6-4 アトランティック・レコード Part 1 ーー 二人の奇妙な男たち

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20046月28日脱稿

前にこのコーナーのエッセイを発表してから、なんとおよそまるまる3か月が経過してしまいました。その間、何度もご訪問された方々に、改めてお詫び致します。

さて、前回では、60年代公民権運動の精神と関連して語られることもままある黒人所有のレコード会社、モータウン・レコーズ発足の顛末についてお話しました。今日は、マス・メディアの中心地、ニューヨークに拠点を置くレコード会社、アトランティック・レコードの発足時から60年代までの歴史をみていきます。この2つのレーベルがいかにリズム・アンド・ブルーズの世界で大きな存在だったのかを簡単に示します。

右の表は、1942年から1988年までのあいだに、『ビルボード』誌のR&Bチャート40位入りしたヒット曲の数ですが、2位を大きく引き離しアトランティック・レコードがトップになっています。10位のTamlaは、スティービー・ワンダーやマーヴィン・ゲイの楽曲を発売していたモータウン・レコーズ傘下のレーベルなので、実質としての2位は、コロンビアではなく、579曲のヒットを持つモータウン・レコーズということになります。つまり、両者併せたヒット曲の数字は、1,197曲という圧倒的数字にのぼります。

そこでまず指摘しておきたいことは、モータウンの経営・所有・制作が黒人「だけ」に握られていたのに対し、アトランティック・レコードの場合、少なくとも1960年までは、非黒人が経営・所有・制作を行っていたということです。したがって、この二つの会社は、前者が「黒人によるホンモノの音楽」を、後者が「非黒人によるマガイモノ」を提供していたという二項対立図式を描きやすいのですが、ところがどっこい、出てきた音楽はまったくそうではありませんでした。

今回のBGMでかかっている曲は、同社がヒット曲を連発し始める嚆矢となった、ビッグ・ジョー・ターナーの名曲、 "Shake, Rattle and Roll"Joe Turner - The Very Best of Joe Turner - Shake Rattle and Rollです。この曲がチャートをかけあがったのが、1954年5月。ん、ここでもうお気づきの方もいらっしゃるでしょう、プレスリーが荒々しい黒人ぽい声で "That's All Right" エルヴィス・プレスリー - That's All Right - Single - That's All Right録音したのは、伝説によると、1954年の独立記念日の次の日、7月5日から2日間。ロックンロールの「原型」とも言えるこの曲は、したがって、キング・オヴ・ロックンロール、プレスリーに先んじていたのです。映画『フォレスト・ガンプ』では、プレスリーが腰の振り方とステップの刻み方を、トム・ハンクス演じる、足が不自由な少年から学んだということになっていますが、彼が、R&Bの髄を、メンフィスへ巡業にやってきたビッグ・ジョー・ターナーから学んだという方が遙かに説得力ありますーーそれが、今のところ実証を欠いた、臆見であることは認めますが…。

アトランティック・レコードにその先見の明があったのは、ひとえに創業者で社長のアーメット・アーテガン、後に経営陣に参加し、制作畑で大活躍したジェリー・ウェクスラーという二人の奇妙な男がいたからです。では、社長のアーテガンから、その来歴について説明していきましょう。

ここまでわたしは一貫してアトランティックの創立者のことを非黒人と記してきました。それには理由があります。アーメット・アーテガンは、アメリカ白人でもヨーロッパ人でもなく、トルコ人なのです。1934年、父親が駐米大使に任命されたのを機会に、家族はワシントンD・Cに移り住みました。1934年という年は、フランクリン・D・ローズヴェルト大統領のニューディール政策が実施に移され、大恐慌のなかにありながらかすかな希望の灯が光り始めた年です。恐慌期、ローズヴェルト、ニューディール、これらの政治経済的情況のもとで、流行していたのが、ひとつはディズニー映画であり、いまひとつが社会的認知を受けたスウィング・ジャズでした。そして、ワシントンD・Cは、ニューヨークとならび、もっともホットなスウィング・ジャズが聴ける場所のひとつだったのです。青年アーメットは、トルコでは耳にしたことのないこの音楽に出会い、その虜になっていきます。ジョージタウン大学の学生になる頃、彼の78回転レコードのコレクションは、1万5000枚に達しました(やっぱり大使の息子、「放蕩」ができるお坊ちゃんだったんですね)。さらに学生時代には数々の音楽イベントの企画を立案・実施し、そのなかには、大学キャンパス内でレスター・ヤングやシドニー・ベシェットといった、ジャズの巨人のコンサート開催といったものさえあります。そんな彼がレコード・ビジネスの世界に飛び込む決意をしたのは、至極当然のことといえます。

