5-10 大統領選挙を動かせ!ーー SNCCとキング、ケネディ兄弟 Part 2

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200310月27日脱稿

1960年大統領選 ケネディ対ニクソンの結果さて、前回は「伝説」の大統領候補討論会の画像をみることで、ケネディ大統領登場の「神話」とその実像に迫ってみました。右は、大統領選挙の選挙団獲得州を候補別に塗りわけしたものです。えんじ色がニクソン支持、暗い青色がケネディ支持の州です。

こうすると、どうです?、ぱっと見て、この選挙がいかに接戦だったかが視覚的にわかります。そしてじっくり見て、あれれ、ケネディよりニクソンの方が獲得した州の数は多いんじゃないの?、と疑問が浮かび、州を数えたくなります。

ここで、理解して頂きたいことがあります。まずは、アメリカ大統領選挙は「間接投票」であるということ。州には人口比に応じて「選挙団」electoral collegeが振り当てられ、最多の票を集めたものが、その州の選挙団すべてを獲得し、選挙の勝敗は。獲得した州の数ではなく、選挙団の数によって決定します。ですから大都市圏を抱えた州をおさえたものが、圧倒的に有利になるのです。

現在は、テキサス、カリフォルニア、フロリダといった南部地域の選挙団の数が増加傾向にありますが、60年当時には、ニューヨーク州はもちろんのこと、シカゴのあるイリノイ州、デトロイトのあるミシガン州、フィラデルフィアのあるペンシルヴェニア州、ボストンのあるマサチューセッツ州などに多くの選挙団が振り当てられていました。

この事情を踏まえると、ケネディ勝利の理由は明白です。ニクソンは選挙団の少ない西部地域で善戦しているものの、肝心の大都市圏を抱えた州は、大都市クリーヴランドのあるオハイオ州を例外とするとすべてケネディのものになっている。

つまり都市票がケネディを大統領にしたのです。そしてこの当時、中西部、東部の都市において、大きな政治力を獲得していたのが黒人票なのです。

あれれ、黒人はでもマイノリティでしょ?、と当然ここで疑問がわいてきます。しかし、マイノリティであっても団結票であれば、接戦の選挙の結果を左右する、文字通りのキャスティング・ヴォートを握ることになるのです。この選挙は、それが現実になったものでした。

ではなぜ北部黒人の団結票がケネディに投じられたのか?。それは表向きの選挙活動の裏で、ケネディ陣営は実に効果的な政治活動を行ったからです。

ここで大統領選挙はシット・インと関係してきます。場所は、スペルマン、モアハウス、クラーク=アトランタという黒人大学の名門が集まるアトランタ。

アトランタでは、黒人の牧師が白人ビジネス界と比較的穏和な関係を持ち、その結果、この地の黒人の名士は、ほかの南部の都市とは異なり、比較的大きな政治的発言力をもっていまし当時のジュリアン・ボンドた。有名なマーティン・ルーサー・キングの父親などは、その筆頭にあげられる人物です。

そのような事情があるにもかかわらず、この地の公共施設やレストランでは、他の南部と同様、人種隔離が行われていました。そこでこの地のSNCC支部は、感謝祭前のショッピングシーズンにあわせ、ダウンタウンの高級ホテルのレストランでシット・インを敢行する計画をたてます。この運動の先頭にたった人物が、1966年にはジョージア州議会議員に選出されるジュリアン・ボンドで、当時、キングの母校でもあるモアハウス大学の学生をしていました[注1]この運動が黒人学生だけの運動だったならば、大統領選挙を左右することはなかったでしょうが、ボンドたち、アトランタのSNCCは、そもそも大統領選挙に影響を与えることを目的に運動の戦略をねりました。

さて、もう一度上の地図をご覧ください。ケネディは、当時ほぼ白人だけしか投票できなかった南部諸州も獲得しています。これは、つまり、南部の人種隔離論者の神経を逆撫でしない選挙運動を展開したということになります。ケネディ陣営の念頭にあったのは、20世紀になって初めて、黒人に対する人権侵害を調査することを目的に「公民権委員会」を設置したトルーマン大統領の先例だったのです。ケネディと同じ民主党のトルーマンは、公民権委員会を設置した後の1948年大統領選挙で、南部の選挙団すべてを失ってしまっていました。この時、南部は独自の候補をたて、トルーマンに対抗したのです。しかし、もし共和党に南部票が流れていたら、選挙結果は違ったものになったかもしれません。そこでケネディ陣営は、南部票の獲得を確実なものにするために、副大統領に南部テキサス出身の連邦議会議員、リンドン・B・ジョンソンを指名したのでした。

他方公民権勢力の側は、このような民主党大統領候補の動きには当惑せざるをえません。ゆえにNAACPもSNCCも民主・共和両党の候補に公民権政策に関する公開質問状を突きつけたのですが、問題がきわめて微妙なものであるため、両候補ともこれらを無視しました。そこで、ああ、そうか、無視されたならば、直視させてやれ、と、SNCCは姿勢を変えることになります。

