4-3 ブッカーT主義:J.W. アレグザンダーのKags Music

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2002218日脱稿

申し訳ありません。Yahoo!BBに専断的に回線を閉鎖されてしまったので、大きなファイルを扱うことがいまは不可能な状態にあります。したがって、前回予告の"You Send Me"の多様なバージョンは次回にじっくり堪能しましょう。

時は昔の1896年、当時は鉄道のハブとして急成長していたアトランタで「アトランタ棉作博覧会」が開催されました。この1890年代という時代は、また、南北戦争直後には憲法修正条項によって保護されていた黒人の市民権が、南部州政府によって蹂躙され始めていった時代です。たとえば、識字テストだとか、人頭税の支払いの有無を理由に政治的権利が剥奪されていったのです。テストの採点をするのは決まって白人の役人であり、黒人の政治的権利は、かかる下級役人の裁可でどうにでもなるようになってしまったのです。

その結果、人種間の緊張はかつてないまでに高まり、実際、リンチーー被害者はごく少数の例外を除き黒人ーーの件数が最多の記録を残しているのがこの時代にあたります。

そこにある黒人教育者が現れました。アラバマ州タスキーギにある黒人の職業訓練校、タスキーギ農工大学の創設者、ブッカー・T・ワシントンが、そのひとです。そして、それまで全米的な名声を博していた黒人指導者、フレデリック・ダグラスが1895年に死去すると、ワシントンが黒人の指導者として頭角を現してきました。そのような経緯で彼は、「アトランタ棉作博覧会」において、ある有名な演説を行いました。そのいちばんの問題となった箇所で彼はこう言っています。

わたしたちの指は分かれ立っています。しかし、分かれ立ちながら、それぞれの役割を果たすことで、手となることができるのです。

これは白人社会から絶賛される一方、黒人社会では大論争を呼びました[1]。というのも、「分かれ立つ」ことの利点を強調することは、当時南部各地で拡がりつつあった人種隔離制度を容認するものだ、と思われたからです。その実、ワシントン自身、黒人は政治的行動よりも、まず最初に労働者としての有能さを示すべきである、という見解を打ち出しました。農工大学の運営は、したがって、このようなワシントンの思想を実践に移したものだったのです。そこで、彼の主張は、政治的権利要求を放棄せよと言っているに等しい、という批判が立ち上がってきました。その批判の急先鋒にたったのが、黒人として初めてハーヴァード大学から博士号を授与されたエリート、W・E・B・デュボイスでした。その結果、極めて多才で弁舌鋭い彼の影響力もあってか、1980年代になるまで、〈南部の白人優越主義者と妥協したワシントン〉〈急進的民主主義者デュボイス〉という史的評価がなされていました。

ブッカー・T・ワシントンところが、ワシントンの思想は近年大きく見直されています。彼の主張は後の世代に意外な影響力を与えることになったのです。1950年代-1960年代公民権運動の前半期の目標は、アメリカ社会のなかに入っていくことでした。白人と肩を並べて同じ仕事をすることでした。ところが、ワシントンの主張の論理をある方向に極端に押しすすめると、「分かれ立つ」ことにこそ意義があるのだから、黒人は白人と一緒に働く必要はないし、白人社会に「受け容れれられる」ことを、嫌がる白人に乞うような蔑むべき行為をするべきではない、という分離主義に帰結していきます。

そして、ワシントンの主張のこのような側面から影響を受けていった者は少なくなかったのです。1900年になると、ワシントンは学校経営という限定的領野を越え、黒人の起業家の支援・組織化に着手します。そうして、全米ニグロ・ビジネス連盟(National Negro Business League)という団体を創設します−−これは黒人だけの商工会議所と考えても支障はないでしょう。たとえばハーレムという世界的に有名なニューヨークのブラック・コミュニティは、この連盟の創設者・発起人のひとりであった黒人の不動産業者が中心となって形成されたものでした。つまり、後のマルコムXら急進的黒人が活躍する〈場〉を準備したのは、実は宥和主義者と言われていたワシントンの影響下にあったものだったのです。

