6-6 激化する白人優越主義者の抵抗 ーー ミシシッピ大学の人種統合

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20048月30日脱稿

 

カーラ・トーマスのGhee Whizがビルボードヒットチャートにランクインする2日前の1961年2月4日、ミシシッピの黒人のジェイムス・メレディスは、入学を希望していたミシシッピ大学から不合格の通知を受け取りました。不合格の表向きの理由は、願書の提出が締め切り日を過ぎていたこと。しかしながら、彼の成績が不合格の理由ではなかったのです。この当時のミシシッピ大学は、高等教育機関というよりも、むしろミシシッピの上流階層が親交を深める場、ミシシッピだけで通じるステータス・シンボルであり、そこの黒人が加わることなど、ミシシッピ大学当局には許せるはずがなかったのです。

その実、過去にはこんな悲惨な事件もありました。1959年、クライド・ケナードという名の黒人が、別のミシシッピの大学、ミシシッピ・サザン・カレッジに入学願書を提出しました。そうすると、まず彼は交通違反と酒類違法所持の微罪で逮捕されるという嫌がらせを受けました。それでも教養を身につけようとする彼の意志は固く、再度カレッジに入学の申請を提出します。そうしたところ、何と鶏の飼料の餌を盗む「謀議」をはたらいたーーつまり実際に犯罪を起こしたわけではないーーという廉で起訴され、懲役7年の実刑判決を受けてしまったのです。(その後、1963年に彼に恩赦が下りますが、時すでに遅く、癌を患っていたために釈放後まもなく亡くなってしまいます)。

この「ケナード事件」が意味することはひとつ。白人のように振る舞おうとした黒人は、その意志をもっただけで抹殺される。ケナードは、その「見せしめ」にされたのです。

ここで改めて南部の地政学を整理しておかなくてはなりません。これまで何度も触れてきたメンフィスのあるテネシーは、ヴァージニア、メリーランドなどとともに、北部と南部の境にあるという意味から、「境界州」と呼ばれます。当時のジム・クロウ体制のもとで、これらの州における人種的抑圧が厳しくはなかったとは形容はできませんが、それでもジョージア、アラバマ、ミシシッピなどの「深南部」とは質的に大きな違いがありました。エメット・ティル・リンチ事件がミシシッピで起きたことをここで想起してください。境界州で「嫌がらせ」の対象となるものは、深南部では「死」を意味した、そう形容してもまちがいではありません。わけてもミシシッピは、アラバマとジョージアと比較しても、さらに抑圧が厳しいところだったと言われています。その実、SNCCが結成されたとき、南部のなかでミシシッピ州だけ、代議員を派遣していなかったのです。

ところが、60年代公民権運動の興隆は、ミシシッピの黒人をも運動へと駆り立てていきました。ジェイムス・メレディスの弁護を、ブラウン判決の際に弁護団のリーダーを務めた人物、NAACPのサーグッド・マーシャルが務めることになったのです。ここでNAACPが援助の手を差し伸べてきたのには理由があります。NAACPは、直接行動を主な戦略としているSCLCやSNCCとは異なり、法廷闘争や議会でのロビー活動を中心に活動している団体です。さらに、公的資金を使った教育においては、人種隔離を違憲とするブラウン判決みならず、その4年前の1950年、テキサス州立大学とオクラホマ州立大学に対し、人種隔離を違憲とする判決が下っていました。したがって、方理論上、ミシシッピ大学の行っていることが違憲判決を受けるのは明々白々だったのです。それゆえ、ミシシッピ大学側が、メレディス不合格の表向きの理由を人種ではなく締め切り日を過ぎていたということは、自らが行っていることが違憲にあたると自覚していたからにほかなりません。

かくしてメレディスは、Ghee Whizヒットチャート登場の翌日にあたる2月7日には、連邦司法省へ事態への介入を求める書状を提出するに至ります。それと同時にNAACPは、ミシシッピ州大学の行為の合憲性を問う法廷闘争を開始します。これに対して連邦最高裁判所は、大学当局の行動の違憲性がいかに明らかであったかを示すがごとく、公聴会を開かずに、1962年9月10日にはメレディスの入学を大学当局に要求する法廷命令を発布します。(実のところ、60年代から70年代初頭にかけて、もっともリベラルな行動をとったのは、大統領でも議員でもなく、裁判官、つまりは司法です)。

ところでこの命令を書いたのはヒューゴ・ブラックという名の判事でした。彼の連邦最高裁判事としての経歴は、この国の人種関係の複雑さを物語っています。彼の出身はアラバマ、しかもかつてはキュー・クラックス・クランのメンバーでもありました。それゆえ、彼の連邦最高裁判事任命にあたってNAACPは猛烈な反対運動をした経緯があります。その一方、南部の政治経済面での改革を推進するリベラル派でもありました。彼を判事に任命したのは、フランクリン・デラノ・ローズヴェルト大統領ですが、ローズヴェルトは、南部保守派を懐柔することもでき、且つ自分の政策を支持してくれる人物としてブラックを登用したのです。そうした結果、NAACPの不安まったくの杞憂、一貫してリベラルな判決をくだしていくことになったのです。

さて連邦裁判所が命令を出したとなると、行政府はその裁判の命令を実行しなくてはなりません。こうして、1962年の学校年度が始まる9月、全米はおろか全世界の耳目がミシシッピ大学に集まることになったのです。

