5-8 ブッカーT主義再考ーーKags Music, Motown, マーカス・ガーヴィ、ブラック・ナショナリズム、Part 3
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2003年8月25日脱稿
ブッカーT主義を2回にわたり再考してきましたが、それも今回で終わりです。今回を併せて3つの論考で何を示したいのか、簡明に以下に列挙します。
・Kags Musicの設立者でパフォーマーのサム・クック、Motownの創業社長のベリー・ゴーディ、彼らの起業家精神(アントレプレナーシップ)は、半世紀前の黒人教育者、ブッカー・T・ワシントンの思想に影響を受けたものだった。
・その思想、ブッカーT主義は、宥和主義であるとの規定を長いあいだ受けてきたのだが、それは今日では説得力を失っている。
・事実、ワシントンに影響を受けた人物のなかには、黒人の大衆運動としては最大規模のものを展開したマーカス・ガーヴィがいる。ガーヴィは宥和主義などとはほど遠い、戦闘的民族独立運動の指導者だった。
ところで、ガーヴィは「アフリカへ帰れ」というスローガンのもと、アメリカ大陸・カリブ海域にいる黒人のアフリカ帰還運動を指導した、という間違った解釈がなされることがあります。たしかに彼は"Back to Africa"といった言葉を使いました。しかし、これはプログラムというより、比喩だと考えるべきなのです。というのも、船舶会社Black Star Line(BSL)を設立したものの、ガーヴィの念頭にあったのは貿易でした。そして、この運動を通じて、ただの一人たりともアフリカへ帰還したものはいません。
したがって、このスローガンは、「アフリカが劣っているなんて欺瞞だ、優れた文明を誇ったアフリカへの精神的紐帯を西洋没落のいまこそ再確認し、そうすることで新大陸の黒人の生活を向上させよう!」と解釈すべきものなのです。今日の合州国では、アフリカ諸語に由来する名前をもっているアフリカン・アメリカンは決して少なくありませんが、このような文化的蘇生への大きな一歩を記したのがガーヴィだったのです。(このような文化的蘇生の運動は、1966年以後再び、そして強烈な勢いで展開します。そこでもまたモータウンと直接交錯してきますので、お楽しみに!)
ガーヴィが設立したUNIAは、その他の公民権団体と異なり、国境によって囲まれてはいませんでした。これはグローバルに展開する運動だったのです。そんなUNIAが1920年、ニューヨークで最初の世界大会を開催します。
この大会には何と20万人の黒人が集まり、そこでガーヴィは、「アフリカ暫定政府大統領」Provisional President of Africaに選出されます。左の写真は、「大統領」が盛装しハーレムのストリートをパレードしている模様です。
これにハーレムの一般の人々は驚きました。ガーヴィは宣伝行為が実に巧妙な人物です。南部のプランテーションからやってきたばかりのハーレムに一般市民には、「立派」な衣装で堂々と行進するガーヴィの姿はとても強烈な印象を残したのです。
ところで肝心の事業、BSLは、このときすでに破産寸前でした。株式が資本の100%であるということは、株価が下がる、もしくは上昇を止めるとなると会社の事業が滞ることになります。一時の熱狂で跳ね上がった株価は、すぐさま右下がりの下降軌道に入っていました[注]。株価の変動もガーヴィの巨大な運動にとっては悪い影響を与えましたが、最大の失敗は多大な資金を投資して買収した船舶、SS. Yarmouth号が、まったく時代遅れのおんぼろ船だったということです。
SS. Yarmouthは、BSLの買収後に、SS Fredrick Douglass号と名前を変え、キューバ=ニューヨーク間の貿易事業に使われます。なぜキューバを選んだのかというと、ここにも宣伝の天才ガーヴィの卓見が見えているのですが、黒人人口の多いキューバに黒人が所有運行する船舶を停船させ、さらなる株式投資を煽ろうとしたのでした。しかし、帰路につくや否や、エンジンが故障、修理のために停泊を余儀なくされ、停泊している間に、バナナなどの貿易産品は腐敗してしまいました。もちろんこれで負債を被るのは、荷主ではなく、船主です。
それゆえにUNIAの世界大会にはまたひとつの目的がありましたーー評判が悪くなった事業を立て直すこと。
そこで彼は上述のような派手なパレードを行ったのです。そしてまた、アフリカが蘇生するのだということを示すため、きわめて大胆なデモンストレーションを行います。UNIAが組織した軍隊のパレードを行ったのです。時代は第1次世界大戦直後、実際に退役軍人が街の至るところで見られる頃、このデモもまた強烈な印象を残しました。その軍隊の写真が右のものです。この光景をよく覚えておいてください。ネイション・オヴ・イスラームの武装自衛組織、〈フルーツ・オヴ・イスラム〉はこれから直接インスピレーションを受けて結成されたのです。
