リズム&ブルーズの政治学

2-3. 「プレスリーはNAACPの差し金だ!」

赤字は重要ポイント、青字はリンク
20001127日脱稿

さてそれでは前回のサウンドファイルの回答から。

1.Amazing Grace, Elvis Presely

2.All Around the World, Little Willie John (黒人)

3.That's All Right, Elvis Preselyエルヴィス・プレスリー - Elvis at Sun - That's All Right

4.Fever, Little Willie John (黒人)

冒頭にゴスペルの名曲を置いたのは、ここで〈人種〉というカテゴリーをいったん無化してしまおう、と思ったからです。(逆に〈誘導尋問〉のような効果になってしまったかもしれませんが…)。実はプレスリーは白人のなかでもゴスペルの録音が多いアーティストなのです。ではなぜこうなったのか?

たとえばメンフィスほどの街になると、黒人と白人は別々の住宅地に住み、ごく限られた場(たとえば駅の赤帽の黒人に荷物を持ってもらうこと)を除き、人種のあいだの接触は限られてきます。つまり黒人と白人は別々のコミュニティを形成するのです。1920年代にジャズが興隆したのも、1916年以後、第1次世界大戦の軍需景気による人手不足が生じたために、わずか2年のあいだに50万人の黒人が北部産業都市に移住し、そこで〈ブラック・コミュニティ〉を形成したからでした。

しかし、このような〈異文化〉の接触は、ただ接触するだけで、そこから新しいものが生まれてくる可能性はそれほど高くありません。なぜなら、人間の価値観、スタイル、等々を決めるにあたってとりわけて重要な〈生活空間〉が、〈人種隔離〉されているからです。

ところがプレスリーの育ったトゥペロでは事情が異なってきます。ちょっとイメージしてみてください。ニューヨークのセントラル・パークの東側に住んでいる人びとは、買い物はミッド・マンハッタンなどにでかけ、北ににある黒人コミュニティ、ハーレムに行くことは必要のないことです。ところが、農村地区になると、黒人の教会の横を通ることなどが頻繁に起きることになります。なぜなら、農村地区では、商店街が人種別に隔離されるなどといった余裕はないからです。プレスリーは、黒人教会のゴスペルを耳にしたこともあれば、棉畑で働く黒人農業労働者の〈労働歌〉を聞いたこともあったのです。無意識のうちに。それが、最初は〈ロカビリー〉と呼ばれる音楽形態を誕生させたのでした。

そのような黒人文化からの影響を強く受けたプレスリーの音楽は、実際に黒人のあいだでも好評でした。60年代のハーレムに育ったある少年はプレスリーこそ「最初に黒人のように歌った白人」と好意的に評価しています。実際のプレスリーの60年以前のチャートアクションを『ビルボード』誌に見てみましょう。R&Bとは黒人市場のこと、ポップとは音楽市場全般のことです。

プレスリーの曲のチャートアクション

ここで赤字のところは、黒人市場での方のチャートが上位のものを示しています。さらに興味深いことに、"Mean Woman Blues," "Baby I Don't Care"に至っては、プレスリーが最終的に契約した大レコード会社RCAは、白人市場でのセールス活動すら行っていません。これらは黒人が消費するために録音され、商品化されたものなのです。つまり先述のハーレムの少年の感想は、明らかに当時の黒人一般に共有されたものである、と断言しても構わないでしょう。プレスリーは〈人種〉の境界のあいだに位置し、そうすることでポップとR&Bという二項対立を無化したのです。これは白人と黒人の境界を無化することにもなります。さらにプレスリーは晩年に至ってもR&Bのカヴァー曲を発表し続けました。

このようなプレスリーの音楽は、メンフィスで500キロワットの大容量で放送していた黒人所有のラジオ局WDIAによって、大々的に放送されました。このラジオ局の電波は、夜になるとニューオリンズからシカゴまで届きます。

ここでラジオというメディアが、人種間の壁を粉砕します。というのも、音だけならば、演奏者の肌の色はわからないからです。これが〈ロカビリー〉の流行のひとつの要因になりました。

ところが白人はやがてプレスリーの音楽に〈黒人的なるもの〉が入っていることに気がつきますこのページのBGMは、レイ・チャールズのヒット曲をプレスリーがライヴで歌っているものです。プレスリーは自分の音楽に〈黒人音楽〉の影響があることを隠したりはしませんでした。その結果、ラジオでは見えなかった〈音の色〉が可視化されてしまいます。

その結果、アラバマ州などでは、プレスリーの音楽は、人種統合を要求しているNAACPの陰謀のひとつだという話しが真面目に討議され白人市民会議は南部の放送局でプレスリーの音楽をとりあげるのを禁止しようとする動きに出たのです。

そしてこれは北部で起きたもうひとつの事件と密接な関係にありました。プレスリーがメンフィスのマイナーレーベル、サン・レコーズからRCAヴィクターに移籍し、全米的なアイドルに昇りつめていく一方で、〈ロカビリー〉と呼ばれた音楽には、別の呼び名がつけられました。次回は、南部発の〈ミシシッピ〉の声が北部に向かい、どのような事態がおきたかについて述べます。

しかし、あれですね、初期のサン・レコーズの頃のCDはなかな見つかりませんね。

【注】
[1]ならば、ベニー・グッドマンやグレン・ミラーといった白人のビッグバンド・リーダーはどうか、という反論があるかもしれません。しかし、これらは白と黒が分かれたままで単に並べられたにすぎない、というのが私見です。なぜなら、フレッチャー・ヘンダーソンやライオネル・ハンプトンなどの黒人奏者をバンドに入れることで〈黒人らしさ〉を彼らのバンドはかもしだしていたのであり、グッドマンやミラーが「黒人のように振る舞った」わけではないからです。ところが、プレスリーの場合は、次章で述べますが、それまで黒人の特徴とされていた〈身振り〉をしたのです。[本文に戻る]

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