アル=アミン事件(灰色の警官殺人事件)続報

藤永康政

アル=アミン導師の警官殺害の廉での裁判は、ジョージア州司法省が死刑の求刑を決定したため、現在陪審員の決定が慎重になされている時点にある。ジョージア州法は、死刑求刑裁判には陪審員の決定に際し、とくに厳しい審査を要求しているからだ。

これまでアル=アミン導師の弁護団は、わたしが最初のエッセイにて指摘した警察発表の矛盾点に加え、銃弾で負傷した警官が犯人の目の色は青色だったと証言していることを、アル=アミン無罪の根拠としている。なぜならば、アル=アミン導師の目の色はブラウンだからだ。弁護団はあくまでもアル=アミンの無罪を主張し、司法当局との法廷外交渉を拒否、裁判で闘争う意志を表明している。実際の公判が始まれば(今年春の予定)、そのつどこのサイトで報道していきたい。

被告人席のアル=アミン2002年1月9日
訴訟の陪審員の選抜が開始される。死刑を求刑する意図を表明しているジョージア州司法省の方針に対抗し、可能な限り広範な人びとのなかから陪審員を選抜するべきであるというアル=アミンの弁護団の主張が受け容れられる。その結果、陪審員の選抜対象となったものの数は1500名を超えることとなり、フルトン郡はおろか、〈O・J・シンプソン事件〉をも凌駕する大訴訟に発展。

なお実際の裁判過程の開始に伴い、アル=アミン導師の支持者たちがウェブサイトをたちあげている。ここ、をクリック。

支援者とハイタッチをするアル=アミン2002年2月18日
アル=アミンの裁判の陪審員が決定、弁護側が有利と思われる人種構成となる(なお、陪審制の刑事裁判で一審で無罪が言い渡されると、ジョージア州では検察は上告できない、したがってこの裁判こそ決定的に重要な意味をもつ)。9名のアフリカ系アメリカ人、2人の白人女性、1名のラティーナという陣容になる。なお、弁護団は70%の男性に異議を唱え、検察は70%の女性に意義を唱える。このような経過を理由に判事は陪審人の選別は公平になされたと判断。また、9名のアフリカ系アメリカ人の中には、元SNCC、ブラック・パンサーの女性活動家が含まれる。

 

2002年2月20日
審理が開始される。 しかし、AP通信は、「元ブラック・パンサーによる殺人の審理開始」とまたしても誤って報道。たしかにアル=アミンは一時期ブラック・パンサー党の幹部を務めていたが、それも学生非暴力調整委員会(SNCC)がパンサー党と合併する路線をとったからである。白人との共闘を拒否する分離主義的SNCCとマルクス=レーニン主義に立脚する革命政党ブラック・パンサー党のイデオロギー的懸隔は大きく、実際にこのときの「合併」は2週間ほどしかもたなかった。アル=アミンはなによりもSNCC最後の議長として歴史に名を残す人物である。ではなぜAP通信はこのような報道をするのか。それは上にみられる穏和なイスラームの導師をdemonizeするため、誤解を恐れずにさらに加えれば、オサマ・ビン=ラーディンやサダム・フセインと同格にするためである、としか考えようがない。このような報道が為されるならば、この事件は「政府の陰謀である」と語っているアル=アミンの主張に真実味が加わる。

2002年2月24日
現在でも少なくともアトランタでは決して小さくはない影響力を持つキング博士の夫人、コレッタ=スコット・キングが、アル=アミンの件に関し初めて公式見解を発表する。それは以下のとおり:

ジャミル・アブドゥラ・アル=アミン氏の裁判がフェアであり、正義に基づいた判断が為されるということについて、わたしは不安を感じている。警察当局の発表には、数々の矛盾点がこれまでの過程のなかで明かになっており、それが完全に捜査されなければならない。さらに、この裁判が司法の健全性を証明することになるならば、なぜ彼がこのようなことを行うことになったのか、その動機を、陪審員が評決に至る前に明かにされねばならない。

ここで事件は思わぬ展開をした。この声明に対し激昂を明かにしたのは、南部白人ではなく、事件の発端となった銃撃戦で殺害された警官の遺族であり、彼ら彼女らは黒人だったのである。筆者が、最初のエッセイで指摘したとおり、この事件は単純に文字通りの意味で白黒がつく問題ではない。キング夫人やアル=アミンが黒人の声を代弁するものでなければ、アトランタ警察も白人の声や権力を象徴するものではなくなっている。21世紀のアメリカ深南部、そこの権力に、これまでのように鮮明な色はないのだ。

