5-5 「おれが欲しいもの?、そりゃ金だ!」〜 The Sounds of Young America, Hitsville, USA

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20035月26日脱稿

 

今回はいささか個人的な話から始めます。なぜならば、タイトルの副題を見て気づかれた方もいらっしゃると思いますが、いまから取り上げる話は、アメリカの60年代、そして黒人の歴史にとって、きわめて重要なひとつのレコード会社、そう、あの

だからです。このレーベルをご存じでない方に簡単に説明しますと、1960年代から1990年代までもっとも売れたレーベルのひとつであり、音楽技法的にも商業的にも60年代はこの会社の興隆のときであり、その姿は公民家運動における黒人の前進とよく併記されることがあります。

1985年、わたしは高校3年生でした。この年、モータウンは設立25周年パーティを開き、その模様は全米ネットのテレビに流されました。そのパーティ、次から次へと大スターがステージに立つなか、あるひとりのスターの強烈なパフォーマンスが周囲、そしてテレビを見ているものを圧倒しました。それは、マイケル・ジャクソンによる「ビリー・ジーン」の演奏、そしてダンスです。

 

「ムーン・ウォーク」というダンスの技芸が一般に知れ渡るようになったのはこれがきっかけであり、わたしもご多分にもれず、一所懸命練習しました。(大きなストライドではもうできませんが、それでも「ムーン・ウォークもどき」ならまだできますーー苦笑)。つまり、このレーベルの音楽は、わたしの個人史にも大きな影響を与えたものであり、いまのような職業をしているのも、このときのマイケル・ジャクソンのパフォーマンスからうけた衝撃が原因だといっても過言ではありません。

もちろん、高校生当時のわたしにとって英語雑誌を読むことなどできず、情報は、(1)米軍基地から放送されるラジオ(当時「ストリーミング放送」もスカパもありませんでした)、(2)邦語の書籍、でした。(2)に関して、モータウンだけにかぎって言っても、2冊の翻訳があります。以下の書籍がそれですが、そのうち上のものはむさぼるように読みました。改めて今回読み直したのですが、とてもすばらしい翻訳であり、この手の翻訳本ではベストだと思います。

ネルソン・ジョージ「モータウン・ミュージック』(早川書房)
ベリー・ゴーディ『モータウン、わが愛と夢』(Tokyo FM 出版)

この本の著者、ネルソン・ジョージにはこれとは別に『リズム・アンド・ブルースの死』という著作があり、それも翻訳出版されています。この翻訳もすばらしいのですが、原著に忠実であるがゆえに、かえって異なった文化的歴史的背景をもつ日本の人びとにとって説明しなければわからないことが、そのまますっーと流されています。[注1]

そのような文化的差異の存在から、ネルソン・ジョージは「黒人音楽は黒人にしかわからない」と仄めかすのですが、これはなにも〈人種〉によって区別するものではありません。異文化に育ちつつとも黒人の歴史、現在彼ら彼女らが直面している社会的・経済的・政治的環境を理解すれば、ゼッタイに異文化の人間にも黒人音楽は理解できるのです。そこで、今回はそのような点のひとつに焦点をあわせ、モータウンの発足を黒人史、アメリカ黒人の希望と夢の歴史のなかに位置づけてみます。(これから以後の項は、研究の進展にしたがって、書き直しする可能性があります。一度脱稿した後に書き直しをした場合は、目次にのマークを入れます)。

さて、このモータウンという名の大会社を創設することになるベリー・ゴーディ・ジュニアは、実は、典型的なアメリカ黒人のなかのひとりでした。黒人の人口移動については既発表の項で触れました。あらためてここで説明しますと、第1次世界大戦の勃発は、北部の工業労働者不足を生じさせました。なぜならば北部工業は、労働者の大部分をヨーロッパからの移民に頼っていたところに、第1次世界大戦によって移民の流入がストップしたからです。そうして北部工業は南部の黒人を活発にリクルートし、その結果、北部の大都市に巨大な黒人居住区ができました。1910年代以後、この黒人人口の移動は、右の表のように継続することになります。モータウンの本拠地、デトロイトでは、この大移動期に黒人人口が全米の大都市のなかでも最大の増加率を記録し、それは200%を超えていました。

彼の父、ベリー・ゴーディは、南部で農業を営んでいました。ここでのポイントは営んでいた、つまり自作農だったということです。しばしば人口移動が生じるときには、移動者たちは、経済的・社会的・政治的理由で、「押し出された」ものたち、社会の中でもっとも弱い立場にあったものたちというステレオタイプが存在しています。災害や戦争の罹災者は別とすると、このような理解は今日人口動勢学上否定されています。理由は簡単。移動には運賃が必要ですが、最下層にいるひとたちにはそれがないからです。