さらにはまたこの時期に「船」が持つ軍事的意味も考慮に入れねばなりません。本格的な空母が建造され、制空権を握ることが戦時戦略のなかでももっとも重要なことになるのは、これより約15年後。この当時、軍事力といえば、制海権を握る力だったのです。アフリカ蘇生を目指し、自前の軍隊を持つ、UNIA、その事業BSLには、軍事的意味合いもあったのです。
ところが商業的事業として発足しながらも、BSLの事業は次々に破綻する。UNIAでの世界大会は、カリズマとしてのガーヴィの権勢を誇示したものである一方、BSLの経営に関する不満も爆発することにもなりました。いわばガーヴィの計画のほとんどが「座礁」してしまったのです。
その結果、ガーヴィは「悪魔との密約」を結ぶ決心をします。ガーヴィの主張のなかに「白人とは手を切り、黒人独自の組織を創設しよう」というのがあります。ブッカー・T・ワシントンのことばを用いれば、「指は別れてたっている」のだから、「別れたち」つつ、それぞれの役割を果たそうというわけです。この論理が行き着くとこまて行ってしまった結果、「アメリカ社会に黒人は必要ない」と考える白人優越主義団体、クー・クラックス・クラン(KKK)と、資金援助を含む友好関係を築く交渉にはいったのでした。
これに激怒したのがアメリカ黒人の指導者たちです。オウム真理教のことを考えればすぐにわかるように、夢想的、妄想的思想に依拠する組織に集まるのは、決して「いかれた」人間、「教養のない」人間ばかりではありません。さらに古くは連合赤軍事件のことを考えると、社会の変革を目標とする運動に身を投じる「有能」なものたちは決して少なくないのです。ガーヴィ主義もこれとよく似た側面をもっています。KKKと交渉するまで、彼の運動はアメリカ黒人のエリートたちを惹きつけていました。しかしこの事態の展開をうけて、そのエリートたちがガーヴィと決裂、ジャマイカに彼を強制送還させようとする運動、「ガーヴィ帰れキャンペーン」を実施します。ジャマイカ育ちのガーヴィには、アメリカ黒人にとってKKKが意味するものがわからなかったのです。
その結果、1923年、破綻が見えている会社への投資を郵便を用いて行ったということ、「郵便詐欺罪」で有罪の判決を受けます。
ところがところが、まったく奇妙なことに有罪が決まるや否や、同じ黒人エリートが恩赦を要求する運動を開始します。これは何よりも、BSLのみずぼらしい経営やガーヴィの政治的性向には嫌悪感を感じつつも、ガーヴィの思想自体に彼ら彼女らは賛同していた、ということを示すと言えるでしょう。それゆえに、ガーヴィ主義は、ブッカーT主義を戦闘的に解釈したものとして、後々の世代まで語り継がれていくことになるのです。そして20万ドルを集めたBSLは破産しても、800ドルの「資本金」で始まったモータウンは、ガーヴィが予測すらできなかった巨大な成功を手にすることになります。
来週は、再び、60年代へ!
[注]
前回の記事をアップロードした後、そのような財務事情を抱えている会社の設立は商法上認められないのではないか?、といった質問を受けました。ちょっとここで年代を考えてください。この運動が展開されたのは1920年代です。政府の株式取引への規制が本格的に始まるのは大恐慌後のニューディール政策(1933年以後)になります。もっともそれ以前に州法で厳格な会社設立基準を決めていたところもあります。たとえばニューヨーク州などがそうなのですが、ガーヴィは、それを見透かし、コネティカット州で会社を登記したのでした。[本文へ帰る]
公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。
NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)
50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。
SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)
マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。
SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)
1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。