3-8 アメリカン・バンド・スタンド
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2001年9月10日脱稿
さて2回ほど、黒人の自由を求める闘争だけの話が続きましたが、それをこれまでの論考のなかで簡単に整理しておきましょう。
1.黒人ブルーズの音楽表現はプレスリーを筆頭にアメリカのメインストリームの世界に入った。
2.それが50年代後半には、ロックンロールと呼ばれるようになったが、当初白人も黒人も耳を傾けていたこの音楽は、そうしたがゆえに弾圧されてしまった。
3.音楽表現が弾圧される一方で、黒人の自由を求める運動がかつてになく活発に展開され始めた。
ここでそもそもロックンロールを拡めた媒体が何であったのかに再度注目して欲しいと思います。それは、姿、したがって肌の色が見えない、ラジオでした。それが、アラン・フリードが仕掛けた一連のコンサートによって可視化され、それが弾圧を惹起することになった。それでも、肝心なのは、初期のR&Bを拡めるにあたってはラジオが大きな役割を果たしたということです。
さて、時はずっと下って、1984年。その年にエミー賞を受賞することになる「モータウン創立25周年パーティ」というのが開催されました。モータウンとは60年代に一世を風靡する黒人のレコード会社ですが、その番組の総合司会に抜擢されたのは黒人ではなく、白人のディック・クラークという人物でした。そのディック・クラークは、登場するとすぐにステージ上のスクリーンに映像を映し出させます。その映像は、南部公民権運動の模様を映し出し、その次に60年代全盛期のモータウンの模様を映し出します。そして彼はこう言いました。「何という進歩なのだ」"What a progress!"。つまり、モータウンと黒人の自由を求める闘争の話を接合させ、そうすることによってモータウンを黒人の進歩のシンボル、自分をその進歩の演出者のシンボルにしたのです。
しかし、前回のリトル・ロック・ハイスクール危機で述べたように、50年代後半の時点においてでさえ、黒人の「進歩」なるものは確かなものではありませんでした。なるほど、9名の黒人高校生はかつては白人しか入学できなかった高校に通えた。しかし、銃剣の保護のもとで高校生活を送るというのは、決して望ましい環境ではありません。さらに、身体へ加えられる暴力は連邦軍の銃剣が抑えこんでも、黒人生徒の精神にくわえられる暴力(たとえばニガーという蔑称)はどうにもこうにも避けようがなかったのです。
音楽の場合でも事情はまったく同じで、この当時よく言われていたことばに、「エルヴィスは軍隊にとられた、バディ・ホリーは死んじまった、リトル・リチャードは出家してあっちの世界のひと、チャック・ベリーときたら監獄にいる」というのがあり、「ロックンロールの死」さえささやかれていたのです。
ところでモータウンが起用したディック・クラークという人物は、「シンボルによる演出」にきわめて優れた技能をもっていた人物でした。彼は最初はフィラデルフィアでレコード著作権の代理店数件を経営する若い起業家でしたが、フィラデルフィアのローカルテレビで「アメリカン・バンドスタンド」という番組の司会者となります。この番組は、ウィークデイの3時から5時にかけて放送されていた音楽バラエティ番組です。この番組の時間帯から明かなように、番組制作者がターゲットした視聴者は白人の中・高校生でした(ここでわたしと同じ世代のひとたちには、番組放送の時間帯を考えると、「夕焼けにゃんにゃん」という番組が連想されますね)。
わたしはここで「白人」という〈人種〉の規定を行いましたが、それには理由があります。なぜなら、この当時でも黒人の進学率は低く、さらには白人家庭と黒人家庭の所得格差は大きかったために、黒人の高校生ならば学校が終わるとアルバイトをしなくてはなりません。彼ら彼女らは「放課後」の「暇な時間」などなかったのです。
この番組は、フィラデルフィアで大人気番組となり、リトル・ロックに連邦軍が投入されたのと同じ年にABC放送によって全米ネットの番組となります。右の写真は、「アメリカン・バンドスタンド」がABC放送の番組になったときのディック・クラークの写真です。
