6-10 ブラック・ナショナリズム再考ーーロバート・F・ウィリアムスと武装闘争

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20052月28日脱稿

今回のアップデートを行うまでに、2か月ほど時間をかけてしまいました。どうも申し訳ございません。さて今回は、「ブラック・ナショナリズム」の再考と、後に急進化していく黒人の運動をより深く理解するために、通常マルコムXと関連づけて理解されていくものをもう一度歴史実証的に考えてみたいと思います。そうというのも、60年代後半に巨大な影響を与えることになる、ある重要な人物をここまで登場させる機会がなかったからです。

広辞苑ではナショナリズムをこう定義しています。

民族国家の統一・独立・発展を推し進めることを強調する思想または運動

これは広く一般に語られるナショナリズムの定義としてはまったく問題はないのですが、「ブラック・ナショナリズム」の定義としては、少々矛盾する点があります。なぜならば、アフリカン・アメリカンによって育て上げられた「ブラック・ナショナリズム」すべてにおいて、「独立」を目指す傾向を認めることはできないからです。

以前、通例は宥和主義的黒人指導者の代表とみなされるブッカー・T・ワシントンは、「ブラック・ナショナリスト」の代表とみなされているマーカス・ガーヴィに強く影響を与えた人物であったということを指摘しました。ワシントンの思想は、白人と共存していくために黒人が自助努力をしなくてはならない、というところが肝腎なところです。彼の思想のなかに、黒人が「独立国家」を気づくという思想は微塵も見られませんでした。

60年代、アフリカでは独立国家が次々に生まれていきます。そのとき、そしてまた南アのアパルトヘイト政策打倒に当たって広く一般に用いられた運動のスローガンに"Africa for African"ということばがあります。これは、まだアメリカに奴隷制があった頃のアメリカ黒人の指導者、マーティン・ディレイニーが、アフリカ再植民計画を建て、それを実行に移すときに行った中央アフリカ「探検」の際に思いついたことばです。しかしながら、そのディレイニーにしても、南北戦争の結果、黒人奴隷が解放されると、独立国家の建設ではなく、アメリカ政治の改革に邁進することになり、サウス・カロライナ州の議員になりました。「ブラック・ナショナリズム」の「生みの親」、マーティン・ディレイニーにしてみても、終始一貫して「独立」を追究していたわけではないのです。

ここでもう一度、NOIの主張を振り返ってみましょう。必要のない重複を避けるためここでもう一度「10箇条の要求」は記しませんが、ここ、をクリックしてもう一度ご覧ください。たしかにNOIは第4条において分離独立した国家の建設を目標としています。しかし、その一方で、ひじょうに巧妙に、第7条において、独立国家が建設できないことを認めて、新たな要求をたてています。したがって、正確を期すれば、NOIの主張は、ことばの厳密な意味でのナショナリズムではなく、あくまでも分離主義なのです。

また、きわめて頻繁にマルコムXはマーティン・ルーサー・キングと対比され、「武装」を唱えた「最初」の黒人指導者というような理解がなされています。しかし、これも歴史実証的には不正確極まりないものです。

まずNOIの主張のなかのどこにも「武装」への呼びかけはありません。確かにNOIは、Fruits of Islamという武装警備隊を結成していました。しかしながら、これはあくまで「警備隊」であり、独立を求めて「蜂起」することを意図して組織されたものではないのです。

したがって、歴史実証的に、この時代において、もっとも早く武装を説いたものは誰なのかが改めて問題になってきます。それは、ノース・カロライナ州モンローNAACP支部の支部長、ロバート・F・ウィリアムスという、日本ではほとんど名前の知られていない人物です。日本では無名に近いですが、この人物は、また、マルコムXや後の「ブラック・ナショナリスト」に強烈な影響を与えた人物でもあります。

NAACPは通例保守的黒人運動団体と言われます。確かに60年代においても、この団体の主力は法廷闘争におかれ、デモやシット・インといった行動主義的なものではありませんでした。ロバート・F・ウィリアムスも、ここで誤解のないように記しておきますと、はじめから血気盛んな急進的活動家として運動に参加していたのではないのです。しかし、ウィリアムスは、南部白人優越主義者のテロが横行するなか、そのテロに抗するかたちで、NAACPから追放され、それゆえ孤立化するのを覚悟で「武装」を積極的に主張していくことになりました。

ノース・カロライナ州モンローでの闘争の焦点も、この当時のほかの南部公民権運動がそうであったように、学校や公共施設の人種隔離撤廃要求でした。その展開も、モントゴメリー・バス・ボイコットに酷似しています。モンローでの運動は、公営のプールの使用の許可を、NAACPが求めるということから始まりました。いきなり人種統合ではなく、穏健すぎるほど「控えめ」に、1週間のうち1日だけ使用できるように許可を求めたのです(でも、黒人は白人の7分の1の税負担でよかったわけではなく、同率の税率で課税されていたのです、言うまでもないことですが…)。この要求すら無視されると、運動は急進化し、一気に人種隔離の撤廃を要求することになりました。なぜならば、ブラウン判決により、人種隔離は違憲とされていたからです。法理からみた場合、この主張をとった方が合理的だからです。そしてまた、それがNAACP本部の遵法主義に合致していたからです。

しかし、ウィリアムスが率いた運動は、ひとつの点でこれまで紹介してきた運動とは大きくことなっていました。キングやSNCCの運動は比較的容易にメディアの関心を集めていたのですが、南部の農村部で行われている運動にはほとんど何の関心も払われなかったのです。

