7-4 ショットガンを片手にした牧師ーーバーミングハム闘争2

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2007年6月24日脱稿

前項で白人南部の抵抗−−大反抗 massive resistance と呼びます −−がいかに激しかったのか、それがまた少し具体的になってきたと思います。この白人の抵抗は、ジェイムス・メレディスのミシシッピ大学入学やリトル・ロック・セントラル・ハイ・スクール人種統合の際にみられたような、一般市民による暴力にとどまらず、深南部諸州の政治権力をも動かします。たとえば、アラバマ州では、州政府が最大の公民権団体であったNAACPに対して会員名簿の提出を要求し、会員個人に物理的・経済的圧力が加えられるのを危惧したNAACPはその要求を拒否、その結果、同州での活動が非合法化されるといった事態に陥ります。

モントゴメリー・バス・ボイコットの後にSCLCが結成されたのは、実は〈NAACPの不在〉という側面もありました。団体が活動するには当然資金が必要であり、人種差別と闘うという目標を同じくする団体が二つ以上存在すると、「寄付金」「会費」の「争奪戦」が始まります(わかりやすい喩えを日本の政治情況に即してすると、小選挙区での自民党と公明党の関係を考えてください。二つの党がそれぞれ候補をたてると票の争奪戦が始まり、どちらか一方が敗者にならなくてはなりません、このような場合、両党は、連立政権ではあっても、敵同士になります)。実のところ、NAACPの過去の歴史は、ライバル団体との「内輪もめ」のエピソードにあふれており、この時代、キング博士の擡頭に逆に「危機感」を募らせた経緯すらあります。しかし、「大反抗」の結果、NAACPがSCLCの成長を黙認できる環境が整いました。この点において、公民権団体は目標を共有する「仲間」でありながら、支持母体を巡って競い合うライバルでもあったのです。ただし、この時点において重要なのは、公民権運動の主要団体すべてがある一つの目標だけは共有できていたということです。それは、人種隔離、ジム・クロウ体制の打破ということです。

さて非暴力といっても、それには大きくわけて二つの考え方があります。ひとつが、非暴力を生活の律する指針とし断乎として暴力を行使しない、とするもの。このような発想は、たとえば生命を奪うことによって可能になる肉食を否定し、菜食主義をとるようになります。ガンディが説いた非暴力とはこの意味になります。それは、暴力を行使するものが罪の意識に目覚めることを促し、より良い世界の構築を目指すとする戦略であり、暴力を行使するものを「敵」とはみなしません。そしていまひとつが、政治闘争の戦略として非暴力を用いる、とするもの。非暴力は相手の暴力を挑撥するという点において、暴力とマス・メディアの報道にその有効性がかかっているものです。モントゴメリーの黒人市民が採用したもの、E・D・ニクソンのような労働運動家が採用した非暴力とは、この意味になりますし、ガンディとともに独立闘争と闘いつつも、独立インドに軍隊を創設した初代首相ネルーの非暴力もこちらの意味になります。

般的に、ローソンは前者の非暴力を説いていたとされ、マーティン・ルーサー・キングはこの両者のあいだで揺れ動いたとされています。キングのその「揺れ動き」には、このシリーズを通じ、後に言及します。

そしてまた、非暴力の思想、または運動指針はキング博士が発想し提案したものではありません。モントゴメリー・バス・ボイコットが開始されたとき、COREの初期の活動家でアメリカ社会党員、1943年に計画された最初の「ワシントン大行進運動」の企画運営者のひとりだった人物にベイヤード・ラスティンというものがいます。この人物こそ、キング博士に非暴力の戦略を伝えた人物にほかなりません。ラスティンは、その後、キング博士の名演説で有名な1963年の「仕事と自由のためのワシントン大行進」の総監督者に抜擢されます。彼についてはそのときに詳述しますが、実のところ、キング博士をとりまく人物には、とても魅力的な個性の持ち主が多いのです。その強い個性ゆえに、互いが反目・対立することもありましたが、今日はそのなかでもアラバマの運動できわめて重要な役割を果たしたカリズマ牧師、フレッド・シャトルスワースの話をご紹介します。

さて、上の動画は、フリーダム・ライドの模様を伝えているものです。かなり後のところになりますが、病院の床に寝ている白人のSNCC運動家、ジェイムス・ツバーグが「人種隔離に打ち勝つために、フリーダムライドは続けなくてはならない」と、白人優越主義者の暴力でぼろぼろになった体で訴えています。フリーダム・ライドについて語ったその彼のことばの続編は別項で述べていますが、ここで問題にしたいのは、その病院の外です。病院の外には、当然、ライダーたちを追いかけてきた白人優越主義にそまった暴徒が集結し、病院自体が襲撃されかねない状態になっていました。

