5-2 公民権運動のママーーミス・エラ・ベイカー

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20032月17日脱稿

前回解説した簡易食堂でのシット・イン、これがグリーンズボロだけで終わったならば、後々まで語りつがれることにはならなかったでしょう。カウンター席はいまスミソニアン博物館の入り口に陳列されている、これが物語るのは、この事件が周囲に与えた影響が尋常ではなかったということに他なりません。年配のアメリカ人は、黒人・白人を問わず、シット・インと聞くと当時のことが思い浮かぶのです。

グリーンズボロにいま少し即して解説しますと、300名を動員した「大衆運動」にこの運動が成長した3日後、ノース・カロライナ州を代表する港湾都市ダーラム、そしてウィンストン=セーラムの街でシット・インが敢行され、さらには同州随一の名門私立大学デューク大学でも白人学生が、ほかの街の黒人学生を中心とした運動を支援するために、シット・インを行うことになります。2月10日には舅、ラレーでもシット・インが行われ、これによってノース・カロライナ州全域がシット・インの波に飲み込まれることになりました。2日後、その波は州境を越えてサウス・カロライナに達します。

つまりグリーンズボロを中心に同心円上に運動が拡し、南部各地でシット・インを誘発し、その結果、60年4月中旬までに延べ人数5万人が参加することになったのでした。

1980年代のミス・エラ・ベイカーこの学生たちの自発的運動に真っ先に反応した老練の活動家がいます。その人の名が、この節のタイトル、ミス・エラ・べーカー(Ms. Ella Baker)です[1]。たったいま「老練の活動家」と言いましたが、彼女の公民権・人権の分野での活動歴は1930年代にまで遡ります。前章で「広義の公民権運動は1930年代に始まる」と軽くふれましたが、それはこのような経緯を鑑みてのことなのです。運動は60年代に突如生まれた、それは一面では確かである。だが他面では、30年代から蓄えられたブラック・コミュニティのさまざまなリソースを抜きに考えることもできない。その事情は、サム・クックの歌唱技法が、きわめてオリジナルでいて且つゴスペルやブルーズといった既存の音楽にルーツをもっているのと同じことです。

さて、そのミス・ベイカーは、ノース・カロライナ州ラレーにあるショウ大学を卒業後、ヴァージニア州ボルティモアの全米黒人向上協会(NAACP)の専従活動家になります。同地での活動が認められた彼女は、その後、本部から南部で学生支部を組織する専門職に任ぜられ、その職を50年代中頃まで務めます。

が、このときにすでにミス・べーカーにはNAACPに強い不満を抱えるようになっていました。それは、要職のほとんど全部を男性が占め、女性を単なる「お茶くみ」にしか扱わないということを日々目撃していたからです。ほかの団体ならともかく、自由と平等のために闘っている団体がこれでいいのか?、そう自問するようになっていました。

そのようなとき、モントゴメリーで、ミス・ローザ・パークス逮捕事件が起き、バス・ボイコットが始まったのです。結局はキング牧師というカリスマの登場を見るこの運動は、しかし、別項で詳述しましたように、実は地元の人びとの地道な活動があってこそ大運道となったものでした。そしてこの運動が、この時点での黒人の最大組織NAACPではなく、地元のリソースを中心に展開されたこと、これがミス・ベイカーの関心を惹くことになります。

モントゴメリー・バス・ボイコットが勝利したのち、マーティン・ルーサー・キングは、運動の勢いに乗じ南部でさらに大きな運動を展開するために黒人牧師を集め、南部キリスト教指導者会議(Southern Christian Leadership Conference, SCLC)を結成します。ここで結成までは順調に進んだものの、いざ活動となると同組織はまったくどうしていいのかわかりませんでした。なぜならば牧師の人びとは聖書を暗誦はできても、団体運営の実務に関する知識を持っていなかったのです。そこで、モントゴメリー・バス・ボイコット運動の中心人物のひとり、E・D・ニクソンを仲介に、ミス・エラ・ベイカーが実務を担当する部門の最高幹部、執行委員長として抜擢されることになったのです。

