5-3 出遅れたナッシュヴィルーー非暴力直接行動とは?
赤字は重要ポイント、青字はリンク
2003年3月17日脱稿
グリーンズボロでの行動がミシシッピを除く全域に拡大するなか、運動の興隆に胸を躍らせつつも、どこかでほぞを噛む思いをしていた人びとがいます。それは、テネシー州ナッシュヴィルにある黒人だけが通っていた大学、フィスク大学の学生たちでした。なぜなら、フィスク大学の一部の学生は、シット・インや不買運動のような手段がもっとも効果があがるように、2月ではなく、イースターのショッピング・シーズンにあわせ3月にシット・インを敢行しようとすでにプランを練っていたのです。ちなみにフィスク大学は、黒人のイェール大学(黒人のハーヴァード大学はワシントンD・Cにあるハワード大学)と表現してもいい、高い権威を持つ名門大学であり、したがってそこの学生は次の黒人の「エリート」予備軍なのです。
このグループの中心人物は、当時フィスク大学の神学部で非常勤の教官として教鞭をとっていたジェイムス・ローソン(James Lawson)牧師です。1968年、テネシー州であのマーティン・ルーサー・キングが暗殺されますが、そのとき彼のそばにいたのがこのローソン牧師にほかなりません。そして、そのローソン牧師が学生に説いていたのが「非暴力直接行動」の意味でした。
モントゴメリー・バス・ボイコット事件の経緯を述べた際、マーティン・ルーサー・キングが運動開始のあとで非暴力の理念を学んだという事実に触れました。他方、ローソンの場合は、イギリスに本部がある平和主義者の団体、Fellowship of Reconcilliation(FOR)の奨学金で、独立闘争を戦っていたインドに赴き、マハトマ・ガンディ本人から直接非暴力直接行動の方法論・理念を学んだ人物です。その人物が1959年よりフィスク大学でインドの経験をもとに来るべき闘争ためのトレーニングを行う、〈非暴力ワークショップ〉を開催していました。
さて非暴力といっても、それには大きくわけて二つの考え方があります。ひとつが、非暴力を生活の律する指針とし断乎として暴力を行使しない、とするもの。このような発想は、たとえば生命を奪うことによって可能になる肉食を否定し、菜食主義をとるようになります。ガンディが説いた非暴力とはこの意味になります。それは、暴力を行使するものが罪の意識に目覚めることを促し、より良い世界の構築を目指すとする戦略であり、暴力を行使するものを「敵」とはみなしません。そしていまひとつが、政治闘争の戦略として非暴力を用いる、とするもの。非暴力は相手の暴力を挑撥するという点において、暴力とマス・メディアの報道にその有効性がかかっているものです。モントゴメリーの黒人市民が採用したもの、E・D・ニクソンのような労働運動家が採用した非暴力とは、この意味になりますし、ガンディとともに独立闘争と闘いつつも、独立インドに軍隊を創設した初代首相ネルーの非暴力もこちらの意味になります。
一般的に、ローソンは前者の非暴力を説いていたとされ、マーティン・ルーサー・キングはこの両者のあいだで揺れ動いたとされています。キングのその「揺れ動き」には、このシリーズを通じ、後に言及します。
さてその〈ナッシュヴィル・グループ〉は、グリーンズボロ以後の進展を受け、急遽、シット・インとボイコット開始のプランを前倒しで実行します。ローソンのワークショップでは暴力への対応法も教えていました。殴られた場合は、そのまま立っているのではなく、頭部を手で被って地面に倒れ込み、膝を腹の前にたたみ込んで腹部を防御する、等々のまったくもってして現実的な「訓練」がなされていたのです。
したがってすでに「訓練」が進行中であった、ナッシュヴィルでの運動は、最初から計画された大規模なものになります。ナッシュヴィル・グループがシット・インに踏み切ったのは2月13日、グリーンズボロから遅れること12日ですし、この時点ではすでにシット・インは大規模な運動になっていました。ところが、多くの自発的・自然発生的シット・インが数名の勇敢なものによって決行されるのに対し、ナッシュヴィル・グループの場合、初日ですでに120名を動員した大規模な運動を展開したのです。
そして、非暴力を生活を律する方針とみなす非暴力主義者の学生の中核は、シット・インの現場で非暴力の理念を書き記したビラまで用意していたのでした。右にある写真は、このビラを制作した学生、ジョン・ルイス(John Lewis)が、人種隔離条例違反・治安紊乱で逮捕されたときの模様です。
