リズム&ブルーズの政治学

3-3 Rock 'n' Roll 誕生:アラン・フリード

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2001326日脱稿

さて、前回の最後に人種関係は大きな事件だけに着目していては判断を間違うということを述べました。50年代後半、アメリカ史の年表をみると、〈人種問題〉に関する事件が実に多いのですが、それによってこの時代を人種対立の時代とすることはできないのです。むしろ事情はその反対で、人種間の交流が活発化されていたのです。そこに生じたのが、 白人優越主義の絶対的なヘゲモニーの動揺であり、この動揺は60年代には激動へ展開していきます。

ところでクロスオーヴァーを果たした音楽の購買層は主にティーンでした。彼ら彼女らは、1947年以後に誕生した、いわゆる「ベビー・ブーム」の世代であり、いってみればアメリカ版団塊の世代でした。ひとつの世代としての人口が多いから、当然そこに生じるマーケットも大きくなり、ポピュラー・カルチャーのマーケッティングも彼ら彼女らを狙うケースが多くなります。この点を押さえておくことはとても重要なのですが、 音楽という〈場〉を通じた人種間交流を促進したもののなかのひとつには経済的計算が働いてもいたのです。レコードは、音楽産業の〈商品〉にほかならない のです。

ここでこの時代にティーンだったスティーヴ・クロッパーの表現をもう一度思い出してください。彼は、リズム・アンド・ブルーズは「いかしていたけど、…ひとがついていけないもの」ではなかったと述べています。アメリカ黒人の音楽表現は、この当時になるとはっきりと二つの流れがうまれてきます。ひとつが芸術的・美学的な価値を求めたもので、これはジャズ、とりわけビ・バップというジャズのサブジャンルによって代表されます。それは、ジャズの技法のなかでもより精巧な音楽理論とテクニックが必要とされるものであり、それゆえ一般の大衆が好んで聴くようなものではなくなっていました [1]ビ・バップの中心人物、チャーリー・パーカーの生涯を主題にした映画『バード』のなかで、パーカーは「ブルーズならば、誰だってできる、おれがやっているのはそんなくだらないものではない!」と語るシーンがあります。クロッパーが「ひとがついていけないもの」と呼んでいるのは実はこのビ・バップのことなのです。そしていまひとつが、パーカーが「くだらないもの」と呼んでいるものに少し変化が加わったリズム・アンド・ブルーズ。こちらの目標は、市場での成功、つまり売れること、ヒットすることにあったのです。

アラン・フリードの写真この世代の人間たちにとってもある種にカリスマ的人気を得た仕掛け人が、多くのケースでは裏方にとどまるのにもかかわらず、ポピュラー・カルチャーの領域ではよくあることに、表舞台に飛び出ることがあります(たとえば卑近な例をあげると、小室哲哉なんかがいまの日本だとそうですね)。その人物こそ、アラン・フリードという名の白人DJでした。彼はまず中西部のオハイオ州を中心に活動を始めました。1952年頃には、「ムーン・ドッグ・ショー」と題した番組で、リズム・アンド・ブルーズを中心としたプログラミングと、曲にあわせて電話帳を叩く独自の語りのスタイルを駆使し、ティーンのあいだで人気を博すことになります。そのフリードは、自分の番組で放送する曲を、それが〈リズム・アンド・ブルーズ〉と呼ばれていたのにもかかわらず、〈ロックン・ロール〉という彼自身の造語で呼び始めました。やがて彼は、「ムーン・ドッグ・ロックン・ロール・パーティ」と銘打ったダンスパーティを開催することを思いつき、オハイオ州最大の都市、クリーヴランドの大ホールをその場所に選びます。会場に選ばれたクリーヴランド・アリーナの最多収容人数は1万人でしたが、チケットの前売りは1万8千枚に達していました[2]このような状況が生じれば、噂が噂を呼び、イヴェントにはさらに価値がつきます。ダンスパーティの当日には、アリーナの前にチケットを買えなかったティーンが約1万人並ぶ事態となり、ダンスパーティに行きたいがためにうまれた騒乱が〈暴動〉になることを危惧したクリーヴランド警察はダンスパーティの中止を命令しました。

ここで注目されたのは、当日アリーナの前に並んだティーンの人種でした。黒人と白人の双方がアリーナの前に群をなしていたのです。 ここにラジオを媒体として拡まったリズム・アンド・ブルーズが人種の壁を突破し、人種によっては決定不可能な〈場〉がその音楽を中心に形成されていたことが可視化された(=はっきりと目にみえるかたちになった)のです。

当然このイヴェントのニュースを聞きつけた南部政治家たちは、ほらみたことか、これは「不純異人種間交流」だ、「いまにろくでなしの〈合いの子〉がうまれてくる」という非難を浴びせかけます。しかし、その非難もベビー・ブーマーの財布を狙ったラジオ局のマーケティングは無視します。アラン・フリードは、この中止に追い込まれたダンスパーティが生み出した〈評判〉により、クリーヴランドの地方局からネットワーク局のWABCに引き抜かれ、彼の番組はさらに全米へと拡まっていったのでした。

これにより音楽の場でのヘゲモニー争いが公然と政治化されていくことになります。その詳細な事実展開は次回に譲りますが、ここで明白になっことがひとつだけありますので、そこに注意を喚起しておきます。それは、音楽を場にするかぎり、〈黒人〉という〈人種〉に関係することはネガティヴなものではなくなっていた、ということです。それは、劣等性を意味するものでも、貧困を意味するものでも、「可哀想な人たち」とイメージされるものでもなくなっていったのです。アラン・フリード、その名はまずは「ロックン・ロール」の命名者として有名ですが、チャック・ベリーのヒット曲、「メイベリーン」の共同作曲者としても残っています。ベリーのこの曲は白人と黒人の共同作業として創られたのでした。そしてWABCのフリードの番組をめぐってある事件が起きたとき、サハラ砂漠以南のアフリカでは最初の独立国、ガーナが誕生したのでした。 時代の重層的情況をまざまざと物語ることに、フリードのWABCへの移籍は、『ブラウン』判決が下されたのと同じ年、 1954年に起きたのでした。その翌年、アジア・アフリカの親好独立国は、中華人民共和国の周恩来、エジプトのナーセル、インドのネルーの呼びかけに応じ、インドネシアでバンドン会議を開催し、それはやがて〈第3世界〉という政治勢力となっていきました。 南部白人高校生の部屋から国連総会の議場まで世界の至るところで白人優越主義のヘゲモニーに揺さぶりがかけられていたのでした。

【注】
[1] このときチャリー・パーカーやディジー・ガレスピーといったカリスマ的ジャズメンの演奏に酔いしれ、それと同時にドラッグ・カルチャー(この時期ではマリファナ)も持ち込んだ人びとを集合的にビートニクス(ビート族)と呼びます。彼ら彼女らの生活は一般大衆のそれとは異質でした。だから「 ○○族」という呼称がうまれたのです。[本文に戻る]

[2]このときの実数にはかなり差があり、当時の記録のなかには8万人が集まったと記しているものもあります。文化現象としての〈 60年代〉の終わりに開催されたウッドストック・コンサートの動員人数などを考えると、この数は誇張だと断定できるものではない、と思います。いずれにせよ大騒ぎだったことは確かです。[本文に戻る]

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