6-7 非暴力、大敗を喫す ーー オルバニー運動
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2004年9月13日脱稿ミシシッピ大学の人種統合に端を発した暴力事件には、その後の公民権運動の歴史で何度も繰り返される特徴がみられました。それを簡単にまとめますと、以下のようになります。
(1)白人暴徒を取り締まろうとしない、もしくは暴徒と結託した官憲の存在
(2)(1)の存在ゆえに、エスカレートしていく暴力
(3)暴力がメディアの関心を集め、運動側に世論が動員されていく
(4)公民権運動の大義をおおむね支持する連邦政府と人種隔離制度を断乎として堅持しようとする南部州政府の対立かなり以前に述べた、モントゴメリー・バス・ボイコット事件にも、この4つの要素はみられました。そして、(3)の動きと密接な関係にあったのが、当時の南部公民権運動の戦略、非暴力直接行動です。暴徒と非暴力の運動家の対立は、善と悪の対立として、当時普及したばかりのテレビ画像で映し出され、世界大の世論を動員していくことになったのです。
この運動の力学を、実は、マーティン・ルーサー・キングは、1958年に出版された自叙伝Stride Toward Freedomのなかで詳細に記しました。同書は、たとえば非暴力思想をキングが幼いときから信じていたとしているところなど、史実と合致しない自画自賛の部分が極めて多く、自叙伝といえどもゴーストライターがいたものですが、それでも「運動家のハンドブック」としての役割を果たしたことは否定できません。
しかし、この「運動家のハンドブック」は、運動家養成所のようなところで配布されるテキストではなく、市販の書籍でした。したがって、非暴力直接行動の力学は、南部の白人優越主義者と人種隔離を堅持しようとする官憲の手にも容易に渡ることになります。その結果、ジョージア州の小さな街、オルバニーでの運動は、大きな挫折を経験することになるのでした。
では、その運動の経緯を、時系列に沿ってお話します。まずは、オルバニーという街の歴史から…。
右の図にあるように、オルバニーの近くには、大ききな川、チカソワッチ川が流れています。鉄道が内陸輸送の主役になるまでは、川が主要な貨物運搬経路であり、奴隷制による棉栽培が行われていた時代には、肥沃な土壌、黒土地帯に属することも相俟って、この街はアトランタを凌ぐ大きな街でした。
そのオルバニーを奴隷制が廃止されて約半世紀後に訪れたW・E・B・デュボイスは、街の模様をこう記述しています。
「ここは何と不思議な土地だろうーー悲劇や哄笑をさそう数え切れない物語、いわば人生の豊かな胃酸をいっぱい秘めている土地なのだ。過去の悲劇の影が差し、未来の約束で膨らんでいる土地!。ここがジョージアの「黒土地帯[ブラックベルト]」なのだ。…人びとはかつてここを南部連合のエジプトと呼んだ」。
しかし、デュボイスがここを訪れた頃には、かつての奴隷制南部の様相は大きく変わり、「古い大農園が、打ち捨てられたまま暗い蔭を落として」いたのでした。
それからまた半世紀以上の年月を閲し、「南部連合のエジプト」は大きくさらに大きく変貌しました。棉作農業にも機械化の波が押し寄せ、黒人の小作人は土地を追われ始めていた。立場を悪くしたのは黒人だけではなく、かつては隆盛をほこった棉作プランテーションも、国際競争に勝てなくなり、第2次世界大戦後にははっきりと斜陽産業に数えられるようになった。そんな変化の渦中の1930年、故レイ・チャールズはこの地で生を受けました。
それでもひとつだけ、1世紀以上も変わらぬものがありました。それは、ほかの何ものでもない、ジム・クロウ、人種隔離制度でした。
その制度撤廃に向け、まず行動を起こしたのはSNCCです。しかし、60年の頃のようにいきなりシット・インを行ったわけではありません。有権者登録運動という、シット・インよりずっと地味な活動を開始していたのです。
SNCCのこのような戦術転換は、自発的創意というよりもむしろ連邦政府の勧めにしたがったものでした。フリーダムライドの混乱をみたロバート・ケネディは、白人優越主義者の暴力を回避するために、1961年6月に公民権団体の代表と非公式の会談を持ちました。このときケネディ司法長官は次のような計算がありました。
(1)フリーダムライドやシット・インという直接行動の代わりに有権者登録を運動の戦略を変化させれば、運動が地味になるゆえに、センセーショナルなメディアの報道がなくなる
(2)ケネディ政権が黒人の有権者登録を推進すれば、黒人の団結票を次の大統領選挙で獲得することができるそこでケネディ司法長官は、有権者登録運動に、民間の財団から資金援助の都合をつける、と約束したのです。
