2-2. 〈黒い声〉−−ミシシッピ発
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2000年11月4日脱稿
1977年8月16日、“キング”が亡くなりました。マーティン・ルーサー・キングではありません、彼は1968年4月4日にすでに帰らざるひとになっています。ロックンロールのキング、エルヴィス・プレスリーです。場所はメンフィス、ダウンタウンから西に車で20分、いまは同市の観光名所になっているプレスリー邸、“グレースランド”で。
そうです、これはポール・サイモンのグラミー賞アルバムのタイトルになった場所。そして10代の頃のブルース・スプリングスティーンが、友人のスティーヴ・ヴァンザンドと、塀をよじ登って忍び込もうとした場所(これであなたは尾崎豊の世界をイメージするのでしょうか、それとも山下達郎の世界をイメージするのでしょうか?、掲示板にでも書いてください)。
話をもとに戻します。プレスリーの葬儀には50年代からの熱狂的ファンが当然集まりました。そのファンのほとんどが白人。いまもグレースランドを訪れるものの圧倒的多数が白人です。この街は、エドワード・H・クランプという名のボス政治家の黒人の抑圧と白人有権者への利益誘導政治によって長いあいだとして牛耳られ、人種関係も必ずしも良好だとはいえない街でした。ロックンロールのキングが死んだのもこの地ならば、マーティン・ルーサー・キングが暗殺されたのもこの地です。しかし人種対立の新聞ネタは数多くても、静かに人種間の交流が進んでいました。それを垣間見させてくれるのが音楽にほかなりません。この土地は、サム・フリップスという伝説的音楽業界人が作ったサン・レコードのスタジオもあれば、1960年代後半にポップチャートにクロスオーヴァーするR&Bレコード会社、スタックスの本拠地でもあるのです。
さて、その膨大な数の白人の弔問客がかけつけた“キング”の葬儀で、“キング”の亡骸が入った棺を担いだ6人の男のなかのひとりは黒人でした。メンフィスでは今日でも慣習的に黒人の墓地と白人の墓地は別々のところにあり、長く続いた〈人種隔離政策〉の痕跡をいまでもとどめています。にもかかわらず、“キング”の棺を運ぶ名誉を与えられて黒人がいました。棺のなかに眠っているのが“キング”なら、棺を担いだその黒人は、広く〈ショービジネス界いちの働きもの〉と呼ばれた人物。そう、〈ソウルのゴッドファーザー〉、ジェイムス・ブラウンだったのです。ブラウンはプレスリーの熱心なファンでした。〈ソウルのゴッドファーザー〉が認めた声、それは白人のものだったのです。
そこで、50年代中ごろのメンフィスのムードを回顧し、スティーヴ・クロッパーという名の白人はこう述べています。
R&Bとは、黒人のために歌われていた、黒人のコミュニティがつくった音楽だったんだ。当時のひとがブルーズと呼んでいたものにちょっとばかり変化がついたものだった。それはいかしていたけど、そのいかしかたがちょうどよくて、人がついていけないようなものでもなかったんだ。モータウンの曲なんかとも違っていたね。ああ、そう、ここで言っておくけど、モータウンは、オレに言わせりゃ、白人の音楽だ。R&B、黒人音楽、それはオレの感覚のなかでは、ジェイムス・ブラウン、ハンク・バラード、リトル・ウィリー・ジョンらが演っていたやつさ。
そして、驚くことに、『ブラウン』判決後南部では人種関係が険悪になっていたのにもかかわらず、クロッパーが住んでいたメンフィスでは、「黒人たちと街をぶらつき歩くことやつが、いちばんヒップなことの証」だったのです。
ここに狭義の政治概念では捉えられない、複雑な人種間の交流がみてとれます。表面上は対立しているようで、しかし、若者たちは「黒人と街をぶらつく」、つまり活発に交流していたのでした。
メンフィスから南に車で2時間、トゥペロといううらびれた町があります。州境を越え、その町はミシシッピ州にあります。右の図でいうと、メンフィスから南東に走るハイウェイにのって、いちばん端にある紫色の家のマークがあるところがトゥペロです。
このミシシッピという場所はとんでもないところでした。1960年、ミシシッピ大学の社会学者ジェイムス・シルヴァー(白人)は、ミシシッピでの黒人抑圧とその抑圧が何の法的制裁を受けることなくなされていることを告発し、『ミシシッピ、外に門を閉じた社会』という本を著しました。これはすぐに州政治の大物の目にとまり、先週の号で紹介したとおり、KKKや〈白人市民会議〉が擡頭する環境の中、ミシシッピ大学へのプレッシャーが高まり、彼は大学から解雇されました。人種的テロと言論の抑圧、そして民主党の一党独裁、これがミシシッピの特徴だったのです。この州は南部の中の南部、とんでもない州なのです。マグノリアの森には黒人のうめき声が響いているようで、ウィリアム・フォークナーの小説のおどろおどろしさはミシシッピのこのような環境が生んだものなのです。この州に入ると別世界に来た感じがします。19は〈ナインティーン〉とは発音されず、〈ノインティーン〉と聞こえます。そんな州で育ったド田舎者がプレスリーだったのです。メンフィスは、トゥペロからいちばん近い大都市だったのです。(大都市といっても日本各地の県庁所在地くらいの規模ですが…)。プレスリーが南部の田舎者だったこと、これが彼の音楽に強い影を与えます。とくにサン・レコーズ時代の楽曲はそうです。(詳しい説明は次回に残して起きます、また足を運んで、いやこのサイトをブックマークしておいてください)。
わたしはプレスリーの通った道をたどり、メンフィスに行ったことがあります。グレイハウンド・バスで。東京からメンフィスに行くと、小規模な原宿のような感じがしてそれほど浮かれはしないのですが、アトランタとニューオリンズを除くと田舎町ばかりの南部を旅して、メンフィスに着くと、浮き浮きしてきます。グレイハウンドの駅の前には、この街でも有名なホテルが並び、観光もしやすいです。これ、グレイハウンドにしては珍しいことです。大抵、グレイハウンドのバス・ディーポは人の寄りつかないところにありますから。そして、そのバス・ディーポの裏手にある通りが有名なビール・ストリート。きっと田舎者のプレスリーも、その昔、浮き浮きしたに違いありません。
[1]スティーヴ・クロッパー。ご存じの方ももちろんいらしゃいますが、予告。彼は60年代中頃から一世を風靡するスタックス・レコーズ専属のバンド、Booker T. & MG's のギタリストです。黒人研究者の方、ここでBooker T. という名前にちょっと反応されたと思います。それは後にスタックス・レコーズに関する章で詳述します。[本文に戻る]
[2] ブルーズ。細かいことですが、Bluesをブルースとするのは誤りです。正式な発音はブルーズです。このシリーズでは最初にも書きましたように、議論の水準は落とすつもりはありませんので、ちょっと拘ってみます。[本文に戻る]。
[3]モータウン。これも別の章で、たぶん1章以上割いて詳述します。このレコード会社に関して、魅力的な歴史を書くこと、それが私の夢、そしてR&Bやソウルへの恩返し。簡単に説明しておきますと、歴史上最大のアメリカ黒人の企業で、60年代を代表するレコード会社です。マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダーなどのソウル・ジャイアンツはここの出身です。この夏まで90年代にいちばん多くレコードを売ったバンド、Boyz II Menも在籍していました。[本文に戻る]