6-9 ネイション・オヴ・イスラームーーその歴史と教義

赤字は重要ポイント、青字はリンク
200412月6日脱稿

さて前節より既発表の節へのリンクが急増してきました。ひょっとすると、常連の方々は煩く感じられるかも知れませんが、ウェブを媒体としたエッセイである利点を活かし、これまで貼ってきた「伏線」を、これから徐々に大きな筋にまとめあげていきたいと思います。(実は、最初にブラック・ナショナリズムを論じたところで、すでにマルコムXには2回言及しています、これらは筆者が適切と感じるポイントにおいて、リンクを貼って示したいと思います)。今回は前回の予告通り、アメリカ黒人独特の「イスラーム」信仰、ネイション・オヴ・イスラーム(NOI)の歴史と教義について解説します。次回は、それが60年代の黒人文化にとってもった意味を「考えて」いきます。(つい先程、"「大きな筋」にまとめる"と明言してしまいましたが、筆者自身、少しでも明確な論を呈示できるように、いまも考察を続けている最中ですーーもっとも生涯を通じてこのテーマは考え続けるとは思いますが…)。

まず最初に、微妙なことではありますが、言葉遣いについて断っておきます。NOIの信仰を、筆者は「独特」と形容しました。これは「風変わり」という意味でもなければ、「異端である」という意味をもとよりもつものではありません。西アジアからマグレブ諸国において信仰されているイスラームと比較すると、NOIの教義には、それがアメリカ合州国で育まれたということを表す「特異」なものがあります。その意味において、以下、「独特」「特異」という用語を使っていきますが、これらはNOIの教義を蔑視するものでもなければ、断罪するものでもないこと、これをまずここで断っておきます。わたしたちに必要なのはその「特異さ」への「理解」なのですから…。

では本題に入って、NOIの歴史から。

時は大恐慌時代の1930年、場所は何とデトロイト!、自らを「アラーの預言者」と称する行商人、ウォレス・D・ファードいう人物がいました。売り歩いていたものは、香料とシルクでしたーー当時にしてみては、かなり「エキゾチック」なものであるといえるでしょう。彼は、キリスト教を「奴隷の宗教」と見なし、唯一の神はアラーに他ならず、黒人はアラーの教えに帰依することで白人によって奪われた「歴史」を奪還できると説き回っていました。そのような彼は白人を「悪魔devil」と呼び、その訴えに共鳴した人びとは「テンプル・オヴ・イスラーム」というところに集まり始めました。やがて、「テンプル」は信徒の数を増し、名前を「ネーション・オブ・イスラーム」と変えていきます。このファードという人物、マルコムXが語り伝えるところによると、モロッコ人だったとされています。しかし、ファードは1934年に「謎の失踪」を遂げており、マルコムがファードの出自を「直接」知っていたということはありません。事実、学説は諸説にわかれており、「カルト」をこの時期から調査していた連邦政府の捜査機関の史料も、この点については明確なものを指示してはいません。いずれにせよ、右の写真、これは、現存する史料のなかでも貴重なビジュアル史料のひとつです。この写真から判断する限り、ファードは、いわゆる「黒人のステレオタイプ」に属する外見をしていたわけではないことがわかります。マーカス・ガーヴィの外見とは「正反対」の「黒人」、といっても過言ではないでしょう。この外見と「人種」、これは「アメリカ合州国において黒人であるということは何を意味するのか」ということを考える際に、実に多くのことを物語ってくれるものです。次回の論考ではその辺りを詰めていきたいとおもっています。

このファードの初期の信徒のなかに、イライジャ・プールという人物がいました。ジョージア州出身の彼は北部移住民の1世の彼にとって、南部での白人によるテロ支配はまだ生々しい記憶であり、経済恐慌が北部黒人コミュニティに大打撃を与えるなか、ファードの教えはとても魅力的に響きました。かくして「イスラーム教徒」となった彼は、ファードの第一の「使徒」となり、翌年にはイライジャ・モハメドと改名してシカゴに移住し、そこでデトロイトに続く「第二寺院Temple No.2」を建設することに成功します。

さてここでひとつ面白い事実があります。モータウン創始者のベリー・ゴーディの父とイライジャ・モハメドとは同郷であり、そしてまた同じ時期に同じところに住んでいたのです!。

1934年にファードが「謎の失踪」を遂げると、イライジャ・モハメドがNOIの最高指導者になり、本拠地もデトロイトから、シカゴの黒人ゲトー、サウスサイドの5335 South Greenwood Avenueに移ります。イライジャ・モハメドの教えは、彼本人によると、ファードから伝えられたものをそのまま伝授するという形をとりました。しかし、イライジャ・モハメドの教義はやがて微妙に変化することになります。ファードは「神の使者」とされ、イライジャ・モハメド自身が「アラーの預言者」Messengerとなり、その「預言者」のことばは、黒人のあいだで密かに拡まっていくことになったのです。

特にマルコムXがニューヨークの第七寺院の牧師になってからの成長は目覚ましく、シット・インが開始された1960年までに、NOIの信徒は、公式発表で6万5000人に達していました。当時社会的・政治的に巨大なインパクトを与えたSNCCの専従活動家が100名にすら満たなかったことを考えると、これは膨大な数字になります。広くアメリカ黒人の社会を見回してみても、NOIの勢力を上回るものは、キリスト教教会とNAACPぐらいしかありません。

