7-3 「オックスフォード・タウン」ーージェイムス・メレディスのミシシッピ大学入学
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2005年11月7日脱稿
2007年6月23日改訂さて、1963年、その前年世界の耳目を集めた事件について、こんな歌が発売されました
彼はオックスフォード・タウンに向かった
そんな彼を追いかけてきたのは銃と棍棒
なぜって、彼の顔が黒かったから
オックス・フォードタウンとは関わり合いにならない方がいい角を曲がればオックス・フォードタウン
彼は正面のドアから入ろうとしたがダメだった
ただ彼の顔が黒かったという理由だけで
なぁこれどう思う、お前!ここで歌われているオックス・フォードタウンとは、有名なイギリスのオックスフォードではなく、アメリカ南部、ミシシッピ州立大学があるオックスフォードという街のこと。歌っているのは、ボブ・ディランです。黒人が関係した事件に関し、直截的政治的メッセージ込めた曲を出したのは、エメット・ティルのケースと同じくまたしてもディランでした。もちろんこのようなディランの姿は黒人シンガーにも影響を与えますが、メッセージ色の強いリズム・アンド・ブルーズがメインストリームに現れるにはまだまだ時を要します。時はまだクロスオーヴァーを目指していた時代です。
ディランが歌ったこの事件、この当時の南部では至るところで見られたものでした。黒人が白人だけが通っている学校に入学しようとする、なぜならば学校における人種隔離は違憲だと宣言されたから。以前に解説したリトル・ロック・セントラル・ハイ・スクール事件は、そのような事件のなかでも、白人が頑迷に抵抗し、それが暴動に展開、最終的には軍隊が治安維持に動員されたという点で、きわめて重要な事件でした。これから解説するオックス・フォードタウンでの事件ーージェイムス・メレディスのミシシッピ州立大学への入学ーーは、リトル・ロック・セントラル・ハイ・スクール事件と対比して、政府の態度・行動に大きな変化が見られたというところに特徴があります。ケネディ政権は、アイゼンハワー政権と異なり、最高裁判所の人種統合命令を遵守させるように、可能な限りの工作を行う意志を示したのです。
では、事件の経緯についてお話しましょう。
この当時、ミシシッピ州立大学は同州でいちばんのエリート校でした。しかし通えるのは白人だけ。そして1954年のブラウン判決以後も、さまざまな手法を駆使して、人種統合に抵抗し続けていました。たとえば、1958年、同州にある黒人大学の教授(!)が入学願書を送ったのですが、大学はその教授の精神鑑定を依頼し、結局保護施設送り!にしたこともありました。そのような大学に対し、1961年、米軍復員兵で黒人のジェイムス・メレディスが挑みかかります。この度は、しかし、NAACPが全面的支持を約束しており、徹底した法廷闘争でミシシッピ州立大学の門をこじ開ける準備をしていました。
1991年1月、そのようなメレディスが入学願書を大学に送ります。すると大学は、2月4日に、締切を過ぎていたので受け付けられないという回答を送りました。もちろん、締切を過ぎていたというのは単なる「口実」です。抗議の文とともに2度目の願書提出を行うと、また拒否。そこで、メレディスは、3月31日、NAACP弁護団とともに大学の評議会を相手取り訴訟を起こしました。
そして、新学期が始まる直前の9月10日、連邦最高裁判事ヒューゴ・ブラックが、ミシシッピ州立大学に入学許可を求めた法廷命令を発布します。ところがこれに対し、ミシシッピ州知事ロス・バーネットは、テレビ演説で、メレディス入学を断乎として阻止すると公言します。彼の法理のなかでは、教育行政の権限は州に属し、連邦最高裁の行為は連邦制度の根幹をゆるがす越権行為だとされたのです。
これを受けて、次のような事態の展開がありました。
・メレディスとNAACPは最高裁命令を根拠に入学を迫る
・バーネット知事の公言により、白人優越主義者が大胆になり、メレディスの入学を実力や暴力を用いても阻止しようとするこうして「対決」の舞台ができました。9月25日、メレディスは入学手続きのために、ミシシッピ州立大学を訪れます。すると、何と知事自身が門に立ちふさがり、彼の入校を妨害したのです。周囲では暴徒がふくれあがり、騒然とした状態になります。そこでいったんは撤退しますが、翌日再度大学に向かうと、今度はポール・ジョンソン副知事が妨害のために門に立っていました。
その間、NAACP弁護団は再度大学当局を告訴し、28日には第5連邦巡回裁判所が、証人喚問に応じなかったバーネット知事を、法廷侮辱罪で有罪とする判決をくだします。このようにブラウン判決以後、連邦裁判所は終始一貫して人種統合を支持する判決をくだしていました。それに抵抗したのが南部の政治家たちです。