このビジネス面でのワシントン思想の影響を受けたもののひとりにJ・W・アレグザンダーという人物がいます。彼こそ、サムJ・W・アレグザンダー・クックのマネージメントを取り仕切った人物です。アレグザンダーのショー・ビジネスでの経歴も、クックと同じく、アメリカを巡業するゴスペル・グループの一員として始まりました。ところが、いくら七転八倒して働こうとも、一向に収入は増えない。彼が所属していたグループ、ピルグリム・トラヴェラーズは、ゴスペルのジャンルのなかでは大ヒットを多くもっていたのに、それがなぜか収入にならない。

この事情を説明するものはしごく簡単なものでした。音楽の版権(著作権)copyrightを持っていないかぎり、その曲から得られる収入は入ってこない。ところが、白人のタレント事務所と契約すると、当時の環境のなかではなかなか著作権の登記をしてもらえなかったのです。そこで思いついたのが、自分で版権を管理する出版社を経営すること。そこで彼はKags Musicという音楽出版社を設立します。 黒人の起業家精神、これはブッカーT主義のひとつの特色であり、アレグザンダーはその思潮のなかに位置付けられる人物にほかならないのです。

これは、当時の南部の環境のなかでは、途方もない企てでした。なぜならば、それは、経済的利益のみを追求しつつも、その裏では白人が握る権力構造を直接揺さぶることになったからです。この企画を、ファッツ・ドミノに打ち明けたたときのことを思い返し、アレグザンダーはこのように言っています。

わたしが彼らの反応を忘れることなんてないね。…わたしは、ファッツに版権管理会社の話を説明しようとしたんだ、すると彼はわたしをただただじっと見つめるだけだった。その顔はこんなことを言っていたんだ。「馬鹿げたことを真面目にかたるこのニガーはいったい何様だ」って。つまり、彼にしちゃ、わたしは尻尾を持っている人間のように見えたんだ。

ビジネスマン、サム・クックちょうどこの頃、サム・クックは、ソウルのクラシックのなかの一つになる名曲、「ユー・センド・ミー」をカリフォルニアのマイナー・レーベル、Keenから発売し、初のヒットチャート1位に輝きました。それと同時に、クックは、チャートの一位になりつつも一向に増えない自分の収入に疑問を持ち始めていたのです。そこで、アレグザンダーがKeenとの交渉を行い、以後、クックがメジャー・レーベルRCAに移籍するまでのあいだ、彼のマネージメントを担当します。そして、クックがRCAと有利な契約を結ぶことができたのも、実は彼のブレーンとしてアレグザンダーがいたからにほかならなかったのです。

アレグザンダーとクックの関係は、RCAにクックが移籍してからも良好な関係を保ちました。そして何よりも大切なことに、クックは、アレグザンダーの起業家精神から多くを学び、他者に自分のイメージをコントロールされないためには、まずは自分がしっかりとしたヴィジョンとアイデンティティを持っていなくてはならない、ということを学んだのでした−−これもブッカーT主義のひとつです。左の写真は、若い女性に黄色い声をあげさせるアイドルのまた一つの姿をとらえている画像です。ネクタイを締めたクックは、ショー・ビジネスの世界で自己像を自分の力で創造していったのでした。彼の類稀な才能は、音楽的技能だけではなく、黒人の抵抗思想から生まれた処世術を身につけたところにもあったのです。

ブッカーT主義という紐帯に結ばれた関係を、アレグザンダーは「わたしがクックのマネージャだったことなんか一度もない、わたしは彼のパートナーだったんだから」と語っています。ここにみられるのは、19世紀に起源を持つ思潮の流れに身をおくブラック・コミュニティの精神であり、そしてその精神が、アメリカのポップチャートに挑みかかろうとするモメントです。そこで次回はいよいよクックのRCAでの活躍に話は進んでいきます。


[1] アメリカの学校のなかにはブッカー・T・ワシントン小学校というような名前のものが数多くあります。そして読者の方の一部はここで「おや」と思われたでしょう。そうです、スタックスのブッカー・T&MG'Sの「ブッカーT」とは、彼の名に由来するものなのです。[本文に戻る]

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