こうなると、公民権運動家にとってはとても厳しい状況が生まれてきます。メディアの光を浴びても暴力を奮うことを止めようとしなかった南部白人優越主義を奉じるものたちの力を抑制するものが何一つなくなる、ということです。その実、運動の中心になったものたちのところには、日々日々、銃弾が撃ち込まれることになっていったのです。

その暴力への対抗策として、ウィリアムスは、武装組織を結成し、「自衛」を行う決断をしなくてはならない立場に追い込まれていきます。これは、わけても遵法主義を貫くNAACP本部と大議論になり、彼はその結果、NAACPを追放されることになります。しかし、「武装自衛」は、明らかに効果があったのです。ウィリアムスはこう述べています。

NAACP本部は気づかなかったのだが、我々が行ったシット・インはひとつのことを証明した。それは、自衛と非暴力の運動とは同時進行させることができ、そうすることによって運動は勝利を勝ち取れるということである。南部では数多くのシット・インがあった。しかし、暴力沙汰が少なかったのは、ここモンローだ。ほかのコミュニティでは、ニグロの頭は叩き割られていた。しかし、モンローで行われたデモでは、ツバをかけられるものすらたったひとりもいなかったのだ。暴力沙汰が少なかったのも、ほかでもない、我々が反撃し、自らの身は自分で守る決意を示していたからだ。我々モンローのニグロは、ストリートの真ん中で白人優越主義者に向かって慈悲と慰みを請うようなものではない。我々は実力をもった人民であり、その力を誇示することによって平和的関係が維持され、かくして互いの人種集団にとって利益となるのである。

このような大胆な主張をするウィリアムスは、しかし、南部白人至上主義者だけでなく、連邦政府からも弾圧されることになっていきます。モンローでの人種関係が緊張を増していた日、彼は白人夫婦を「誘拐」したという嫌疑をかけられ、FBIから指名手配されることになります。ところがこの「誘拐」、後に判明したところによると、とんでもないでっち上げでした。この当時、モンローの黒人コミュニティには、KKKを始めとする極右の白人優越主義者団体が日々威嚇のために車で通り抜けていました。そのようなある日、「クロンボ猟解禁中」というバンパーステッカーを貼った車が黒人コミュニティにやって来たところ、戦闘性を増していた黒人市民がこの車に乗っていた白人夫妻を包囲し、一触即発の事態が起きます。ウィリアムスは、この白人夫妻を助けだそうとして彼の自宅に連れていったのですが、何とそれが「誘拐」ということになってしまったのです。かくして指名手配されたウィリアムスは、とにかくモンローから逃れざるを得なくなります。そんなウィリアムスをニューヨークで彼を迎えた人物のひとりにマルコムXがいたのです。

さて、そんなウィリアムスは、「ブラック・ナショナリズム」についてこのようなことばを残しています。

これ[ブラック・ナショナリズム]は、人の誤解を招くことばである。まずこのことを忘れないで頂きたい。わたしはアフロ・アメリカンであり、合州国の主流社会で生きることをその社会が拒絶し続けてきたのだ。アフロ・アメリカンだからというだけで、拒絶され、差別されてきたのだ。

つまり、ウィリアムスの心中にあったのも、アフリカン・アメリカンの「独立」ではなかったのです。そんな彼が好んだことばがインターナショナリズム、国際主義でした。そして、1961年の時点ですでに、アメリカにおける黒人の迫害を国連の場で裁いてもらうことを計画していたのです。このプラン、実は晩年のマルコムXが実行しようとします。マルコムがウィリアムスから強烈な影響を受けていたのは、したがって、まちがいありません。

その後のウィリアムスはカナダを経てキューバへ亡命、そこから、第2次世界大戦時にイギリスへ逃れたドゴール将軍よろしく、"Radio Free Dixie"というラジオ放送を開始し、アメリカの黒人に自衛のための武装を呼びかけます。そのような彼の行動は、わけても黒人青年に強い影響を与えることになりました。

では、ウィリアムスは、公民権運動が生んだ最大の英雄、キングをどのように思っていたのでしょうか。彼はこう述べています。

キング博士とわたしのどこが違うかというと、それは、自由を要求する闘争の路線選択にあたりわたしの方がより柔軟だというところにある。もし非暴力が有効な手段である場合ならば、わたしはそれを奉じるだろう。わたしがシット・インで逮捕され起訴されていることからも、そのことは周囲の人も理解してくれると思う。平和的なデモが行える市民的権利を保障してくれる法的セーフガードが整備されている文明化された社会ならば、巨大な市民的不服従運動は強力な運動になり得る。文明化された社会ならば、民主的過程を破壊しようとする無法者の行為に対し、法が抑止力として機能してくれるのだ。しかし、法的秩序が崩壊しているようなところでは、個々人には自衛の権利があるし、自らの家族、家、財産を守る権利がある。

つまりウィリアムスにとって60年代初頭のアメリカ南部は「文明社会」なぞではなかったのです。わたしは、先に白人優越主義者の「テロ」という表現をしました。法的秩序が確立していないところで、恐怖による統治を行うために使われる実力、そういう意味でわたしはこのことばを用いました。しかし、まぁわかりきったことかも知れませんが、連邦政府は南部に軍隊を派遣し、「民主的選挙」を実施させるどころか、この法秩序確立のために闘っていた人物を訴追したのです。

他方、キングはどうか?。キングはオールバニーの運動で大敗北を喫したばかり。そんな彼にかつてなく必要になっていったのが、非暴力直接行動の利点を「立証」することでした。そこで、彼と彼の団体SCLCは、ある巨大な作戦を実施していくことになります。

さて、これで公民権運動開始期の解説は終わりました。次回から、新しい部、60年代の中葉期に入っていきます。

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公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。