6-5 アトランティック・レコード Part 2ーー 再びメンフィスへ

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20047月26日脱稿

60年代に入り、ヒットを連発することになるモータウンとアトランティック、この両社のあいだにはひとつの大きな違いがありました。モータウンは、レコード制作の現場からプロモーションまでを総合的にコントロールしました。それに対し、アトランティックの手法は、アーティストに最適なレーベルとサウンドを選択することに技を凝らし、制作の現場はレーベルに任せたのです。その基本的姿勢にしたがってアトランティックは、1960年にメンフィスのレーベルと契約を結び、その結果、リズム・アンド・ブルーズの世界に足場を築くことになります。そのレーベルの名前はスタックス(STAX)。

実は、ずいぶんと昔の話になりますが、この連続エッセイでスタックスには一度触れています。繰り返しになりますが、その部分をもう一度確認しておきます。2000年11月4日発表の2章2項において、スティーヴ・クロッパーの次の言葉を引用しました。

R&Bとは、黒人のために歌われていた、黒人のコミュニティがつくった音楽だったんだ。当時のひとがブルーズと呼んでいたものにちょっとばかり変化がついたものだった。それはいかしていたけど、そのいかしかたがちょうどよくて、人がついていけないようなものでもなかったんだ。モータウンの曲なんかとも違っていたね。ああ、そう、ここで言っておくけど、モータウンは、オレに言わせりゃ、白人の音楽だ。

また、彼によると、50年代のメンフィスでは「黒人たちと街をぶらつき歩くことやつが、いちばんヒップなことの証」だったのです。

スタックスというレーベルは、ヒップな白人」で銀行員の白人姉弟、ジム・スチュアートと、エステル・アクストンが創設したものでした(社名は、StewartとAxtonの二つの姓を繋げて短縮したものです)。このレーベルの初期の看板となったのが、その後数多くのスタックスのレコードでバックバンドを務めるインストゥメンタル・バンド、ブッカーT&MGsです。前述のクロッパーは、このバンドのギタリストです。(ジム・スチュアートは一時期このバンドでフィドルを担当していました)

右の写真をご覧になれば、すぐわかるように、このバンドは完全に「人種統合」されたものでした。メンバーを詳述します。ギタリストのスティーヴ・クロッパーとベースのドナルド・ダック・ダンが白人、キーボードのブッカー・T・ジョーンズとドラムのアル・ジャクソンが黒人です。このコーナーをこれまでお読みになっっている方にはもうおわかりでしょう、ブッカー・T・ジョーンズは、明らかにブッカー・T・ワシントンの信奉者に育てられたのです。この点で彼が受けた家族教育は、モータウン社主のベリー・ゴーディと同じということになります。

ここで肝腎なのは、人種隔離が一般であった不平等な当時の南部にあってでさえ、このバンドのなかでは人種間の平等が保たれていたということです。このバンドを初めて見たジェリー・ウェクスラーは、その音を「ファンキー」だったと述べています。ファンクという言葉が人口に膾炙するおよそ10年ほども前のことです。そのファンキーさを生み出していたのは、「人種統合」されたリズム・セクション、ジャクソンとダンのコンビにほかなりません。

話は前後しますが、このスタックスという会社は、エステル・アクストンが閉鎖された映画館をレコード店として活用していたところから始まりました。店舗の奥をスタジオをスタジオとして使い、そのスタジオから「直送」のレコードを店舗にて販売していたのです。

ここで興味深いのはこの映画館ーー右の写真をご覧下さい、映画館の面影をはっきりと残していますーーがあった位置です。人種隔離制度があったメンフィスにおいて、このスタジオは当時の白人居住区と黒人居住区の境界にありました。いわば、黒と白の臨界点に存在していたのです。(現在は、歴史的建造物として、博物館になっています)

その「スタジオ」の音響効果について、ドナルド・ダック・ダンはこのように述べています。

スタックスのサウンドは特異なものだった。スタジオ・ブースは映画館の客席の斜面にあり、コントロール・ルームはステージのところにあったんだ。録音に使ったのは映画用のラウド・スピーカーだ。それに、アコースティックな音にエフェクトをつけるときには、ボロボロになっていた幕を使ったりしていたね。…(中略)…そうやってできたサウンドはグレートだったよ。ドラムとホーンとを同時に録音したことがしばしばあったんだけど、ちょうど良い具合にドラムにディレイがかかる仕組みになっていたんだ。

