6-2 フリーダム・ライドーーリベラル苦渋の解決策

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200312月29日脱稿

1973年に『ビルボード』誌年間4位になった大ヒット曲、オージェイズの "Love Train"O'Jay's - Adieu Babylone - Love Trainというのがあります。フリーダム・ライドが実施された時代とは、12年の距離が開いていますが、この歌のノーテンキな歌詞には、わたしは、フリーダム・ライド流の理想主義が現れていると思います。その理想主義を厳密に定義するならば「カラーブラインドな理想主義」ということになるでしょう。

「カラーブラインド」とは、肌の色にまったく拘らないということを意味します。南部で肌の色を基準にした差別が合法化されているかぎり、「カラーブラインド」な理想主義は、その既存秩序への挑戦を意味しました。つまり、フリーダム・ライドの時代には、それはとてもラディカルな姿勢だったのです。

さて、COREのジェイムス・ファーマーは、バーミングハムでの暴力に遭遇しつつも、運動継続の意思を強く示します。しかし、彼がロバート・ケネディ介入と彼の意図を知ったのは、バーミングハムの次の停車地、モントゴメリーでした。そしてそのとき、第1陣の二つのグループのライダーたちは、ほとんどいなくなっていました。なぜならば、身体を動かすことができなくなるほど激しい暴行を加えられたからです。

さて右の地図をご覧下さい。バーミングハムの真北、ナッシュヴィルから延びている線があります。バーミングハムでの危機を知ったSNCCのダイアン・ナッシュは、ここで運動がストップすれば、「自由の獲得を目指した運動全体がストップされる」と察知し、大胆な行動力を特徴とするSNCCのメンバーを急遽集めたのです。したがって、フリーダム・ライドは、もとはといえばCOREが始めた運動だったのですが、バーミングハム以後はSNCCを中心とするものに変わっていきます。

そして、この事情は、今回改めて調査して驚きました、どうやら南部の白人たちも熟知していたようです。右にあるのがナッシュヴィルからの「援軍」がやって来ることを、批判的に報じている当時の新聞の見出しです。"Student Groups Leaves for Jackson"のところに注意してください。

モントゴメリーにつくと、白人優越主義者の暴力のほかにも問題が生じてきました。これは暴力のひとつの帰結として生まれた問題です。長距離バスの運転手がこう言ったのです。「あんたらの気持ちはわかるが、俺にだって命はひとつしかないんだ、それをNAACPだとか、何とかいう団体のためにくれてやる気なんてないね」。つまり、バスを運転する者がいなくなり、ライダーたちは足止めを喰らうことになったのです。

ところで、バーミングハムでの混乱をみていたモントゴメリーのブラック・コミュニティは、フリーダム・ライダーたちの安全を確保しようと、事前に行動しました。モントゴメリー・バス・ボイコットの勝利により、コミュニティが運動に向けて組織化されていたこの地では、ライダーたちは、マーティン・ルーサー・キングの側近中の側近、ラルフ・デイヴィッド・アバナシー牧師の第2バプティスト教会にすぐ避難したのです。

が、その場所が神の社であるとしても一考だにしない白人優越主義者たちは、この教会をすぐに包囲し始めます。

もちろんロバート・ケネディ司法長官の特使、ジョン・シーゲンセラーはこの模様を逐一長官に報告します。「冷却期間」の提案は拒否された。ここで問題は2つに絞られてきます。

(1)兄ジョン・F・ケネディ大統領は、ソヴィエト書記長フルシチェフとの会談を控えている。ここに来て国際的に報道されるような大事件が起きてもらっては、米ソ会談に影響を与えかねない。だから何としても暴力沙汰だけは防がねばならないCOREやSNCCの側に運動を止める意思がない以上、何とか白人優越主義者の暴走を止める手立てを考えねばならない。もちろん、兄には再選されなくてはならないのだから、それも白人優越主義者の神経を逆撫でしないようにしなければならない。

(2)バスの運転手を確保しなくてはならない。

ケネディ司法長官は、まず、第2バプティスト教会のライダーたちを救うために動きます。アイゼンハワーがリトル・ロックで行ったように、連邦軍を投入することはできる、しかし、そうすれば次の選挙で南部は兄に票を投じないかもしれない。そこで司法長官は、通常治安維持のためには使われない、ハイウェイパトロールや国立公園の警察官たちからなる特別部隊を編成し、連邦政府の機関が動いたとは思われない恰好で、モントゴメリーに向かわせます。

そして、バーク・マーシャル司法次官、ジョン・ドーア公民権部長と夜を徹しての会議の結果、南部の知事に働きかけることにしました。ライダーたちを治安紊乱の容疑で逮捕することを許す変わり、アラバマ州内ではアラバマ州兵が、ミシシッピ州内ではミシシッピ州兵がライダーたちを保護すること。これにより、そもそもフリーダム・ライドはニューオリンズを目指したものでしたが、ミシシッピ州ジャクソンで大量逮捕されることによって、それから先の旅程を阻まれます。

ケネディ家はアイルランド系移民カトリック。アイルランド系移民カトリックで大統領になったのはジョンがいまのところ最初で最後。アイルランド系移民にも、特に移民1世には、民族ゆえの差別・抑圧の歴史がありました。19世紀にはカトリックの教会が焼き討ちにあうことなど決して少なくはなかったのです。それゆえ第2バプティスト教会の模様を知り、ロバート・F・ケネディは運動家たちに強い愛着を感じるに至ります。その結果、南部では黒人の生命が政府の機関によって「守られる」ことなどないという実情に憤慨していたのです。

その模様は、バスの運転手を確保するために、グレイハウンド社と会談した際、苛立ちとなり顕れることになります。

ところで筆者には一般の会社で働いていた経験があるのですが、取引先から叱られるとき、いちばん嫌だったのは、怒鳴られることでも、殴られることでもなく、会社の名をとり、「○○さん、云々」と言われるときでした。一個の人間としての存在を否定されたような感覚を得てしまうのです。(この件、みなさんのご意見お待ちしております!)。

ロバート・ケネディは、ハーヴァード大卒のお坊ちゃんとは思えない荒々しい声で、グレイハウンド社との電話会談の際にこう言ったのです。

「わからないのか、グレイハンドさんよ、バスを用意しろと言ったら用意するんだ、ええ、グレイハウンドさん

しかし、この会談を運動家たちが知ることはありません。このときの司法長官の行動は、SNCCのような理想主義に燃える青年には幻滅を与えるものだったのです。他面、ロバート・F・ケネディにとっても、苦渋の決断だったのです。

兄の選挙の参謀をやっていた頃からこのときまで、ロバート・F・ケネディの行動にはひとつの特徴がありました。それは「裏工作」ということになるでしょう。しかし、ここで決して見過ごしてはならないことがあります。ロバート・F・ケネディは、大きく成長するアメリカ黒人の運動を影で支援はしても、それを押さえ込むことはしなかった。南部の「現実」に対面し、苦渋の解決策を講じたロバート・F・ケネディは、その後、運動とともにアメリカ社会を見つめながら、大変貌を遂げていくことになります。しかし、ロバート・F・ケネディ、兄の大統領よりずっとカッコいいと思いません?

 

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公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。