コルヴィンではなく、実直な生活を送るローザ・パークスの逮捕をきっかけに運動を組織化した点には触れましたが、リトル・ロックでもこれと同様な作戦が計画されます。リトル・ロックの黒人中学のなかでも最優秀の成績だった9名を選び、白人だけが通う高等学校、リトル・ロック・セントラル・ハイ・スクールに転入する手続きをとったのです[1]

アーカンソー州はより人種差別の厳しい深南部とは異なり、(南部と北部の)境界州と呼ばれていますが、かといって境界州では比較的穏和な人種関係というと、事態はそんなに単純ではありませんでした。1943年3月のこと、黒人兵1名が白人警察官から射殺されるという事件がここで起きました。南部の白人優越主義のイデオロギーは、〈誇り高き国軍の軍服〉を黒人が身にまとうことを許さないのです。なぜなら、黒人には〈誇り〉がない、と思われていたのですから。

そのような場所での学校の人種統合が暴力的事件に至る危険性はきわめて高いものでした。ここで問題となってくるのが権力の側の治安維持の意思の有無です。より具体的に言えば、こうなります。治安が乱れても、黒人が白人校に入学されるのを妨害する行為を許容するか、それとも最高裁判所の判決を現実生活のなかで実現させるべく、治安維持の装置を権力が駆動させるかどうか?

アメリカ合州国の連邦制度のもとでは治安維持の権限・権能は州政府にあります。連邦政府は州政府に治安維持能力がない場合にしか動くことができず、しかもその時連邦軍を指揮する合州国大統領は、行政府の長としてよりはむしろ〈全軍の総司令官〉との権限・権能によってそうするのです。したがってきわめて重要な位置にいるのが州知事ということになります。黒人運動家の側には幸運なことに、このときの州知事オーヴァル・フォーバスは民主党リベラル派であり、そこから彼がすくなくとも最高裁の判決を文言通りに守る期待はありました。ところが、1957年9月の年度開始が近づくにつれ、フォーバス知事は態度を変化させます。なぜか? 1958年に州知事選挙が予定されており、彼は再選を目指していたからです。この時期、南部黒人はさまざまな方策で選挙権が行使できない情況に追い込まれていました。そのような状態では親公民権路線をとるとレイシストの白人−−この当時の南部では白人優越主義を信奉していることはなんら異常なことではありませんでした、レイシストの定義を拡大解釈すればほとんどの白人がそうなってしまいます−−の離反が懸念され、逆にレイシズムをあからさまにすればするほど再選の確率は高くなります。1957年8月22日、学校が始まる9日前、セントラル・ハイスクールの人種統合に反対するため、極右組織、白人市民会議がリトル・ロックで大集会を開催します。フォーバス知事は、これを「愛国者の集会」と形容しました。これで人種統合妨害行為へのゴー・サインが出たのです。

もみ合う暴徒と活動家たち罵声の中を登校する黒人生徒9月、9名の成績優秀な黒人生徒が登校していくと、大学は白人暴徒によって包囲されていました。同時に警察も現地にいたのですが、警察は暴徒の行為をそのまま眺めるだけで、結局9名は即時入学することができませんでした。しかしながら、デイジー・ベイツのきわめて強力なリーダシップのもと、NAACPリトル・ロック支部はセントラル・ハイ・スクールの人種統合実現に向かって一歩も引き下がりはしませんでいた[2]。そもそも同地に警察がいたのは、人種統合を遅らせるため9月2日にフォーバス知事が州兵を動員したところ、連邦政府の判決に反する行動に州兵を用いることを連邦裁判所が禁止したからでした。その法廷命令の請願を行ったのもNAACPリトル・ロック支部です。公民権運動は決して、マーティン・ルーサー・キングに指導された運動ではありません。この事件にかんし、キングの登場する場面などどこにもありません。彼女のような地域活動家、勇気ある青年たちがいてこそ、運動は成長していったのです。

人種統合を迫る連邦裁判所と白人優越主義者に転向した日和見政治屋のオーヴァル・フォーバス知事。時が流れていくにしたがって校門で繰り返される衝突は激しさを増し、リトル・ロックはまったくアナーキーな情態に陥りました。そこでついに連邦政府が動きます。リトル・ロックの治安を維持する意思が知事にあるとはみとめられない、と判断したアイゼンハワー大統領は、1957年9月25日、合州国陸軍101空挺師団をリトル・ロックに派遣し、同地の州軍を連邦軍に組み入れます。言わばリトル・ロックは〈軍事占領〉されたのです。治安維持活動に軍隊が動員されたのは、南部では、南北戦争後に北部が南部を撤退した1877年以来初めてのことになります[3]

このときの事態の推移を考え、公民権運動史家の多くはアイゼンハワー大統領の「失策」を指摘しています。南部官憲に黒人の公民権保護の意図がないことは、とりわけリトル・ロック危機の場合、白人市民会議が大集会を開いた際に明らかであった。したがって予防措置さえ講じていれば、人種統合が治安の危機を招聘する事態をある程度は防げたのではないか、というのがこのような議論の骨子です。わたしもこの見解には同意しますが、敢えて誤解を恐れずに言えば、このような〈危機〉は60年代が幕開けする〈前座〉として必要だったのではないか、と考えています。それはいずれ60年代のポリティックスに話が及んだ際に詳述します。

このとき騒乱の渦中に巻き込まれた9名の黒人生徒たちは、しかし、その後も連邦軍が〈軍事占領〉する学校に通い、〈軍事占領下〉に銃剣で保護されて卒業せざるを得ませんでした。このような事態の転変を、テレビで目撃し、サッチモはいたたまられず合州国の旗持ちを止めた。そして、同じく事件をテレビで目撃し、日和見主義者が白人優越主義と手を結んだものの具体例として存在しているフォーバス知事を批判するピースを、チャールズ・ミンガスは録音したのです

ここでひとつのポイントは、この〈危機〉がテレビ中継されたこと、にあります。サッチモはアフリカ人にどう説明すればいいのか、と告発していますが、合州国内の人種騒擾は、20世紀の最初のIT革命のなかで、全米、そして全世界に容易に伝わったのです。では、ロックンロールの〈弾圧〉の後、テレビでの娯楽、とりわけ音楽はどうだったのでしょうか。それが次回のテーマです。

[1] このような運動のある種の「エリート主義」は、後に運動が北部に移った際、さらにはチンピラで「前科者」のマルコムXが黒人指導者として擡頭してきたとき、破綻をきたすことになります。今後のこのエッセイに乞うご期待。[本文にもどる]

[2] このときのデイジー・ベイツの決断や行動は、その後時の変化とともに各方面から賞賛され、クリントン大統領から特別表彰されています。なお、クリントン自身、この危機を経た後のセントラル・ハイ・スクール卒業生であり、彼の強い意思によって同校は、1998年、連邦政府の管理する史跡になりました。このときには、9名の黒人生徒たちも同時に〈危機〉の際の勇気を称えられ、表彰されています[本文にもどる]

[3] 北部では1894年の鉄道ストなど、労働運動弾圧などに動員された例があります。また第2次世界大戦中には、黒人が雇用されたことに反撥しておきたストライキを中止させるため、フィラデルフィアに陸軍が投入されました。[本文にもどる]

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