高価な音響装置を使うのではなく、手許にあるものを利用することで「特異なサウンド」を創りだしていくこと、後に機会が来たときに詳述しますが、これはモータウンがHitsville, USAで行っていたこととも同じでした。

ところで、モータウンを、スタックス=アトランティックが意識していたことは明らかです。ウェクスラーは次のように述べています。

あの小さなデトロイトのスタジオ[モータウン]には何か特別なものがあった。音楽へのアプローチの仕方といい、ヴァイブレーションや音楽が発するエネルギーといい、それらはほかのところでは再現できないものだった。

そしてまた、スタックスのサウンドも「再現できないもの」です。だからウェクスラーは契約を結んだのです。再現の不可能性という特色を共有し、レコード市場で競いあう両社、モータウンが「アメリカのヒットが生まれる町」Hitsville, USAと名付けていたのに対し、スタックスは「アメリカいちばんのソウルの町」Souslville, USAと自称します。これはよくよく考えると実に奇妙なものです。黒人だけの会社モータウンが「アメリカのヒット」という人種と何ら関係のないことばで自らのことを形容しているのに対し、人種対立が激化していた南部の人種統合されたレコード会社スタックスが「ソウル」という「黒人性」を前面に出していたのですから。ここに、アメリカの人種関係の複雑さが垣間見られます。肌の色は、音楽さえも規定しないのです。

ウェクスラーは、南部白人の音楽嗜好について、次のように述べています。

わたしにはわかったのだが、南部の白人は文句なしで黒人ぽい音楽を自分たちのものだと思い、そんな曲が好きだったんだ。ジム・クロウの残酷な歴史があるのにもかかわらず、白人たちのこころと精神は、黒人にしっかりと握られていたんだ。

この発言を、リズム・アンド・ブルーズに魅せられたものの希望的観測、過去の美化として片づけることはできません。なぜならば、社長のジム・スチュアートを含め、スタックス初期のミュージシャンたちは、当時は人種隔離されていた南部の大学の学園祭で演奏することを、大きな収入源のひとつにしていたのですから。

さて、このようなスタックスとアトランティックの関係が始まったのは、カーラ・トーマスという17歳の黒人女性が歌ったヒット曲 "Cause I Love You"Carla Thomas - Carla - Medley: Baby What You Want Me to Do / For Your Loveをウェクスラーが聴いたときに始まります。この曲を書いたのは彼女の父のルーファス・トーマス、録音はSoulville, USA。ここで父のルーファスが生業としていたことがヒットに大きな影響を持ちました。彼は、夜になると全米中に届くメンフィスのラジオ局、WDIAでディスク・ジョッキーをしていて、自作の曲を何度も何度も繰り返しかけたのです。その結果、この曲がウェクスラーの耳に入り、彼はカーラ・トーマスとレコードの販売契約を結ぶために、メンフィスに向かうことになります。

このとき、ウェクスラーは、「学校やバスは人種隔離できるが、電波が飛ぶ空気を人種隔離はできない」と言っています。これは初期のリズム・アンド・ブルーズの流行にあたり、ラジオ局がいかに大きな役割を果たしたのか示す証言です。しかし、彼は、メンフィスで、人種隔離の醜さを目の当たりにします。事件は、トーマスとの契約の話をする際に起きました。[注]そのときの模様を、彼は次のように語っています。少し長くなりますが、当時の人種関係を生々しく伝えてくれているものです。