2002年3月8日
審理が終了。陪審員が有罪・無罪の討議に入る。この日の『アトランタ・ジャーナル・コンスティチューション』紙は、事件で殺害された黒人の警官、リッキー・キンチェンの家族、小学生時代の先生の話を掲載。彼の先生は、彼が小学生のときに、「社会変革のために身を捧げた学生非暴力調整委員会のH・ラップ・ブラウンについて語った」ことを覚えていると述べ、その一方で、彼の兄弟は、もしアル=アミン導師の弁護団が言うようにこれがアル=アミン弾圧の「陰謀」ならば、自分の兄弟の性格を考えると、「自ら進んでその汚い仕事を引き受けた」ということになる、そして弁護団がそのような暗喩のある主張を行っていることに堪えられない、と語る。明かに法廷に白と黒の境界線は存在していない。

10時間の討議の末、陪審員は、警官殺害を始めとする12の罪過すべてに対し有罪の評決を下す。これにより争点は、死刑か、それとも無期懲役か、に移るが、ジョージア州司法省は既に死刑求刑の意向を表明。なおこの情況を伝える『ニューヨーク・タイムス』は、弁護側の抗弁がたった2日で終わったことに当惑を表明しつつ、南部方面の記事を執筆することが多いデイヴィッド・ファイアストーンの署名記事で、筆者がこれまで触れてきた、この係争の人種的側面をこのように伝えた。

この評決でこの事件は終末を迎えてしまった。ラップ・ブラウンが、ストリートに出現し、暴力による抵抗を呼びかけ、アトランタが白人エスタブリッシュメントに支配されていたときならば、これは大問題となる事件だっただろう。しかしながら、ここに見るように、これはその時代からアトランタがいかに大きく変化を遂げたのかを示すことになった。銃弾を受けた警官2名は黒人、フルトン郡の保安官も、市長も、そして地方検事もすべてみな黒人なのである。

有罪の評決後、興奮して暴れたため、廷内から追い出されるアル=アミンの支持者右の写真は、これをヴィジュアルに伝えてくれる写真である。有罪の評決が出ると、一名の黒人女性でアル=アミン導師の支持者が暴れ始め、法廷から強制退去の処分になった。が、彼女を法廷から連れ出そうとしている写真に写っているのは黒人ばかりである。

しかし、筆者が指摘し、SNCCの同志が指摘し、さららにはキング夫人まで指摘した警察報道の問題点は、結局十分な説明がなされずに評決に至っている。おそらく、アル=アミンは控訴するであろうが、その経緯はおってこのページにて伝えていく。

さらにまた、CNNを始めとするテレビ報道、ならびに『ワシントン・ポスト』は、アル=アミン導師のことを一貫してブラック・パンサー党の元幹部と伝えてきた。これは明かなセンセーショナリズムである。それとともに、現在のアメリカ社会でブラック・パンサー党がいかなる評価をされているのかを物語っている。改めて指摘するが、アル=アミン導師がブラック・パンサー党に所属していたのは1か月未満である。彼は、第一義的には、学生非暴力調整委員会の議長である。学生非暴力調整委員会の活動を伝える写真は、スミソニアン博物館の入り口に掲示されている。しかし、ブラック・パンサー党はいまだにテロリスト集団と思われているのだ。その上、ラップ・ブラウンは、イスラームに改宗していた。何をか言わん。

この評決を受けて、全米最大の黒人公民権団体の執行委員長、ジュリアン・ボンド(1960年代は学生非暴力調整委員会のメンバーとしてラップ・ブラウンアル=アミン弁護団側の証人として発言する元アトランタ市長のアンドリュー・ヤングとともに活動した)、詩人のアミリ・バラカ、ブラック・パンサー党の元中央委員会委員長、イレーン・ブラウン、等々の、60年代の運動でもラディカルな翼に属し、現在も活動を続けているものたちが、来る審理での「証拠の厳密で公正なる吟味」を要求する全面広告を『アトランタ・ジャーナル=コンスティチューション』の月曜日の号−−審理が再開される日−−に掲載する意向を発表。

2002年3月12日
罪刑を決定するための審理が開始される。この日、アル=アミンの弁護団の頼みで、アトランタの黒人の強力な政治力のシンボルでもあるアンドリュー・ヤング元市長を証人として証言。 同じく、元ブラック・パンサー党幹部で現在は弁護士をしているキャスリーン・クリーヴァーも証言に立ち、両者ともども、公民権運動家ラップ・ブラウンの偉業を賞賛するとともに、罪刑の決定にあたっては恩情的措置が講じられることを求める。右の写真は、証言台にたったアンドリュー・ヤング。