彼ら彼女らが練った戦略は簡単そのものです。ひとつは大統領選挙直前にシット・インを敢行し、両候補の対応をみること。しかし、これだけではツメが甘い。なぜなら、こうなっても両候補は「無視」する可能性があるから。そこで次の戦略を考えます。モントゴメリー・バス・ボイコットによって、国際的に有名になったばかりのマーティン・ルーサー・キングをシット・インに参加させ、警察当局がキングを逮捕せざるをえない状態にすること。こうなると大ニュースになる。

当初この計画を打ち明けられたキングは、「投獄」という事態を、当然のことながら恐れ、シット・インに同行することを拒否しました。しかし熱心な学生の説得に最後には応じ、その結果逮捕されることになります。

ハリス・ウォフォードこの事態を「黒人票獲得の好機」ととらえ、迅速に、そして秘密裏に行動したのが、当時ケネディ陣営の選挙参謀のひとりだったハリス・ウォフォードという人物です(彼は、その後、ケネディ〜ジョンソン政権で、マイノリティ問題担当大統領補佐官になります)。秘密裏に行動したのは、彼を除く他の選挙参謀、わけても「後援会長」だったジョン・F・ケネディの実弟、ロバート・ケネディが「無視」の姿勢をとっていたからです。したがって、ジョン・F・ケネディを交えたミーティングなどで提案すると、これを「好機」と捉えるウォフォードの意見が畳まれてしまうのはまちがいありませんでした。触らぬ神に祟りなし…。

そこでウォフォードは、ジョン・F・ケネディと二人きりになれる瞬間を待ちました。エレベーターのなかでその時がきたとき、彼はケネディにアトランタで起きている事態を簡単に耳打ちし、キング家の電話番号を記したメモ一枚をわたしました。南部の人種問題を、政治ではなく、道義の問題として捉えていたケネディは、これに即刻反応します。[注2]「なんてこった、さぞかしキングの家族は心配しているだろう」、こんなしごく簡単な感情が、彼を動かしたのです。そして、キング家の電話番号を回し、コレッタ・スコット・キング(マーティン・ルーサー・キングの妻)に「ご心配のあまり健康を損なったりしないように」と告げます。

これを参謀長ロバート・ケネディは翌朝知ることになりました。兄の「軽はずみ」な行動、これを何とかして抑えこまなくてはならない。そこでロバート・ケネディは、すぐにアトランタ市長と電話で会談を持ち、キングの早期釈放と同時に、ケネディ陣営のこれら一連の行動がマスコミに知れないように調整します。

このロバート・ケネディの行動あって、大手メディアは、ケネディ=コレッタ・キング会談の事実を知るには至りませんでした。しかし、ブラック・コミュニティは違っていた。黒人向けの新聞は、ここでケネディ支持に傾斜を強めます。しかし、おおっぴらにケネディ支持を訴えると、南部白人の票がケネディから離れることは明らか。それゆえに、黒人向けの新聞もこの件に関しては報道を控えることになります。

しかし、事態ここにきてケネディ陣営は戦略を変更します。投票日の1週間前から北部都市の黒人教会で、この事実を告げる広報のビラを大量頒布したのです。

他方、ニクソンは終始一貫して、キング逮捕事件を無視しました。

その結果、北部の大都市圏を抱える諸州は、圧倒的多数がケネディのものになったのです。

しかし、このような選挙の経緯を考えると、ケネディという新大統領の人種問題に対する姿勢がわからなくなります。なぜならば、確かなことはひとつ、選挙戦略の面から考え狡猾に行動したのみであり、意志と決意をもって行動したのではない、ということ。新大統領がどのような政策をとるのか、それは不明でした。

そこで、公民権団体は、それがはっきりとわかるように、否、明瞭な態度を示さざるをえない事態へと新大統領ジョン・F・ケネディを追い込んでいきます。長距離バスでの人種隔離を撤廃させるため、白人と黒人が並んで座席に腰掛け、南部を目指す、「フリーダム・ライド」は、こうして始まることになるのでした。ケネディ、キング、SNCC、アメリカ60年代を彩る役者はここに出揃いました!。そして、その過程で、表舞台にたったのは、実はジョン・F・ケネディではなく、ロバート・ケネディであり、その経験の結果、ロバートは政治家として大きく成長していくことになります。

[注1]彼はその後、ヴァージニア州立大学の60年代研究所の所長になり、現在はNAACPの執行委員長の職にあります。ラディカルなSNCCの活動家が、なにゆえNAACPの執行委員長になったのか?、それは年末の研究会で報告し、報告内容はこのサイトにて掲示します!。[本文にもどる]

[注2]黒人が直面している問題を、政治的な問題ではなく、道義的な問題であること、このような規定には大きな陥穽と過誤があります。この事情に関しては、すでに公刊の拙稿があります(それに関しては、ここ、をクリック)。しかし、「リズム&ブルーズの政治学」の文脈において、いずれにせよ時期がくれば論じます。[本文にもどる]

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公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee、「スニック」と発音)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。