1961年8月のSNCCの幹部会は、この提案を討議に付し、大論争になったのは、有権者登録運動の場合、直接行動と異なり、政府に依存する度合いが増し、自律的な地域運動の形成をかえって妨げると考えるメンバーが少なくなかったからです。その結果、SNCCは分裂の危機に瀕しますが、エラ・ベイカーが仲介にたち、直接行動に加え、有権者登録運動を開始するという決定をくだします。SNCCにとって、オルバニーの運動は、こういう経緯でスタートした有権者登録運動のパイロットプロジェクトだったのです。
かくして、チャールズ・シャーロッドとコーデル・レーゴンという2名のSNCCスタッフが、10月にオルバニーに向かいました。11月には人種隔離されたバス・ステーションで最初のシット・インを敢行し、同地の黒人コミュニティで大きな会合を開催、同月16日には〈オルバニー・ムーヴメント〉という地元のものからなる運動組織が結成されるに至りました。
しかし〈オルバニー・ムーヴメント〉には、結成の時点から、問題をいくつか抱えていました。同組織は、SNCCとNAACPオルバニー支部が中心となり結成されたのですが、NAACP支部の幹部のものは直接行動よりも市当局への請願と法廷闘争を優先し、SNCCは、その反対に直接行動を優先する、というかたちで、戦術面での合意ができていなかったのがひとつ。さらにまた、NAACP支部は、黒人コミュニティの道路の舗装等々、生活環境の改善を優先し、ジム・クロウ制度打倒は直接の関心事ではありませんでした。したがって、〈オルバニー・ムーヴメント〉の要求事項は、道路の舗装から人種隔離の撤廃までを網羅した総花的なものになったのです。南部黒人があらゆる側面の改革を望んでいたこと、それを忘れてはなりませんが、運動を実施するにあたり、要求事項が多いということは、運動の焦点を曖昧にさせるという結果を伴います。
何はともあれこうしてスタートしたオルバニー運動は、12月12日に市庁舎の前で大規模なデモを敢行し、その結果、同日で267名、その翌日には204名が逮捕されるに至ります。しかしながら、暴力的衝突なしに行われたこの大量逮捕は、オルバニー以外の地域に報道されることはなかったのです。そこでオルバニー運動は、全米のメディアの関心を集めるために、マーティン・ルーサー・キングに支援を求めることになったのです。
キングがやってくること、これはすぐに市当局に伝わり、警察署長ローリー・プリチェットは、ある対抗戦略を練ります。彼は、後日、そのときのことをこのように語っています。
キング博士についてはしっかり研究しました。モントゴメリーにやって来たばかりのころのことから、そこでの運動戦術など。彼について書かれたものを読みあさって、彼がガンディを尊敬していることもわかりました。……一方、わたしたちといえば、大量逮捕を行う準備をしていたのです。彼らの手段は、逮捕者を多数だし、そうして留置所を満員にし、もはや逮捕などできないところまで追いつめ、屈服させようとしたものだったと言ってもいいでしょう。……そこでわたしは、周辺の町と連絡をとり、収監の準備を進めることにしたのです。……それに加え、彼がやって来る5か月前から、警察官には非暴力の戦術に関する特別訓練を行いました。点呼が終わると毎日毎日、非暴力の運動の処遇の仕方に関する講義を行ったのです。
モントゴメリー・バス・ボイコットやフリーダムライドの運動が成功した転換点に、白人優越主義者の暴力をみてとったプリチェットは、非暴力直接行動に対しては暴力を使わない逮捕、いってみれば「非暴力逮捕」でキングを迎えたのです。
オルバニーには、キングがやってくると同時に、世界中から記者が集まりました。わけても『ニューヨーク・タイムス』は、運動の最盛期だった1962年、14回にわたって一面トップ記事で報じます。しかしこれはプリチェットがすでに予期していたこと。大規模デモには非暴力逮捕。これに対しキングは次の手をうちます。自分自身が逮捕されることで世論を喚起しようとすること。しかし、プリチェットは、警察が弱腰ではないということを示すために逮捕はしますが、その日のうちに匿名で保釈金を払い、キングを留置所から「追い出し」ました。キング自身は留置所にいつづけることを希望していたのですが、保釈金が支払われた以上、出なくてはならない。かくして運動は持久戦に突入していきます。
そのとき、オルバニー運動の初期のころから存在していた問題が表面化してきます。SNCCとNAACPにSCLCが加わり、それぞれの団体が相互に連携をとらないまま運動を行うことになったのです。裁判所の差し止め命令がでていようともデモ行進を実施しようとする急進的なSNCC、市当局との交渉の回路を何とか開こうと工作するNAACP、キング頼りのSCLC、これらの団体が意思疎通を欠きデモを行ったため、1962年7月24日には、プリチェットに恰好の攻撃材料を与える事件を起こすことになります。非暴力に徹していたはずだったデモ隊のなかのひとりが、デモ中に、つまりメディア関係者の視線が集まるなか、商店に投石したのです。それを見たプリチェットは、自慢げにこう言いました。「さて、どちらが非暴力なんだ?」
