4-6 ア・チェインジ・イズ・ゴナ・カム Part 1: 黒人人口の(第2次)大移動

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200285日脱稿

さて、今回も音楽自体ではなく、R&Bが興隆してきた当時の背景説明になります。次回もそうなる予定ですが、そこで引いてしまわないでください。じっくりとひとつひとつ丁寧におさえていきます。そこで今回は人口動勢学(人の流れを記録し分析する学問)上の変化、そして次回が経済環境の変化になります。ひとつひとつおさえていくので、タイトルもア・チェインジ・イズ・ゴナ・カム!

さて、わたしは「黒人史を研究しています」と自己紹介すると、よく「ならばニューオリンズとかアメリカの南部にはよく行かれるのですか?」と学者でない方に訊ねられます。しかし、実のところ、わたしは仕事で南部に行った経験はありません。厳密な地理区分に準じますと、ワシントンD・Cは南部になります。しかしこれは人工的に建設された首都という特殊なところなので、ほんとうにわたしは南部には行かないのです。実際のところ、日本の黒人研究者の多くが南部研究者でもあり、わたしのような研究をしているものは、マイノリティのなかのマイノリティということになります。

というわたしは、一応南部史の概説くらいの講義はできますが、専門は北部都市の黒人の歴史なのです。この北部都市のブラック・コミュニティの形成には、きわめて明確な形成期があります。それは第一次世界大戦のときに起きたのです。

このグラフは、これまでも何度も触れてきた、ミシシッピ川を北に上っていった先にある当時アメリカ第2の都市、シカゴの黒人人口の増加率の変遷です。ご覧の通り、4つの大きな山があります。その山をひとつずつ説明していきます。

(1)最初の山
南北戦争後、アメリカ合州国を脱退し叛乱を起こした南部の州を再び連邦に組み入れ、それと同時に奴隷の身分から解放された黒人の生活環境改善を目指した諸政策がとられていた時期を「南部再建期Reconstruction」といいます。
奴隷制下での黒人は、主人の許可がない限り、プランテーションの外にでることができませんでした。しかし奴隷制の崩壊は、黒人人口の移住を促し、この時期に北部で最初の黒人人口の大流入が起きます。上の表では386%と記されているのがその時期です。
しかしこの比率を過度に評価することはできません。なぜならば1850年の時点でシカゴに在住する黒人はわずか322名しかいなく、そこで比率上大規模な増加が起きたとしても、実数に直すと633名ほどにしか達しませんでした。

(2)2番目の山
これは1890年代に南部諸州ではじまった黒人の公民権剥奪とリンチによるテロ支配を逃れて北部にやって来た人たちになります。しかしこの時点でも実数に直すと、7,791名にしか過ぎませんでした。

(3)3番目の山
移住民の数に質的変化が起きるのは、上の図で「大移動」と書いた部分にあたります(これはアメリカ史ではGreat Migration)と大文字で記します。これは、(1)第1次世界大戦勃発に伴い、北部産業の労働者であったヨーロッパからの移民の流れが途絶えたこと、(2)黒人自身が南部の抑圧的制度に対し抗議の表現として移住を選んだ、という2つの側面によって起きました。この「大移動」期になると実数も大きく飛躍をとげ、79,289人に達します。このときにシカゴで生まれたのがデルタ・ブルーズにほかなりません。
もっとも南部から移住するもの全員がシカゴを目指したわけではありません。あるものはシカゴの南にあるセント・ルイスに留まりました。その代表例がカウント・ベーシーです。そう、ここまでくるとカンの良い方はお気づきかと思いますが、ハーレムでジャズ文化が開花したのがこの頃にあたります。

(4)4番目の山
これがわたしたちが扱っている時代に起きていたことです。公民権運動草創期、黒人人口の都市化は飛躍的に進行しました。50年代にシカゴにやって来た黒人人口だけで、何とその実数は214,534人に達します。

これまでにゴスペル・バンドが全米をバスでツアーすることがあった事例に触れました。このバス・ツアーは、それ以前にスウィング・バンドが行っていたのと大きく異なり、白人をオーディエンスとするのではなく、ブラック・コミュニティの住人をオーディエンスとしたものでした。なぜならば、黒人のゴスペルは、白人のそれとはまったく異なるからです。

サム・クックはそのなかから育った全米的スターです。彼がブラック・コミュニティとのコミュニケーションの回路を持っていたこと、それは後の彼の音楽表現に大きな影響を与えます。(上のグラフにはこれからも何度もたちよります。グラフに「エメット・ティル・リンチ事件」と記しましたが、これも後に60年代に論考が及んだときに説明します)。

では今回の締めくくりに下にそのコミュニティの分布地図をアップロードしておきます。緑のところが黒人人口の比率の高いところなのですが、1950年ですでにそれは山岳部を除く全米に拡がっていたのです。ソウル・スターラーズ、サム・クックが歩んだのは、この町だったのです。

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