事実、ゴーディは、1922年、プランテーション経営で2600ドルの利益を獲得した人物でした。当時の南部にあっては大金です。そこで、彼はこう思いました。「このままだと危ない」。そうというのも、黒人が大金をもっていることに周囲の白人が嫉妬し、殺される可能性が決して低くはなかったのです。戦争が終わると同時に南部農業は長期の停滞期に入り、こと南部農業に関するかぎり大恐慌はすでに20年代に訪れていました。抵当の土地を奪われる白人も少なくはなく、その結果、ユダヤ人と黒人の暴力的弾圧を訴えるKKKが復活し、勢力を拡大していたのです。そこでゴーディは、メンフィス経由で、デトロイトにたどりつきました。

デトロイトに向かったのは、ほかでもありません、職を得る可能性が高いと踏んだからです。初の自動車量産に成功したフォード自動車を筆頭に、デトロイトの自動車産業は、当時のアメリカの成長産業の筆頭でした。産業は異なりますが、成長の筆頭という点では、今日のシリコン・ヴァレーのようなものです。そこで彼は2600ドルの資金をもとに雑貨店を経営し始めます。

黒人史上意味深いのはこの雑貨店の名称、「ブッカー・T・ワシントン雑貨屋」です。このエッセイの既発表項をお読みの方はおわかりになると思いますが、この店の名は、黒人の自助努力を訴えた教育者に因んでいます。サム・クックを音楽出版、事業のトータルな管理に向けて鼓舞したのが、このブッカー・T・ワシントンの教えであるならば、なんとゴーディもそうだったのです。

モータウン創業者のベリー・ゴーディ・ジュニアは、その起業家一家の長男として、1929年にデトロイトで生まれました。彼は都市で生まれ育った黒人移住民の1世にあたります。なお、世代がわかるようにちょっとしたエピソードをお伝えすると、彼はマーティン・ルーサー・キングと同い年、マルコムX(後にデトロイトでチンピラをすることになります)より4つ年下です。

そのゴーディは、マルコムXがそうであったように、まずはスポーツの世界に飛び込んでいきます。プロボクサーになることを目指したのです。ボクシングを選んだのはきわめて単純な理由からです。今日デトロイトにはジョー・ルイス・アリーナという大コンヴェンション・ホールがあります。ジョー・ルイスとは、ゴーディ・ジュニアが幼い頃に全盛期だった黒人ボクサーで、世界ヘヴィ級チャンピオンのことです。デトロイトの黒人にとって、彼は憧れの対象であるとともに、〈人種〉の誇りの源泉だったのです。しかし、体格も恵まれた方ではないゴーディ・ジュニアは、この世界での将来は明るくないと判断し、徴兵に応召し陸軍に入隊します。

1953年に除隊したゴーディ・ジュニアは、〈3Dレコード・マート〉という名のレコード店の経営に乗り出します。起業家一家の精神を継ぎ、独立したのです。しかし、ゴーディ・ジュニアは、ビジネスを行うにあたって、商業的計算よりも、自分の音楽的趣味を優先させるという大失敗をしてしまいました。当時はルイス・ジョーダンなどのR&Bが流行、やがてロックン・ロールが全米中を席巻する頃です。しかし、ゴーディ・ジュニアは、商業的音楽というより、芸術的音楽の域に入っていたジャズ、なかでも大衆娯楽には決してならないことが特徴のひとつであったビバップの専門店を経営したのでした。その結果、倒産。起業家一家のなかにあって、彼の立場は苦しいものになりました。

しかし、ジャズに手を出していたとき、地元のジャズ・クラブでビジネス兼娯楽にいそしんでいるなか、彼は、デトロイト近辺のラジオ局でヒット曲を出した経歴をもつジャッキー・ウィルソンと知り合いになります。彼との共作になるポップなR&B「リート・ペティート」は、デトロイトでまず火がつくと、、1957年の年末には『ビルボード』R&Bチャートの11位に入る全米規模の大ヒット曲になります。

ここでゴーディ・ジュニアは貴重な経験を積むことになりました。大ヒットになっても作曲者の彼の懐に入ってくるお金は微々たるものだったのです。そこで彼は、サム・クックとまったく同じことを考えました。レコード・ビジネスの世界では、プロデュースから販売までをトータルに管理しなくてはだめだ。著作権をレコード会社に握られるとショウバイにはならない。そこで彼が考えたのが「レコード・リース」というシステム。資本金の少ない弱小レーベルは、販売路の点で、大手に対して圧倒的不利に立っている、それを穴埋めするために、著作権は保持するもののの、販売権を全米的配給網ともつレーベルに売り込み始めたのです。

さらにまた、R&Bの世界での成功は音楽ビジネスの成功につながらないということも失敗という代償のすえ学びました。次の目標が、白人マーケットを意識したもの、つまりクロスオーヴァーを目指したになること、これは必至でした。