ここで重要なことがひとつあります。それは、高等教育における違憲判決は1950年に出ていたのにもかかわらず、実際の人種統合は一向に進んでなかったということです。進むどころではなく、ブラック判事の命令が発布された3日後には、アラバマ州知事ロス・バーネットが地元テレビ局に出演し、ミシシッピ州立大学の人種統合に反対する演説を行いさえしました。法律の文言は、事実を何一つ示しはしません。法に刻まれた精神を現実にするには、まずは何よりも行政府の権威と力により法は初めて「秩序」となる。そして、ここまで見てきたとおり、人種関係におけるアメリカ政府の行動は、突かれて初めて動くというものでした。一方、メレディスもケナード事件のことは知っていたのであり、ミシシッピ大学、さらには州政府と対立することの危険性は熟知していました。しかし、その恐怖を乗り越えて動きはじめたとき、深南部ミシシッピの秩序はゆっくりと変化し始めたのです。

ここまでの事態の展開で、この既発表エッセイをお読みの方は似た事件を思い浮かべられた方がいらっしゃるに違いありません。そうです、この展開はリトル・ロック事件のときと酷似しています。バーネット知事が連邦政府の権威への反抗を訴えたこと、これはミシシッピの白人優越主義者を鼓舞することとなり、大学のある町、オクスフォードにはそのような信条をもつ暴徒が集結することになります。その結果、今度はミシシッピ州当局が事態が暴力的事件に発展するのを恐れ、メレディスの入学をオクスフォードではなく、州都ジャクソンで行うと決定します。メレディスはこの方針に従ったのですが、これは単なる「時間稼ぎ」に過ぎなかったことが9月25日に判明します。

こうして26日、連邦保安官に護衛されたメレディスは、ミシシッピ州大学キャンパスに足を進めることになりました。しかし、大学の門で待っていたのは、何と副知事ポール・ジョンソン。副知事自らが体を挺して人種隔離を守ろうとしたのです。メレディスとNAACPは、合州国憲法という強力な味方をバックにそれでも怯まず、ミシシッピ大学の人種隔離の打破します。州当局の行為を第5巡回控訴裁判所に訴え、裁判所は州知事に出廷を命じますが、州知事はそれを拒否、その結果、州知事が法廷侮辱罪で有罪判決をうけるという事態になったのです。

このような州当局の行動は、暴徒を勇気づけるだけに終わりました。以後3日間にわたってオクスフォードの町を暴徒があれ回ることとなり、その結果、フランス人ジャーナリストが死亡するに至ります。運動の過程で死者がでたのはこれが初めてのケースではありません。しかし外国人が「巻き込まれた」のはこれが初めてであり、アメリカの国際的イメージは、よって、一気に「汚れたもの」になってしまいました。

時代は、ゆっくりと、しかし確実に変化していたのです。メレディスの入学を堂々と人種を理由にしなかったこと、この時点ですでにミシシッピ州当局は守勢にまわっていました。そのような理由が通用しないこと、それがわかっていたからこそ、締切を過ぎたという「言い訳」を考えたのです。かといってしかし、「世論」がそのようなことを許さなくなっていたわけではありません。「世論」は政府に訴えるものであり且つ政府が創りだしていくものでもあります。州当局の行動は、この後者の役割を担ったものだと解釈することができるでしょう。ミシシッピ州民は人種統合に反対している、そのメッセージを強く打ち出したのは、そもそも州政府が反抗を促したからにほかならないのです。 したがって、白人の人種統合に対する抵抗の激化は、自然に起きた現象では断じてなく、促され形成されたものだったのです。

彼は行ったのはオクスフォードの町
それを追いかけてきたのは銃と棍棒
なぜって、それは彼の顔が黒いから
オクスフォードの町には近寄らない方が良い

オクスフォードの町は狂気沙汰
大学の門まで来たが、彼は中に入れない
なぜって、それは彼の顔が黒いから
これ、いったいあんたはどう思う?

こう歌にのせて問いかけたのは、エメット・ティルのときと同じく、ボブ・ディランです(「オクスフォード・タウン」、「風に吹かれて」と同じアルバム、Free Wheelinに収録)。さて、ここに実に奇妙な重層的情況が見えてきます。ジェイムス・メレディスのミシシッピ大学入学の時期とスタックスの初ヒットの時期の一致、ジェリー・ウェクスラー、NAACP、ジョン・ハモンドとディラン、等々。これは単なる偶然の一致とは思えません。この時代を表象の連鎖なのです。

ここで、また、ひとつの疑問が浮かぶでしょう。では、時事問題をとりあげたR&Bシンガーはいないのか?。実は、R&Bシンガーが強烈なメッセージを歌詞に直接込め始めるにはまだ時間を待たねばなりません。しかし、ディランのような人物の存在は、章を改めて紹介しますが、黒人ミュージシャンたちに確かに大きな衝撃を与えていました。そこに入る前に、黒人の運動の複雑さをご理解いただくため、いましばらく運動の模様を追ってみます。ここまでほんとうに長い時間がかかりましたが、10月に発表のこのシリーズのエッセイでは、わたしの経歴のスタート地点に立つあのカリズマに初めて言及することができそうです。乞うご期待!

 

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公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。