しかし、実際に刑事罰に直面してしまったバーネット知事は、ここで妥協を試みます。暴徒が集結していたオックスフォードではなく、州都ジャクソンでメレディスの入学手続を行う、と。このように一定の妥協姿勢は示していました。しかし、メレディスが入学手続きを済ませた同じ日、ジャクソンで行われていたミシシッピ州立大学のアメリカン・フットボールの試合では、白人だけの観衆を前に、知事在職するかぎり人種隔離撤廃には抵抗を続けるという姿勢を誇示します。
このように南部の政治家が振る舞うなか、「勇気」づけられてしまったのが暴徒たち。メレディス入学に伴いついに大学街で暴動が発生し、その結果ひとりのフランス人ジャーナリストが殺害されるという事態になってしまいます
ところで、ミシシッピ州でこのような事態の展開があるなか、フリーダム・ライドのときに頑迷な人種主義を直視していたロバート・ケネディ司法長官は、メレディスを明確にそしてちから強く支持する声明を発表します。曰く。
「連邦裁判所の命令は守らなければならないし、守らせる意志がわたしたちにはあります。……すべてのアメリカ人には法を遵守する義務があり、それと同時に法が守られることを期待する権利があります。……バーネット知事が進んでいる方向は、それゆえに、この国が拠って立つ原則に相反するものです。だからこそ、連邦政府は、いま発布されている法廷命令が遵守されるように、あらゆる方法を用いることになるでしょう」。
ケネディ政権がこのような態度をとったのも、リトル・ロック・セントラル・ハイ・スクール事件のときに、その模様が全世界に拡まり、第3世界の独立国家からの支持をアメリカが失ったという経緯があったからでした。その実、オックス・フォードタウンの騒擾が落ち着いた10月12日には、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの大使・領事に対して、この事件に対する政府の行動がどう評価されているのかを調査する命令をくだします。国際世論に対して極めて敏感になっていたのです。
他方で再選されなくてはならない1期目の大統領は、もし大胆な行動で黒人の運動を支援すると、南部白人票を失ってしまう、という危惧がありました。とてつもないディレンマに直面していたのです。
そうして選んだ結果は、軍隊の使用は避け、銃をもたない私服の連邦保安官を動員するということ。右の写真がその光景ですが、これをリトル・ロックの「軍事占領」と比較してみてください。ケネディが腐心したあげく、なるべく「穏当」な手段をとったのが見て取れます。
このような態度は、ある面で暴徒の勢いに油を注ぎました。連邦政府は「弱腰」だと思われたからです。そうして、当初動員された127名の連邦保安官では事態を鎮めることはできず、最終的には国境警備隊など軍隊以外で治安維持活動にあたっている連邦政府の人員をかき集めて538名の護衛部隊を結成しなくてはならないことになりました。
以上のことから、ケネディ政権の態度を最後に整理しますと、それはこうなるでしょう。
(1)国際世論を鑑みると、南部の人種隔離の問題を解決しなくてはならないという理解には達していた
(2)南部の寡頭支配権力は民主党であり、同じ民主党から再選をめざすケネディとしては、彼らの離反は避けなくてはならないこの相反する方向から引き裂かれ、何とか妥協点を模索していた、これがケネディ政権の基本的姿勢だったのです。
そのなか公民権運動家たちのケネディ政権への理解も引き裂かれることになります。司法長官の姿勢には勇気づけられる、それと同時に「どこまで信じられるのか」という疑問も払拭できなかったのです。これから激化していく南部の闘争は、このような政治環境のなかで展開していくものになります。
公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。
NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)
50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。
SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)
マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。
SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)
1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。