6-3 モータウンの進撃開始!
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2004年3月1日脱稿気がつけば、最初にモータウンのことに言及して以来、約1年も経ってしまいました。それで、なかには話が見えにくくなった訪問者の方もいらっしゃると思います。そのような方は、よろしければ、もう一度、モータウン設立の経緯と社会情況を整理しておいてくださいーーここ、をクリック
さて、シット・インやフリーダム・ライド、つまり「戦闘的」な黒人青年の運動は、当然、黒人のミュージシャンへ強烈な刺戟を与えました。しかし、シット・インのときと同じく、その刺戟に直接応えたのは、当時白人のファン層が増加傾向にあったリズム&ブルーズ・シンガーたちではなく、芸術として立場を揺るぎないものにしていたジャズの方です。右の画像は、そのようなジャズ・ミュージシャンのひとり、日本でもお馴染みのビッグ・ネームのドラマー、アート・ブレイキーのアルバム、そのタイトルもズバリ、 The Freedom Rider です。
他方、リズム&ブルーズの方はどうかというと、決してこのような社会情況と無縁であったわけではありません。ただ直截的な表現を避けたのです。サム・クックの例にあるように、白人と黒人で意味が異なる歌詞を乗せ、大ヒットを狙っていたのです。
ところで、60年代に大ヒットを連発したR&Bのレコード会社が二つあります。ひとつがデトロイトに拠点を置くモータウンで、もう一つが大手レコード会社のアトランティック・レコードです。今回は、前者の動向を社会事情にあわせて紹介します。
1959年、デトロイトを中心とするアメリカ中西部地区のR&Bチャートで2,3のヒット曲を書いていたのちのモータウン創業者で社長のベリー・ゴーディの給料は、週給に換算してわずか27ドル70セント!。その経済的苦境の原因は、ヒット曲を書いても、販売権や著作権をコントロールしていない限り、アーティスト自身に入る金銭はごくわずかである、というレコード産業の構造にありました。ゴーディは、そこで、独立したプロデューサーが自費でレコードを制作し、その販売権を、全国的な配給網をもつ会社に売るという、「レコード・リース」というシステムを考えつきます。そうして出た最初のヒットが、当時のゴーディの経済的野心をのぞかせる"Money"でした。
このヒットによって「資本」を得たゴーディは、いよいよ本格的に動き出します。まず、現在は「モータウン博物館」としてデトロイト市の観光名所になっているスタジオを、デトロイトの黒人ゲトーのど真ん中、West Grand Boulvard 2648に設立します。ゴーディはここを大胆にも、「アメリカのヒット曲が生まれる町」Hitsville U.S.Aと命名します。この名は、また、彼の野心と夢の大きさも物語っています。ここは、さらにまた、会社の本社事務所を兼ね、ゴーディは、その後会社が大きくなるとともに周囲の家屋を次々にスタジオとして買い取り拡大していくことになります。(左の写真は、筆者がその博物館を訪問したときの写真です)
その野心を実現させるために何としても必要な子会社を彼は設立します。彼の会社から発売されるレコードの著作権を一括管理する会社、〈ジョーベート音楽出版〉を設立したのです。黒人がこのような事業に乗り出すのは、実にサム・クック以来のこと、当時にあっては極めて稀なことでした。モータウン・レコーズは、フリーダム・ライドが続行されていた1961年、〈ジョーベート音楽出版〉とタムラ・レコードなとのレコード制作会社を統合したものとして設立されたのです。
さて、これより遡ること2年、ゴーディーは、ジャッキー・ウィルソンが録音をしていたスタジオで、ひとりの男性と知り合いになっています。その男性は当時地元のNorthern High Schoolを卒業したばかりの青年、それでも100曲以上の自作曲のストックがあるという人物でした。その人物の名はウィリアム・ロビンソン、つまりモータウン設立時には副社長として創業者に名を連ねる"スモーキー"・ロビンソンのことです。
ゴーディは、ロビンソンと親交を深め、彼が高校のときの友人を集めて結成していたバンド、マタドールズのマネージャーのような役割を担い始めます。そこで彼が行ったことのひとつは、バンドの名前を変えさせること。「マタドール=闘牛士」というわけのわからない名前ではなく、メッセージのある名前にする、そしてそのメッセージはできるだけ肯定的に響くようなものにする。そうして生まれたバンドが「ミラクルズ=奇跡」です。おそろいのジャケットを着たミラクルズの「クリーン」なイメージは、音楽市場に売り出される「商品」のイメージと呼応するものだったのです。