この事件を受け、キングは25日一日を「懺悔の日」と定め、デモの一時停止を宣言します。しかしSNCCはキングのこの決定にしたがわず、市庁舎の前でのデモを敢行し、運動内部の対立がついに露呈することになりました。
SNCCがそうしたのも、彼ら彼女らなりの考えがあってのことです。そもそもオルバニー運動は彼ら彼女らが組織化したものでした。キングが来たことによって、運動の指導権は、彼ら彼女らにしてみれば、「奪われる」ことになったのです。しかし、指導権争い以上にSNCCが問題にしていたことは、キングがオルバニーに留まろうとせず、合間を見てはアトランタの自宅に帰っていたことでした。今日のことばでいえば「地域密着型」の運動の育成を重要課題にしているSNCCにしてみれば、このようなキングの行動は「無責任」であるとさえ映ったのです。左の2枚の写真、運動家の服装をよくご覧下さい。オーヴァーホールを着ているのがSNCCの活動家です。この出で立ちは、ジョージア南西部の小さな町の住民に、そもそもは大学生であるSNCCのメンバーたちがいかに一体化していたのかを示すものです。
このような指導層の確執は、黒人市民に影響を与えていきました。運動の士気がはっきりと落ちてきたのです。SNCCとSCLCの和解を示す目的で、SNCCのシャーロッドとSCLCで「キングの右腕」と呼ばれているアンドリュー・ヤングの二人が、7月末に教会で開かれた集会でデモ行進参加者を募ったところ、500余名の会衆のうち参加の意思を表明したのはわずか15人になってしまったのです。
その後、キングは、市当局とオルバニー運動の交渉が開始されたのを機会に、オルバニーから撤退します。交渉開始といっても黒人市民の要求が受け入れることを意味しません。市当局は、交渉を長引かせることによってさらにまた「持久戦」を展開し、オルバニー運動はやがて自然消滅していったのです。これによってSNCCはこんな教訓を得ました。「非暴力に徹すれば運動に勝てるわけではなく、それゆえに、キングの存在は自律的で持続的な地域運動育成の阻害になる」。他方、キングとSCLCはこんな教訓を得ました。「多様な団体を糾合した運動は効果的な運動にはなりえない、特にSNCC急進派は、運動の阻害になる」。
このように互いに得た教訓は違っても、しかし、ひとつだけはっきりとしたことがあります。モントゴメリー・バス・ボイコット事件の成功から7年、ジョージア州オルバニーにおいて非暴力の運動は大敗を喫したのでした。BGMでかかっている歌は、オルバニー運動で実際に歌われた曲、「オー、プリチェット」です。ブルージーなその旋律は、運動の顛末を物語っているのでしょうか。
【注】
有権者登録:アメリカでは、選挙権を行使しようと思えば、選挙に先立って登録をしなくてはなりません。これが、たとえば住民票の移転手続きのように簡単なものなら問題はないのですが、アメリカ南部では、黒人の投票権を剥奪する機会として利用されていました。オルバニーのような農村部の街での例を詳述するとこうなります。ある黒人が裁判所に有権者登録に行きます。すると、その人物の名前は地元の新聞に掲載されます。その記事を読んだ白人の雇用主は、「お前らニガーは俺たちの言う通りにしておけばいいんだ、白人のように振る舞うな」と、登録をしようとした黒人に告げます。ここで、当該の黒人がまだ登録に拘るならば、それはリンチで殺されるかも知れません。つまり、南部において有権者登録をするということは、とても勇気のいることであり、運動家がやってきて、住民を「たきつけ」れば、すぐにできるといったものではなかったのです。[本文に戻る]
公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。
NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)
50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。
SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)
マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。
SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)
1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。