ここで注意してもらいたいのが、テレビ番組の娯楽番組は、まず第一に商業的利益のために放送されるのであって、市民教育のために放送されるのでない、ということです。そこで、当然のことながら番組の司会者でもあり起業家でもあったクラークは商業的利益を求めます。カメオ=パークウェイ、スワン、チャンセラーというクラークが所有する3つのレコード・レーベル傘下の歌手を優先的に番組に登場させたのです。そしてそのような歌手たちが歌っていたのは、実はR&Bのカヴァーだったのです。後にこの番組の人気が沸騰するにしたがって、クラークは徐々に他のレーベルのスターたちを出演させ始めます。ポール・アンカ、フランキー・アヴァロンといった歌手がそのような人物で、このようにR&Bのカヴァーを歌いながらも、その人種的意味あいをきわめて意識的に抑圧した音楽のことをPhiladelphia Schlockと言います。いまschlockという意味をリーダース英和辞典で調べたら、なんと「ずっこけロック」という訳語がつけられていました。が、これは名訳です。(ああ、ここでNapsterがまだ利用できたら、ためしにポール・アンカの曲を聞けるようにしておけたのに、と思っています。Napsterでダウンロードすればただですが、わたしはとてもじゃありませんがポール・アンカのCDを買う気にはなれません)。人種がこの番組にどのように現れていたのかは、左の写真をネガとしてみればよくわかります。人びとは音楽にあわせて踊っている。ここまでは実はアラン・フリードが仕掛けたことと同じです。しかし、音楽の出自はR&Bなのにも関わらず、このダンスフロアに黒い顔は見られません。
ある音楽史家による記述では、音楽産業における「アメリカン・バンドスタンド」のマーケティング力は、ビートルズ、アニマルズ、ローリング・ストーンズに代表されるブリティッシュ・インヴェイジョンが開始されるまで維持されたとされています。今度は左の写真をみてください。これ30歳以上のひとは連想するものがありますよね。80年代前半に日本テレビとTBSがやっていた番組。そうなのです。この番組は後の音楽バラエティ番組のひな型とも言えるほど影響力が強かったのです。しかしそこで聞かれたロックンロールは「ずっこけロック」だったことを忘れてはなりません。そして、ビートルズが1964年に最初の全米ツアーを行ったとき、その前座に起用されたものこそ、モータウン傘下のアーティストたちでした。つまりディック・クラークは、モータウンとは何の関係もないし、ましてや黒人の進歩とも何の関係もないのです。
このような事態の展開を受け、しかし、黒人のパフォーマーたちは黙って音楽市場から撤退したわけではありません。「ずっこけロック」を演奏しているようにみせながらも、「ずっこけロック」にはないソウルフルな声を、秘かに楽曲のなかに忍びこませ、そうすることを通じてメインストリームへ突撃を開始するのです。白人の文化的ヘゲモニーが動揺し始めていることには間違いがなく、その動揺によってつくりだされた音楽の政治的空間に、黒い声が響き始めるのです。それは2つの方向からやってきました。ひとつは、「ポール・アンカ」の仮面をかぶること。もうひとつは、黒人ではなく女性として売り出すこと。前者の具体例にサム・クックというソウル/ゴスペル界の巨人の名前があげられます。後者には一般的に「ガール・グループ」と言われたグループたちがあげられます。
いずれにせよこの時代、アメリカ社会は黒人を社会に受け入れる=統合するか、それとも排除するか、その闘争が繰り広げられる場になっていました。したがって「アメリカ版夕焼けにゃんにゃん」は、無垢なティーン向けの番組のようでありながら、そのような社会の直中にいたために、〈人種的なるもの〉の陰影を受けていたのです。
そこで次章は、60年代のR&Bの礎を築いた伝説のソウル・シンガー、サム・クックを大々的に取り上げます。
注
エミー賞:テレビ界のアカデミー賞にあたるもの [本文にもどる]
「ディック・クラーク…起業家」:これはいまでもそうです。脱工業化の現代、彼は音楽産業の投資コンサルティング会社も経営しています。冷やかしでも興味のあるひとは、ここ、をクリック。[本文にもどる]
スワン:後にレッドツェッペリンのメンバーが創設するレーベルもスワンですが、英語での綴りが違います。[本文にもどる]