1947年、アーテガンは、トルコの歯科医の資金援助を受け、実弟と二人でアトランティック・レコードを設立します。トルコ人が資金を出していたこと、これは音楽面で大きな利点となります。資金提供者が遠くにいるものですから、日々の経営にうるさくいってくることがありませんでした。そのあいだを利用し、アトランティック・レコードは「良い音楽」を目指して活動を続けたのです。そして、アーテガン自身が非白人であったため、黒人ミュージシャンの扱いにもぞんざいなところがなく、当時の大手のレコードがだいたい2%の印税を支払っていたところ、アトランティック・レコードは3から5%を支払い、そのことがまた黒人ミュージシャンのあいだでのアトランティックの評価を高めていきました。

モータウンが黒人の音楽だけを専売していたのに対し、アトランティックが抱えたミュージシャンは実に多彩でした。右にあるのは、アトランティックのレコードラベルですが、わたしがこのラベルを初めて見、手にしたのは、何とレッド・ツェッペリン(!)のレコードでした。アトランティック・レコードとブリティッシュ・ハード・ロックとの関係については、いずれ詳述しますが、60年代の時期に限っていいますと、クリームが一時期アトランティックに在籍していました。そのようなレコード・レーベルには、また、ディジー・ガレスピーのようなジャズの巨人もいたのです。

このアトランティックの音楽的指向性を大きく変化させたのは、『ビルボード』誌で記者をやっていたジェリー・ウェクスラーが経営に参加した1953年以後です。

ウェクスラーは、ニューヨーク生まれのニューヨーク育ち。彼もまたもっともホットなスウィング・ジャズが聴ける場所で成長しました。そんな彼が、アメリカの人種関係の歴史に残ることを初めて行ったのは、1949年のこと。

この当時、黒人の音楽は「レイス・ミュージック」Race Musicと呼ばれ、その呼称には侮蔑感が込められていました。ウェクスラーは、その侮蔑感を良しと思わず、「リズム・アンド・ブルーズ」という名を考案し、『ビルボード』誌で公式に使い始めたのです。そんなウェクスラーに社長のアーテガンが指示したことは、黒人市場を狙った音楽を制作することでした。アーテガンには、このコーナーでも詳述しました、黒人購買力の上昇を見る目があったのです。

ところがそんなアーテガンにも予測できないことがアメリカで起きていました。初期のアトランティック、とりわけウェクスラーに「発掘」「発見」されて契約したものたちのなかには、クライド・マクファーターやドリフターズ(いかりや長介のではなく、後にベン・E・キングをリードヴォーカルにするコーラスグループ)、ルース・ブラウンに、かのレイ・チャールズが、通常12小節のブルーズを16小節にし、黒人音楽の世界はおろか、アメリカ文化、そして世界の音楽を大変革させることになった"I Got a Woman"を発表するのもアトランティックから(1954年)です。

こうしてアーテガンとウェクスラーはひとつの大きな変化に気づきました。黒人の音楽は白人に売れる、クロスオーヴァーする、と。

かくして、非黒人のレコードレーベルがリズム・アンド・ブルーズの名曲を数多く録音し発売することになったのです。

アトランティック・レコードの制作現場、会社内の人物関係は、アメリカの人種関係を見ていくうえで、とても貴重な窓を提供してくれます。南部では人種統合をめぐり人種間対立が暴力沙汰にまで発展していたとき、黒人が書いた原曲に白人が弦楽器のアレンジを加え、北部で育った黒人が、「南部の香り」を身につけようと、わざわざ南部に向かい、そして白人と一緒にスタジオに入っていた、そんなことが起きることになるのです。

次回は、そんな複雑な人種関係を具体的に見せてくれる場所、メンフィスに向かいます。もちろんエルヴィスの邸宅をみるためではなく、60年代初頭に起きた創造的音楽制作の現場と人種関係をみるために。

注:ジェリー・ウェクスラーの自伝によりますと、アトランティック・レコードは、サン・レコードから移籍することを決めたエルヴィス・プレスリーの契約をめぐり、RCAと争奪戦を繰り広げたそうです。アトランティックは3万ドルを提示したそうですが、その資金を調達する当ては、新興レーベルゆえにどこにもなかったそうです。ちなみに契約を射止めたRCAが提示し、支払った金額は、当時としては破格の4万ドル。[本文にもどる]

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公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。