3-2 お茶の間にやってきたゴスペル歌唱団
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2001年2月16日脱稿
ところで、前項で紹介したファッツ・ドミノの白人チャートへの進出は南部において人種間の対立が激化するなかで起きました。1957年秋、人種別に隔離された公立学校での教育は違憲であるとの判断にしたがい、アーカンソー州リトル・ロック(クリントン元大統領の故郷です)では9名の黒人がそれまで白人だけが通学していた高校に入学します。これに対して、地元の白人コミュニティは断乎とした反対姿勢をとり、9名の黒人が登校してくると、校門の前に立ちふさがり、彼ら彼女らは学校の敷地にも入れなくなってしまいます。しかも警官はみな白人、校門前に集まった白人暴徒に対し何も対処しませんでした。これは〈無法状態〉が生まれたことを意味し、以後、それでも学校の人種統合を求める側と白人優越主義者とのあいだとで衝突が繰り返されます。その結果、アイゼンハワー大統領は連邦軍をリトル・ロックに派兵、治安の維持にあたらせます。連邦軍の南部への治安行為、これは南北戦争直後の南部の改革が挫折した1877年以後初のことです。それに対し、アーカンソー州知事オーヴァル・フォーバスは州の権利の蹂躙であるという姿勢をとり、何と人種統合を避けるために公立学校をすべて閉鎖するという政策を実行に移しました。これら一連の事件をリトル・ロック高校事件といいます。
しかし、そこでも重要なのは、対立の下では、音楽を媒体としたきわめて豊かな人種交流が行われていたことです。プレスリーが叩き壊した〈人種の壁〉はもはや修復できるものではなかったのです。
ファッツ・ドミノのサウンドを聴かれた方はおわかりと思いますが、彼の音楽のスタイルはブルーズそのものであり、何ら斬新なものはありませんでした。そしてブルーズならば、すでにアメリカ社会で認知された音楽だったのです。つまり白人はその音楽を知っていたのです。
ところで、アメリカ西海岸のシアトルにレイ・チャールズという名の盲目のシンガーがいました。彼はフロリダ生まれですが、生後に失明した人物であり、南部フロリダの人種差別を「見て」育ちました。そこで、盲学校でピアノを修得し、学校を卒業したチャールズが望んだことは、「フロリダからいちばん遠くの州にいく」ということでした。それでフロリダの対角線上にあるシアトルに向かったのです。
彼の憧れていた音楽はジャズシンガー、 ナット・“キング”・コールの音楽であり、それはとりわけてビートも強くもなければ、ブルーズ調でもない。ただ彼の偉業は、クロスオーヴァーを果たし、したがって白人を含むアメリカ大衆に愛されていた、という点にあります。レイ・チャールズの目的もそこにありました、クロスオーヴァーに。
ところが、どうあがけども柳の下にドジョウは2匹いない、この時代のレイ・チャールズの音楽は、シアトルの地方レコード会社から販売されていますが、いま聴いてもパッとしません。“キング”・コールの輝きの前にはくすんでしまうのです。
この頃、ニューヨークでは、アーメット・アーテガンという名のトルコ系アメリカ人とジェリー・ウェクスラーという名のユダヤ系アメリカ人がいました。この二人は、ファッツ・ドミノらの〈黒人音楽〉が白人にアピールしているのを察し、そして何よりも二人ともジャズに夢中になっていた人物であったため、アトランティック・レコードという会社を設立し、黒人シンガーのリクルートに乗り出しました。レイ・チャールズは、同会社と契約を交わし、その結果、これまでの彼の音楽のヴェクトルとは反対の音楽の録音を勧められます。つまり白人に受けることを最初から狙うのではなく、自分が育った自然な音楽を表現する方向を示唆されるのです。アーテガン=ウェクスラーは、こちらの方がいまや「時代の音」なのだという認識に立っていたのです。
1959年夏、彼の What'd I Say がヒットチャートの一位になります。これは、1955年の I've Got a Woman に続く2度目の一位ですが、55年から59年までの間にここでクロスオーヴァーの意味が変化しました。50年代末期の黒人アーティストによるヒット曲は白人におもね、媚びをうるものではなく、〈自分自身の表現〉となったのです。
かくして〈自由に〉表現したレイ・チャールズの音楽は、黒人教会のサウンドをアメリカのお茶の間に運んでいきました。黒人教会では、牧師が一方的に説教を述べるのではなく、牧師の呼びかけに会衆が「アーメン」や「主を讃えよ Praise the Lord」と応じることがなされます。そうすることを通じ、信仰を互いに確認し、会衆のあいだでの信仰の絆を結びあげていくのです。"What'd I Say"では、歌唱が途中でおわり、「オーオ」というレイの呼びかけに対し、バックコーラスが「イエー、イエ」と応じています。これはまさに黒人教会から生まれた表現形式のひとつなのです。これを呼応形式(コール・アンド・レスポンス)と呼びます。
実に奇妙な現象です。南部には軍隊が派遣されるほど人種間の関係が悪化している。でも音楽では交流が続いている。ここで非常におおきな史的問題がたちあがります。それはある大きな事件を理由に人種関係を推し量ることはできないということです。対立が表面化する〈場〉もあれば、そうでない〈場〉もある。人種関係を論じるには、この〈場〉の定義、分節化がまずはなされなくてはならない。
この音楽は当時の白人の耳にはとても新鮮に響きました。そうした音楽を通じた人種間交流のなかからうまれた新たな音楽に名前をつける人物が登場します。それは、当時はフィラデルフィアで活躍し、いまでは伝説となっている白人のDJ、アラン・フリードです。