ここで少し考えてみてください。モントゴメリー・バス・ボイコットにしてもシット・インにしても、これまでなら白人優越主義者の暴力で弾圧されてしまっていたものです。それが黒人側の勝利になっている。これは白人優越主義者のテロ支配を甘受せざるを得なかった世代の黒人にしてみれば、「奇跡」以外の何ものでもない。ミラクルズの名は、そのような時代精神を反映したものにほかなりません。
ところでスモーキー・ロビンソンは、ゴーディが「曲作りに関して僕を正しい方向へ導いてくれた」と語っています。そのゴーディとの共作による 「ショップ・アラウンドShop Around」は、ケネディ勝利に終わった大統領選挙の翌月、1960年12月12日にビルボードのチャートに入り、R&Bチャートのみならず、ポップチャートでも1位になります。わけても8週連続の1位ーー"Money"を越える大ヒットーーになったR&Bチャートでは年間チャート1位のミリオン・セラーになります。
後ろでなっている音楽がそのShop Aroundですが、ここで四つの点に着目してみてください。一つはテンポ。このようなテンポの曲は、この時代では極めて稀です。しかも単なるアップテンポではなく、ドラマーがスティックではなくブラシを使うことによって、絶妙な「軽さ」をだしている(そのようなものにした理由とその効果は後に稿を改めて述べます、それまで訪問者のみなさまもちょっと考えてみてください)。二つめは、曲の途中で何も鳴っていない瞬間、つまり「ブレーク」の多用。これは、曲にスリリングな緊張感を持たせます。そして最後に、巧妙に韻を踏んだ歌詞。スモーキー・ロビンソンは、作曲家としてはもとより、作詞の技芸も高く評価されている人物のひとりです。ちょっと音楽的イマジネーションを使いましょう。このアップテンポの曲、じーと聞いていると、ロビンソンの歌声は話しかけているように聞こえます。つまり、現在のラップとかなり近い感覚で「歌われて」いるのです。
そして最後に歌詞のメッセージ性。ナッシュヴィルでのシット・インでは、イースターにあわせた商店ボイコットが行われたという事情に触れました。ショッピングという消費行動に発想を得たこの曲は、黒人に(ボイコットを行う)経済力がある!、というメッセージとなったのです。重要な点は、サム・クックの歌詞と同じく、このメッセージは白人と黒人とで違った意味を持つというところにあります。白人は「ああ、たわいのないティーンの歌だ!」と思うわけですが、黒人には「経済力の誇示」に聞こえるのです。
実はこの曲、一般に流布している「黒人」のイメージを砕くものです。数々のところで「黒人」について話をしてきてわかったことですが、「黒人」と聞くと、「差別の被害者」「貧困に苦しんでいる」というイメージをすぐに思い浮かべるひとが多数派です。なかには「かわいそうな人たち」と、善意あまって相手を侮辱するとんでもないことを言う方もいます(そのような方には、「あなたはかわいそうな人ですね」と言い返し、この表現は善意を意味しないということをわかってもらえるようにしていますが…)。しかしもし「貧困に喘いでいた」ならば、ショッピングの歌に耳を貸すのでしょうか?。この歌がR&Bチャートで大ヒットしたこと、この事実は、「黒人=貧困」という等式はいつどこでも成り立つものではない、ということを示しているのです。
黒人が自分に押しつけられた否定的なイメージを打破し、独自のアイデンティティを獲得していくこと、これは60年代公民権運動の目標とも通底しています(拙訳書『モハメド・アリとその時代』はその過程をかなり詳細に述べていますが、論考を進めるに従って、このエッセイでもそれに折々触れていきます)。モータウン・レコードは、何はともあれ、黒人がすべてをコントロールする会社として上々のスタートを切ったのですから…
公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。
NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)
50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。
SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)
マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。
SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)
1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。