が、ここでも繰り返されたのは、NAACPの事態と同じでした。SCLCは、基本的に社会的問題に関しては保守的とされる牧師を中心とした団体であったため、事態はむしろNAACPよりも悪いものでした。 たとえば地域の図書館に行って、岩波新書の『自由への大いなる歩み』というキングの自伝を読んでみてください。そこに彼の夫人、ミセス・コレッタ・スコット・キングに話が及ぶときがたびたびありますが、その場面には共通の特色があります。一歩外の社会に出て〈7人の敵〉を相手に奮闘している主人を家にいて静かに見守っている人物、として描かれています。ミセス・キングは、夫の死後、活発に社会運動を行っている人物です。なのに彼女のそのような側面には何ひとつ言及がないのです。

5万人の学生の運動が起きたのは、そろろそSCLCを辞めようか、そんな考えをミス・ベイカーが抱いていた頃でした。ここでミス・ベイカーは思い立ちます。この若者たちの運動をひとつに糾合できれば、未来を切り拓く新たな運動が生まれる、決して「大人たち」の組織を真似るようなことをさせてはならない。

そこで、彼女はSCLCから800ドルの財政的支援を得て、ノース・カロライナ州ラリーにある自分の母校ショウ大学で、シット・イン参加者を集めた大会を開催するというプランを実行に移します。その大会から学生非暴力調整委員会(Student Nonviolent Coordinating Committee, SNCC 発音は「スニック」)という団体が誕生します。SNCCは、その後、「公民権運動の突撃隊」とも呼ばれ、運動のもっとも急進的な翼を担うことになります。そうもこうも、ミス・ベイカーが、学生の運動の自立性を尊び、「大人たちの組織」の干渉を拒否したからです。

60年代公民権運動はSNCCが突破口を開くことで進んでいったという経緯があります。そのことを鑑みた場合、ミス・ベイカーは、実際に子供をうむことはありませんでしたが、ある意味において「公民権運動のママ」と呼ぶにふさわしい偉業を残したことになるでしょう。その実、彼女の伝記は、小学生が読めるような英語で書かれたものまであります。基本的に運動の裏方の人物なのですが、そのような人びとにこそ、いまの歴史学は光を照射しているのです。

さて、これから先、公民権運動の話が展開される場合、団体名略称が頻繁に出てきます。以下にこれまででてきたものをまとめておきます。(なお、どの章・項を読まれてもご理解頂けるように、これ以後、項の末尾には必ず団体略称とその特徴を記すことにします)。

NAACP(全米黒人向上協会、National Association for the Advancement of Colored People)

50年代以後は弁護士を中心とし、法廷闘争を運動の中心にしていた団体。最大の会員数を持ち、それゆえ最大の運動資金を持つ。

SCLC(南部キリスト教指導者会議、Southern Christian Leadership Conference)

マーティン・ルーサー・キング牧師というカリスマを中心に牧師を集めた団体。

SNCC(学生非暴力調整委員会、Student Nonviolent Coordinating Committee)

1960年春のシット・インの波から生まれた学生を中心とする団体。

次回は、ショウ大学の大会の中心になったナッシュヴィルの学生たちの運動の話です。今回を含めてあと3回ほど、政治・社会的問題を扱います。その後、話は60年代と言えばこれ!、といわれるあのレコード会社設立の話へ。乞うご期待!

【注】
[1] 南部の「人種のエチケット」では、黒人女性が敬称をつけて呼ばれることなどありませんでした。銀行口座に預金をしにいってもそうです。窓口の人間は「呼びつけ」ていたのでした。その歴史を振り返り、いま現在、学術書・論文のなかでも、黒人女性活動家にだけは敬称をつけることにしているものが少なくはありません。この論考を通じ一貫してそのルールに従うつもりはわたしにはありませんが、エラ・べーカーは特に重要な人物なので、ここでは敬称をつけさせてもらいます。[本文に戻る]

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