2002年3月13日
アル=アミンに量刑が言い渡される。保釈なしの無期懲役、つまり死刑は免除された。が、これで彼が死ぬ場所が、悲しいことに決まってしまった。理想主義に燃え、アラバマで有権者登録運動に従事した若き公民権運動家、H・ラップ・ブラウン(aka ジャミル・アブドゥラ・アル=アミン)は、獄中で死ぬ。ちなみに陪審員は、この評決に至るのにわずか5時間を費やしたのみ(陪審員の構成は、8人のアフリカ系アメリカ人、1名のラティーナ、2名の白人)。
『アトランタ・ジャーナル=コンスティチューション』はアル=アミンの弁護団が控訴の意向を表明していると報道している。が、陪審員制による刑事裁判において控訴が取り上げられるのは、(1)判事が陪審員に対し法的に不適切な支持をした場合、(2)検察・弁護のいずれかが虚偽の証拠を提出していた場合。この度のケースをみる限り、控訴審が開かれる可能性は低い。

だからこそ、筆者には疑問が残るのだ。警官が撃ったという人物はいったい誰なのか。青い目をした人物は誰なのか。検察は、この事件の初動捜査における犯人描写の矛盾を何一つ納得のいく形で説明していない。

さらにまた、なぜアル=アミンはラウンズ郡、つまり60年代後半の黒人のレジスタンスの発端の地へと逃げたのか?

わたしは知りたい。そしてアル=アミンの支持者、ヤング元市長ら最後にアル=アミンの弁護に立った人物たちも、それを知りたがっているだろう。

2002年3月16日
評決が言い渡されるとともに、全米規模のメディアはこの事件をレポートしなくなった。一方、地元紙の『アトランタ・ジャーナル=コンスティチューション』には、陪審員の声が掲載されはじめた。そのなかで、ある陪審員はこう言っている。「陪審員の仕事は楽なものじゃないし、もう一度やれと言われるとご免だね。実際、陪審員の多くは評決が読み上げられるのを聞きながら泣いたんだ。でも動かない事実がある。この事件の責任はすべてアル=アミン自身にあるということ」。
筆者は、学生非暴力調整委員会とブラック・パンサー党の研究を通じて、アル=アミン、否、H・ラップ・ブラウンのことを知った。そのようなものにとって、彼は、いわばアイドルだった。彼は今も政府の陰謀説を主張している。上述のようにこの事件で明かにされなくてはならないのに、そうされなかったものが残っている一方、黒人8人を含む陪審員に有罪評決を受けた彼が主張する政府陰謀説を簡単に信じるわけにはいかない(陪審員裁判は全員一致でなくてはならない、一人でも異なる意見をもつものがいれば、それはhang juryと呼ばれ、再度最初から審理を始めなくてはならない、こうなると相手の手口がわかっているからゆえに、再審理でより有利なのは事実を語っている方に自然となる)。このような事実と事実の板ばさみ、青年の筆者をとらえた若きラップ・ブラウンの雄姿の陰のなかで、筆者も泣いている。

この事件に関しては4月の米国リサーチで現地の感情を肌で感じてくることにする。その内容は追ってここに掲載する。

2002年4月20日
ワシントンD・Cで開催されたブラック・パンサー党党員同窓会に参加。その場で、かつて中央執行委員会委員で、現在はアトランタで弁護士をしているキャスリーン・クリーヴァー氏と出会える。それを機にアル=アミンの事件の経緯について率直に訊ねてみたところ、(1)FBIは60年代中葉より始まったアル=アミン(当時の名前はH・ラップ・ブラウン)の監視を行っていた、(2)今回の訴訟の過程でそれが明らかになった、(3)ならば事件当日の監視記録をみれば、アル=アミンのアリバイが明らかになるはず!!!!、(4)ところがFBIは記録の存在を認めたものの、「国家公安上の問題」(ここでFBIならびに地方検察は、アル=アミンがイスラームの導師であったというところを、9.11以後のアメリカにおいて、巧妙に利用した)があるとして公開を拒否!!!!!!!!!。クリーヴァー氏は、今後は連邦裁判所に場所を移し、彼の無実を証明してみせるという意気込みをわたしに伝えてくれた。「有罪の評決はおりだけど、訴訟での検察側の議論にわたしは説得されなかった」と発言したところ、彼女は「説得されたものなんているもんですか!」Nobody was pursuaded by that!と発言。これからの法廷闘争はSky is Limit!だそうだ。これはかつてパンサー党創設者のヒューイ・P・ニュートンが冤罪にとわれたとき、パンサー党員が運動のスローガンとしたものである!。

その後、時間は流れたが、未だクリーヴァー氏たちのアクションは報道されていない。いずれにせよ、わたくし自身、パンサー党員との信頼関係を築けたため、それに応えるという意味からも、今後、このページにて経過報告を行っていく。

なお、現在、旧パンサー党員で、あきらかに政治信条ゆえに投獄されている政治犯が4名いる。彼らのことについては、また別のページにて現状報告を行っていく!

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