そこに、じゃじゃじゃじゃーん、やってきたのは仮面ライダー(幼心に覚えているのですが、「仮面ライダーX」の敵の軍団は、KKKのような頭巾を被っていました、「ライダー」や「X」というところから連想しましたが学者の深追いかもしれません…)でも、風車の八七でも、月光仮面でもなく、ピックアップトラックの後部に自分の教会の会衆を乗せ、彼らにショットガンを持たせた牧師、フレッド・シャトルスワースでした。

これからが面白いところなのですが、この姿を見て、白人優越主義者の暴徒はどうしたか?。簡単に道を開けたのです。そして、「びびって」逃げたものもいたのです。

Fred Shuttlesworthシャトルスワース牧師は、1922年アラバマ州マグラーに生まれました。キングより7歳、マルコムXより3歳年上になります。彼ら3人に共通して言えることは、幼い時期に「自由と民主主義のため」に戦った第2次世界大戦の愛国主義を経験しているというです。1953年、アラバマ州バーミングハムのベテル・バプティスト教会の牧師になると、その翌年にはブラウン判決がくだり、シャトルスワースは同州のNAACPのなかでももっとも熱心な活動家のひとりになります。同州がNAACPを実質上非合法化した1956年5月、〈人権擁護のためのアラバマ・キリスト教運動〉Alabama Chrsitian Movement for Civil Rightsを結成し、「大反抗」に屈するどころか真っ向から対決していきます。1956年のクリスマスイブ、そのような彼の家にダイナマイトが投げ込まれました。この攻撃を逃れた彼に対し、KKKの会員でもあった警官は「俺があんたなら、すぐにでもここを出て行くね!」と述べ、それにシャトルスワース師は、「神が私をお救いになったのは、わたしが逃げるためではありません」と堂々と応えたとされています。続く1957年には、白人が通っている学校に自分の子供を入学させようとすると、彼の一家全員が白人優越主義者の標的になります。それでも彼が怯むことはありませんでした。教会の仕事よりも公民権運動に時間を割くよううにさえなった彼は、ベテル・バプティスト教会の牧師職を解任され、シンシナティの教会の牧師になります。それでも、自分の故郷、アラバマ州、わけてもバーミングハムの運動への関与を深めていきました。

さて、ダイナマイトにシャトルスワース師は怯まなかったし、キング牧師と深い親交関係にあった。しかし、彼は、ライダーたちを救いに行ったときにはショットガンを抱えていた。ここに非暴力と暴力を考える重要なモメントがあります。

このころすでに北部ではマルコムXが非暴力の指針を批判していました。では、南部の運動が、マルコムが批判するような絶対的な非暴力に則っていたかというと、そうではないのです。モントゴメリー・バス・ボイコットのとき、その運動の契機となったローザ・パークスの夫は銃を枕元に置いて寝ていたと、ローザ・パークス自身が語っています。また、その運動のなかで自分の住んでいる場所に爆弾を投じられた後、キング博士の周りには、今日で言う「シークレット・サービス」、つまり銃をもった人びとが護衛に当たっていたのです。

マルコムは、黒人が殴り返さないから白人が殴ってばかりなんだ、とキングを罵っていました。しかし、現実の運動の指揮にあたっている人びとは、つねに自衛の手段は講じており、非暴力といえども「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」とは言っていないのです。彼ら彼女らは、「左の頬を差し出したら」、右の頬を打った人間は「つけあがって」、「右の頬もひっぱたく」と十分承知だったのです。したがって、キング博士が主張した非暴力の運動を、「何が何でも暴力を行使することは否定する」とか、キリスト教から発した一教派が主張しているように「運動会での徒競走は勝ち負けを決める「戦い」だからそのような戦いはしてはらなない」という風に、教条的に考えるのは、この時代の情況を誤って捉えることになります。

つまり、暴力対非暴力といった硬直した二項対立は、一般的にとても広く流布していますが、この時代を把握するうえで邪魔にはなっても、見晴らしの良い窓には決してならないのです。

しかし、圧倒的に不平等なジム・クロウ体制のもとでは黒人は白人に「刃向かう」ことができませんでした。その結果、白人優越主義者のテロ支配が続くことになりました。ところがところが、ショットガンを持った牧師がKKKの中を突っ切ったとき、その支配、わけても心理的支配の構造が明らかに崩壊し始めたのです。

こんなに個性的な牧師がいた街、バーミングハムには、もうひとり極めて個性的な人物がいました。それは、強硬な白人優越主義者で同市の公安委員長ユージン・ブル・コナーです。この街を舞台に、SCLCは、オルバニーでの失敗を踏まえ、これまでの公民権運動史上最大の作戦を開始します。白人優越主義者との対決confrontationが起きるのはわかっていた、それで、その作戦は「プロジェクトC」と呼ばれています。

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公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。