ここでこの逮捕がルイスの人生においてどれだけ重い意味があったのかを想像してください。彼は、黒人社会では名士にあたる牧師の息子として生まれ、エリート大学で神学を学んでいた人物です。そのエリートが、道義的に許せない法律に立ち向かった。その行為はさまざまに解釈されるでしょうが、普通に生きていたら監獄など縁のない人間が、あえて逮捕される危険を冒したのでした。【注】
南部警察による暴行、運動とは関係のないほかの黒人たちとの牢獄での親交、これらは運動参加者たちが新たなアイデンティティを築く大きな契機となります。何よりも同じ運動家と「くさい飯」を喰うことは、彼ら彼女らの「団結」をより強固なものにしたのです。
さらにまた、ナッシュヴィル・グループは、逮捕や暴力的弾圧といったことを事前に予測し、市長との会談を要求することはもちろん、記者会見を行う、いわば運動の司令塔のようなものももっていました。その司令塔の中心人物が、このあとの運動で信じられないほどの勇気と決断力を示す黒人女性、ダイアン・ナッシュ(Diane Nash)です。
当時のドキュメンタリーを見ると、必ダイアン・ナッシュは登場してきます。シカゴという都会生まれの彼女は、他の南部出身の学生と較べると、よりはっきりとした発音で意図のはっきりした声明を何度も読み上げます。多くのカメラに囲まれながらも、そのような彼女に臆するようなところなど微塵もみられません。残念ながら動画のストリーミングをどうすればいいのか、ちょっといまのわたしにはよくわかりません。ここで彼女の勇姿をお見せできないのがとても残念です。興味のある方、関東圏の方々なら、東京大学駒場キャンパスにあるアメリカ太平洋地域研究資料センターに行けば、その映像が見られます。ドキュメンタリーのタイトルはEyes on the Prizeです。
上に述べたように非暴力といってもその内容は多岐にわたるものですが、ここに来て黒人の抵抗運動はひとつの大きな転回をしました。モントゴメリー・バス・ボイコットでは、ボイコットという手段ゆえに、人種隔離がされている場から離れることが人種隔離体制への反対の意思を表明することでした。この戦略では活動家が逮捕されるようなことは、別件の罪状をでっちあげない限り無理です。モントゴメリー・バス・ボイコットもシット・インもおなじ非暴力を戦略としながら、シット・インの場合は、しかし、人種隔離がなされている場への「突撃」が戦略となります。それゆえ、上のジョン・ルイスのように、逮捕されてしまう。したがって、シット・イン参加者たちは、逮捕されるという事態を覚悟し、その行動に移ったのです。運動は明らかに急進的な方向に転回したのでした。モントゴメリー・バス・ボイコットを非暴力の運動とするならば、シット・インの場合は非暴力直接行動といわれます。
さて、前項で説明したエラ・ベイカー、その彼女が4月に集める大会には、人種隔離の即時撤廃という目的を共有しつつも、生きている環境が異なり、それゆえに経験も異なる多様な集団が集まることになります。そうして、学生非暴力調整委員会(SNCC)という急進的な学生団体が誕生するのです。次回はその結成大会の模様!。
【注】彼は、運動の進展に伴い、その後何度も逮捕されますが、現在はジョージア州選出の連邦下院議員を務め、現在はブッシュ政権のイラク侵攻を止めようと再びストリートで運動を始めています。最近の反戦運動に関しては、次回「エッセイ」のコーナーで取り上げます[もとへ戻る]
公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。
NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)
50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。
SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)
マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。
SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee, 「スニック」と発音)
1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。