リズム&ブルーズの政治学
【第1回:はじめに】

このシリーズでは、〈「平いたい言葉」を使うこと〉を心がけ、なるべく1回のエッセイは短くまとめていきます。(学術的時事論評的なことは別ページがあるので)。しかし、エッセイが目標とするもののレベルを下げようとすることで、〈一般受け〉を狙いはしません。その成功は残念ながら現時点では保証できません。だから「実験エッセイ」なのです。

そこで、今回は、「はじめに」ということで、二つのことを押さえておきます。

〈政治学〉

エッセイタイトルのこの言葉をみて、引いてしまったひとがいるかもしれませんね。しかし、これは学問的カテゴリーとしての「政治学」とは違う意味です。〈政治的なるもの〉が交錯するひとつの場、ということを意味します。

平たく説明しましょう。忌野清志郎が「君が代」をハードロック調にアレンジしたところ、ポリドールは発売禁止にした、という事件が2年前にあったでしょう。「歌」、そして「歌のアレンジ」というところに、「君が代」をめぐる諸論がぶつかり合い、「発売禁止」という事件を引っ張り出したのです。ここでの諸論とは、たとえば戦争責任をどうするか、とか、天皇制とは何か、といった極めて「政治的」なものにほかなりません。この情況を、「君が代」の政治学が清志郎の歌を場にヘゲモニー争いをした、または、清志郎の歌がヘゲモニーを巡る政治的なるものの抗争の場になった、という風に説明づけられます[1]

〈ヘゲモニー〉

さて、黒人の文化表現を考える場合、黒人という集団が差別を受けて抑圧されてきた、という大前提が問題に当然なります。しかし、抑圧されたものたちは、決して抑圧をされるがままに黙って耐えていたことにはなりません。むしろ、黒人の歴史とは、抑圧的体制に対するレジスタンス(抵抗)の歴史です。

ところが、レジスタンスをあからさまな形で行うと、当然激しい弾圧を受けます。そこで、黒人たちのレジスタンスは、それが一見レジスタンスとは見えないような形態をとらざるをえないのです。

このような大前提を考えに入れたうえでR&B興隆の歴史を解釈に役立つのは、僕はアントニオ・グラムシの〈ヘゲモニー論〉だと思います。

ではグラムシ・ヘゲモニー論とは何かを極めて簡単に説明します。ヘゲモニーとは支配権、覇権の意味です。抑圧者と被抑圧者の関係は、直接的には、暴力による支配・被支配のかたちではあらわれない。抑圧者は、被抑圧者から〈合意〉をとるべく、さまざまな〈文化的〉戦略を用いる。そして被抑圧者は、その文化的戦略に抑圧の姿をみるよりも、抑圧体制に〈合意〉をしてしまうことがある。しかし、この〈文化〉をめぐる支配権は決して安定したものではなく、そこは実は〈合意〉をめぐる政治的闘争の場なのです。これがグラムシ・ヘゲモニー論。

そこでこのヘゲモニー論をふたたび清志郎の「君が代」を例にとって考えてみましょう。東芝の発禁処分は、その処分の是非をめぐる論争を引き起こしてしまいました。この論争にヘゲモニーをめぐる抗争の場をみることができるのです。「君が代」を国歌にすると言ったって、「国歌」というもの事態がそもそも曖昧なものであり、ひとによって受け取り方が違う。黙祷を捧げたくなるものもいれば、国家・国歌なんてクソくらえ、と思うものもいる。このような多様な意見のなかに〈合意〉はみられず、そこでヘゲモニーをめぐる抗争が明らかになるのを避け、東芝は発禁したのにほかなりません。(ちなみに、アメリカ国歌では、NBAファイナルでのマーヴィン・ゲイの歌唱、ウッドストックでのジミ・ヘンドリックスの演奏、などいろいろなものがありますね。これらの歌唱・演奏も、時代の情況の〈政治学〉が繰り広げられる場です。)

〈予告〉

この連載では、ロックンロールの誕生から、フィラデルフィア・インターナショナルの興隆までの25年間をゆっくりとみていきます。

50年代中葉、覇権を握るもののヘゲモニーがぐらつきました。これは、2つの方向からやってきます。一つは連邦最高裁判所の判決、つまり政治的なものそのもの。もう一つは、ロックンロールの生誕。次回は、ロックンロールの生誕の解釈を試みます。

〈ヘゲモニー〉、〈政治学〉、は、このシリーズをつうじて、いわばシリーズのベース音になるものなので、覚えておいてもらえるとうれしいです。

[1]アメリカのフェミニズムの運動の合い言葉に"the personal is the political"というのがあります。これは、個人的なもの(もしくは個人的と表面上だけはみえるもの)も実は政治的なものなんだ、だから個人を囲む情況をみることで政治的なるものへの糸口をみつけよう、という意味でした。だから、女性をお茶くみ、コピーとりにしか扱わない会社で、女性従業員が不満を抱えた(当然のことですが)場合、その〈不満〉とは決してたんなる心理的なものでもなければ、〈自己中〉なものでもありません。家父長制秩序(男性優越主義、男根主義)を写し出す、〈政治的なるもの〉なのです。

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