こうして彼は、(1)ジャズはショウバイにはならない、(2)音楽ビジネスで利益をあげるにはトータルな管理が必要、(3)クロスオーヴァーしなければ事業としては失敗になる、という3つの教訓を得ることになりました。そこで、名誉挽回とばかり、ゴーディ家の家族会議を開いてもらい、800ドルの資金援助をとりつけます。あれぇ、桁を間違えているんじゃないの?、とお思いの方、きっといらっしゃるでしょう。しかしこれが現在のところ定説となっているところです。1960年代初頭に3つのレーベルを集めモータウン・レコーズになる事業の資本金は、タムラという名のレーベル設立に用いた800ドル、八百ドル、はっぴゃくドルだったのです!!!。

このような経緯をそのまま吐露しているかのような曲、バレット・ストロングの"Money"は、そのタムラ・レーベルから発売されます。右がタムラの商標です。この頃の黒人の曲のジャケットには、サム・クックという特例をのぞき、たいてい意味のないイラストが用いられています。それを変えていくにがモータウンに他なりませんが、それは今後時期を追って見ていきます。アメリカの中古レコード店やネット・オークションでイラストだけの古いシングル・レコードを見ることがありますが、あぁくやしい、薄給のわたしにはとても手が届かない値がついています。

さて、"Money”は、グリーンズボロでシット・インが開始され、サム・クックの「ワンダフル・ワールド」がチャートをぐんぐん上昇していた60年2月、『ビルボード』ポップチャートの1位に立ちます。タムラ初、ゆえにモータウン初のクロスオーヴァーであるこの曲はこう歌っています。

大切なのは自由、でも鳥もハチも自由だ
だから金だ金、俺がほしいもの?、そりゃ金だ
スリルいっぱい楽しい人生、でも愛じゃ請求書は払えない
だから金だ金、俺がほしいもの?、そりゃ金だ
金ですべてが買えるわけではない、そりゃたしかに事実だ
だけど、金だ金、俺がほしいもの?、そりゃ金だ

そこでひとつ重要なことがあります。それはブッカーT主義という黒人自助の訴えは、南部においては白人との妥協を暗に意味しつつも、それが北部に移植されたとき、人種意識を紐帯とする経済活動を促すことになった、ということです。クロスオーヴァーだけを目指したモータウン、その会社は黒人だけが所有し経営する事業としたスタートしたのでした。そのときの気持ちをゴーディ・ジュニアはこう振り返っています。

わたしはボロボロだった。そこに「マネー」のヒットがあったんだ。それまでわたしが書いたヒット曲はたくさんあったし、周囲にもヒット曲を量産していた作曲家がいた。だけど、わたしたちのもとにやってくる利益などなかった。でも、起業家一家に育ったものだから、そのときまでに何度もいちばん肝心なことを教えられていたんだよ。いちばん肝心なこと?、単純な話さ。それは利益だ。つまり、儲かっているかどうかということなんだ」。

実は学生非暴力調整委員会が結成されたとき、その団体のママ、エラ・ベイカーは「ハンバーガーだけで問題は解決しない」という題のスピーチを行っていました。ベイカーは、比喩として、レストランの人種隔離が撤廃されたとしても、「そこでディナーを注文する金がなければ意味がない」と、経済問題への注意を促していたのです。1960年2月というモメントには、したがって、理想主義と経済的現実主義という二つの思潮が存在し、そのなかで"Money"は60年代最初の黒人パフォーマーによる1位になったのです。

今回はいささか長い項になりました。最後に音楽的側面。この曲は、むしろビートルズによるカヴァーの方が有名です。それはオリジナルの4年後にリリースされ、ヴォーカルはジョン・レノンがとっています。大西洋を越え、この曲は耳の肥えた白人青年の心をつかんだのでした。この曲は、ヒットを狙ったポップな曲でありつつ、その後の「モータウン・サウンド」の特徴がいくつか見られます。

(1)同時期の曲に較べずっとベースの音が大きい→強烈なリズム感を生み出している
(2)背景で常にタンバリンが鳴り響き、それがビートを補強している
(3)Money, I want Money, that's what I wantというサビはきわめて憶えやすく、且ついつまでも耳に残る強烈さがある

ベースとタンバリンが前へ前へと引っ張っていく、モータウンサウンド特有のライド感はこのときすでに現れています。そのサウンドはやがて、Sounds of Young Americaというゴーディ・ジュニアが創り出したコピーとともに、モータウンのスタジオ、Histiville, USAから、フォードの自動車よろしく「量産」されていくことになります。

[注1]訳書出版の経験のあるものとしてここで言っておきますが、そうした方が、読者が本それ自体を手にしやすい、これはまちがいない事実です。脚注のある本はとっつき難いですから。しかし、他面で深く理解する妨げにもそれはなっているのです。[本文にもどる]

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公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。