「奴隷制補償問題に関するノート:その疑問点」

 

1.補償に賛成のものたちは、ニュンルンベルグ裁判で連合国がナチの「戦犯」を裁く際に適応した概念、Crime Against Humanityを摘要しようとしている。しかしここには二つの点で問題がある。

近代法には、法の不可遡及性の原則がある。これは当該法律の制定は、制定以後に有効になるのであって、制定以前に行われた犯罪を、後に制定された法を根拠に裁くことはできない、とするものである。このように考えた場合、コロンブスの第2回アメリカ航海に始まる黒人奴隷制を、20世紀の法概念で裁くことはできない。(なお、Crime Against Humanity、ならびにHumanityという概念の出現をここで歴史的にもっと精確に記述することが求められるが、現時点ではそれが筆者の大きな課題である。問題は西洋近代そのものに向かう大きなものである)。

2.補償される人間と補償する主体の問題。補償問題を大きく掲げているのは、アフリカ系アメリカ人である。これで、もし補償が決まったとしよう。すると、奴隷貿易でもっとも多く黒人奴隷を輸入した場所、ブラジルの黒人の意向はどのように反映されるのであろうか。さらに、単純にブラジルとアメリカだけで国内経済の状況がまったくことなる。そのときに、奴隷制度というアンブレラのもとに〈妥当〉な金額を決定することがいかなる手続きによって可能となるのか。

3.複雑な政治運動としての補償要求。現在アメリカの各地では、マイノリティの雇用・進学を支援するアファーマティヴ・アクションに対し違憲判決が次々にくだされ、ワシントン州、カリフォルニア州では住民投票により公立大学の入学規準にアファーマティヴ・アクションを適用することが住民投票で禁止された。かかる状況下にでてきた奴隷制補償問題は、ひとつにはアファーマティヴ・アクションにかわる福祉策・援助策を考案できなかったリベラル・サイドの最後の綱である側面があるように思われる。そして一部の保守派も補償を肯定しているようだが、これは明らかに、補償を根拠に今後〈奴隷制の後遺症〉を論拠とするアフリカ系アメリカ人援助政策を一気に否定してしまおうという「手切れ金としての補償」というアイデアが潜んでいる。このような錯綜した関係のうえで補償が支払われた場合、それは人種間の断絶を意味し、和解を意味しない。

2001年7月2日
藤永康政 未だ出口の見えないこの問題に煩悶中

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