カーラとルーファスのトーマス父子とレストランで夕食を一緒に食べたかったのだが、その当時のメンフィスでは、白人と黒人が一緒になったグループを客扱いしてくれるところなど、どこにもなかった。それで、乗り気はしなかったのだが、ルーム・サービスを頼み、ホテルの部屋で食事をすることにした。トーマス家のものたちをラジオ局に迎えに行き、ホテルに着くと、ジム[スチュアート]は、ホテルのロビーを使うのはよそう、と言い始めた。たぶん彼は心配性なのだろう。ロビーに行ったとしてもトラブルが起きそうな気配はまったくなかったのだが、何はともあれ、ここは彼の地元、わたしに土地勘がある場所ではない。それで彼に従うことにした。ホテルのゴミの収集所がある裏通りに回り、荷物専用のエレベーターに着くと、ルーファスは、小さな声でつぶやき始めた。「何も変わっちゃいねぇ、ゴミだらけの裏通りを歩かなきゃならないってこと、そんなことなんてとっくの昔に時代遅れになって良いものなのに」。同感だ。
その夜、彼らが帰ると、私は眠りに就いた。たぶん夢をみていたと思う。そのとき「夢」が現実の「悪夢」に変わった。ドアを叩く大きな音が聞こえてきたのだ。それと同時に叫び声も聞こえた。「警察だ!、そこに売春婦がいるってことぐらいわかっているんだ、とっととドアを開けろ」。
そんなことがあるはずがない。わたしは、目撃者がいてくれるように、ロビーで警官の捜査を受けることにした。警官がいるところに行くまでのわずかな時間をつかみ、アーメット[アーテガン]に、事のあらましを記したメモを郵便で送った。奴ら警官が、わたしをトランクに押し込み、アーカンソーとの州境でリンチにする光景が目に浮かんだので、最悪の事態に備えたのだ。リンチは単なる妄想だったが、それでもひとつ明らかなことがある。きっと誰かがわたしの部屋から黒人が出てくるのを目撃したのだ。そしてそれに対する仕打ちが、これだったのだ。

このような紆余曲折を経てスタックスで制作、アトランティックで発売されたカーラ・トーマスの"Ghee Whiz"は、1961年2月6日にビルボードチャートイン、R&Bチャートで5位、ポップチャートでは10位というクロスオーヴァー・ヒットとなります。その後、アトランティックは、数多くの黒人シンガーをスタックスで録音させ、次から次へとヒットをつくりだすことになります。

ところで、ウェクスラーは、ユダヤ系アメリカ人です。その彼には、同じユダヤ系として、音楽的嗜好を一緒にするものとして、そしてまた音楽業界の先達として尊敬する人物がいました。ジョン・ハモンドという富豪がそれです。アレサ・フランクリンを最初に「発掘」したのも彼です。彼の音楽界での活動は、黒人音楽に限られません。ロバート・ジンマーマンというユダヤ系アメリカ人を「発掘」し、ボブ・ディランという名で60年代のシンボルのひとつにしたのも彼です。彼ら彼女らは、後にウェクスラーが、スタックスとは別の南部レーベルで録音し、名盤を残すことになります。

これよりずっと前のこと、ハモンドは、1930年代半ばよりNAACPの理事になり、音楽業界が不当に黒人を扱っていることに対する抗議行動をするとともに、当時の黒人上流階級からは「野卑な音楽」として蔑まされていたジャズの芸術性を、彼ら彼女らに認めさせた人物です。1940年代のNAACPが、遅ればせながらスウィング・ジャズの魅力を認め、デューク・エリントンやカウント・ベイシーらを表彰することになったのは、彼らの音楽の美しさとハモンドの努力がひとつになってのことです。

ウェクスラーが、上の回顧にみられるような嫌がらせを受けても、メンフィス産の音楽に惹きつけられ、そこに何度も足を運ぶようになるのには、このようなハモンドの気概と闘争の歴史が影響を与えているのは明らかです。

そして、"Gee Whiz"が快調にヒットチャートを上がり始めたとき、ミシシッピ州立大学は、一方の側にNAACPの支援を受けた黒人学生ジェイムス・メレディスと、他方の側に白人優越主義を信奉する市民と政治家がたち、大紛争が起きることになったのです。ん?、人種統合されたバンドは南部の大学の学園祭で活躍していたのではないの?。そうです。だからリズム・アンド・ブルーズの政治学は探求する価値があるのです。

[注] 本来ならスタックス社長スチュアートとウェクスラーとの出会いの模様をお伝えしたいのですが、両者が後に仲違いしたことにより、いまのところそれを物語る史料に出会っていません。もし連載が終わるまでにそれがわかれば、アップデートします。[本文にもどる]

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公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。