この頃のNOIは、預言者イライジャ・モハメドの誕生日を「救い主の日」Savior's Dayと定め、シカゴのアンフィス・シアターという、当時のシカゴでは最大のホールで大会を開いていました。2万人は優に収容するこのホールを埋め尽くし、NOIは、前節で解説しました「模擬裁判」などを開催していたのです。

ではなぜNOIは黒人大衆の支持を得ることになったのでしょうか?。当然いろいろな側面が考えられますが、ここでは行論に併せて、二つ点を強調しておきます。ひとつは、「十箇条の要求」という非常にわかりやすいプログラムをもっていたこと。そして、もうひとつは、前節での武装自衛の実施にあるように、極めて「現実的」なアプローチをもっていたことです。

では、まずは「十箇条の要求」から解説します。イライジャ・モハメドは、NOIの目標を、以下の10のポイントに簡単にまとめあげていました。

1. われわれは自由を要求する。完全で何一つ欠けることのない自由を要求する。
2. われわれは正義を要求する。正義に則った法のものでの平等な裁きを要求する。信条や肌の色に関係のない、平等な正義を要求する。
3. われわれは機会の平等を要求する。このもっとも文明の進んだ社会に、平等な資格で参加できることを要求する。
4. 曾祖父・曾祖母が奴隷の子孫であるわれらが同胞が、アメリカ大陸か、さもなくば他の地に、分離した独立国家を建設できる、そのような土地をわれわれは要求する。奴隷主の子孫たちは、肥沃で鉱物資源も豊かな土地を、われわれに割譲する責務があるのだ。さらに彼らには、われわれが自給自足できるようになるまでの少なくとも20年間から25年間、分離したわれわれの国家に援助をする責務があるのだ。
5. われわれは、現在連邦政府管理下の監獄に収容されている〈イスラーム信徒〉の解放を要求する。南部のみならず北部でさえも、夥しい数の監獄にいる死刑を言い渡された黒人男女の解放を要求する。
6. われわれは、〈いわゆるニグロ〉に対する警察官の暴力や暴徒の攻撃の即時停止を要求する。
7. 分離した独立国家を建設することが許されないならば、われわれは、合州国の法が正義に基づいて平等に適用されることのみならず、雇用における平等も同時に要求する。この要求はいますぐに受け入れられることを求める。
8. 法が正義に基づいて平等に適用されないならば、われわれを課税から免除することを要求する。
9. われわれは、教育機会の平等を要求する。しかし、われわれが要求するのは[人種別・性別]分離した教育であり、男性は16歳、女性は18歳まで、女性は女性だけの大学に進学させねばならない。
10. 異人種間結婚や人種が混淆することは禁止されねばならない。

今日からこれを見れば、9条にみられるような「原理主義」の要素が目立つかもしれません。しかし、60年代の文脈のなかでNOI特有の主張と考えられたところは、赤字にした部分、「分離主義」の主張でした。なぜならば、南部公民権運動は、人種統合をめざし、激烈な闘争を行っていた時代でしたので、「統合」の対義である「分離」の主張はことさら際だっていたのです。(これら10の主張は、もちろん、それぞれがぞれぞれの重要性を持っているものです。これからも「十箇条の要求」には何度も立ち返ることになると思います)。

いまひとつNOIの特徴には「現実主義」的なところがありました。1960年の時点で、NOIは全国チェーンの商店やレストランを経営し、シカゴ本部の資産だけでも150万ドルに達しています。それは、NOIが、マーカス・ガーヴィよろしく、ナショナリズムと起業家精神とを尊ぶ教義を唱え、それを実践に移していたからです。(ちなみに、ウォレス・D・ファードの出自について、ガーヴィ主義の分派団体に所属していた、とする学説があります)。

ガーヴィとブッカー・T主義の親近性については、このコーナーで以前論じました。そのことを考えると、NOIの主張は、ラディカルな黒人分離主義者だけに訴えかけたわけでは決してありません。この思想は、南部から北部に移住してきたばかりの「保守的」もしくは「伝統的」な黒人にも訴えかけるものがあったのです。

さて、「十箇条の要求」をいま少しここで吟味してみれば、そこには意外な要素が見られます。それは、アメリカのことを「もっとも文明が進んだ社会」とみなし、アメリカ的価値観である「機会の平等」「正義」といった概念をも包摂している点です。ここにこそNOIの思想が「アメリカ黒人特有」であると言明できる根拠があります。NOIはアメリカ的環境のもとでしか育たなかった、近代的黒人分離主義なのです。その実、NOIは、「ちりちりの髪」nappy hairを劣ったものとみなし、髪を短く刈りつめることーー若きマルコムを思いうかべてくださいーーを推奨していました。さらにイライジャ・モハメドは、アメリカ黒人は「劣ったアフリカ人」ではなく、アフリカとは別の文明をもつアジア系である、という、驚愕すべき主張を行ってさえもいたのです。

次回は、ふたたびガーヴィ主義をも含め、NOIを語るときに一般的に広く用いられていることば、「ブラック・ナショナリズム」について、また一歩踏み込んで考えていきます。

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公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。