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2000年04月24日

Free, Al-Amin, Free!?

1.「60年代の黒人過激派逮捕」

1960年4月、ノース・カロライナ州グリーンズボロで黒人学生の4名が人種隔離されていたランチカウンターの白人専用席に坐り込んだ。この運動はすぐさま南部各地に飛び火し、同月中旬には南部だけで5万人が参加する大規模な黒人学生の自発的運動に成長していった。この学生たちの運動を一時だけの興奮に終わらぬようにと考えた黒人女性活動家のエラ・ベイカーは、同州の州都ラリーにある黒人大学、ショー大学で坐り込みに参加したもの、さらには将来運動に参加するのあるものを集めた集会を開いた。その集会の中から学生非暴力調整委員会(The Student Nonviolent Coordinating Committee, SNCCと略し"Snick"と発音する)が結成される。同団体は1965年の投票権法制定までは南部を拠点とした非暴力直接行動に従事し、その後1966年のロサンゼルス、ワッツ地区の大暴動が発生すると、運動の焦点を北部都市に移動、その過程で黒人のその後の運動にとてつもない影響を与えたスローガン、「ブラック・パワー」を唱えた。つねに公民権諸団体のもっともラディカルな声を代弁していたSNCCはよく「公民権運動の突撃隊」と呼ばれる。

しかしながら60年代中葉から黒人の運動は深刻な分裂状態に陥っていった。その理由には、(1)公民権法ならびに投票権法制定後の運動の明確な目標の欠如、(2)「ブラック・パワー」のスローガンをめぐる公民権諸団体の意見の食い違いが原因であった。この分裂状況をさらに悪化させたのが、連邦捜査局(FBI)による反政府団体の弾圧作戦、COINTELPROである。

COINTELPROによる弾圧の結果、SNCCは結局破壊されることになった。SNCCは「ブラック・パワー」の路線を明確にする一方、第3世界との連帯を訴えた。第3世界、その中には当時アメリカと壮絶な戦争を繰り広げていた北ベトナム、および南ベトナム解放戦線が含まれる。1971年5月10日、SNCCにスパイを送り込み、厳しい監視の下においていたFBIは、その報告書のなかで「過去一年間、SNCCはいかなる破壊活動にも従事していない」と判断する。しかしこれはSNCCが「反体制団体ではなくなった」とFBIが認めたのではなく、「もはや運動を組織する能力はない」と判断したことを意味していた。

1960年に誕生し、1971年に消え去る。この点においてSNCCは60年代プロパーな運動を表象するものである。概して歴史家は「ブラック・パワー」以前のSNCCに好意的な評価をし、「ブラック・パワー」以後のそれに対しては曖昧な、または否定的な評価を下している。

そのSNCCが2000年4月16日、結成の場所ショー大学で結成40年を記念し、SNCCの正と負の遺産を再評価、今後の黒人の運動の進むべき方向を語り合う非公式のセッションを開催すると発表した。しかしそのセッションには、アトランタで起きた事件が強い影を落としていた。

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2000年05月24日

書評 Suzanne E. Smith, Dancing in the Street: Motown and the Cultural Politics of Detroit

書評

Suzanne E. Smith, Dancing in the Street: Motown and the Cultural Politics of Detroit (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1999).

モータウン。「サウンド・オヴ・ヤング・アメリカ」としてヒットチャートに次から次へと曲を送り込んだ1960年代を代表するインデペンデント系レコード会社。その話は、同時期にクライマックスに達した公民権運動、ならびにその運動が引き出した社会変革と黒人の地位の向上と複雑に交錯している。同書は、モータウン興隆をデトロイト黒人ゲトーのコミュニティ史のなかに位置づけることによって、その歴史的意味を明らかにしようと試みたものである。

このような目的はほぼ達成されている。その点において、これから〈モータウン史〉--そのようなカテゴリーがあればの話だが--に接するものにとって、同書が必読文献になることはまちがいない。これに先行するモータウンに関する書物、たとえばネルソン・ジョージの『モータウン・ミュージック』などに較べ[1]、同書では社会経済的文脈・分析がはるかに詳細な形で織り込まれいて、モータウンに対する最初の学術研究の一つにあげてもほぼ支障はない[2]。

事実、著者スザンヌ・スミスが乗り越えようとしたものは、極めて魅力的で面白い〈モータウン物語〉、ネルソン・ジョージの『モータウン・ミュージック』であったはずである。しかし、 ネルソン・ジョージの著作はしばしば黒人史の側面から「単なるノスタルジアに過ぎない」と批判されてきた。だが長らくこの著作を乗り越えようとするものは出現しなかった。ジョージの著作には、黒人史、とくに黒人の抵抗思想史を学んだものにとってとても豊かな研究素材になりそうなエピソードがふんだんに散りばめられている。たとえば、モータウンの設立者、ベリー・ゴーディ・ジュニアの父親が経営していた雑貨屋の名前は「ブッカー・T雑貨店」と言う名前であったらしい。ここで黒人史家--と言うよりも、黒人研究者とほとんどのアフリカ系アメリカ人--が、政治的アジテーションによって公民権獲得を目指すのではなく、地道な努力を積み重ねることによってまずは経済力を確保し、政治的行動よりも経済的〈自助努力〉の方が優先すると説いた、黒人の教育者ブッカー・T・ワシントンの名前を思い起こすのはほぼ条件反射的になされることである。その後ゴーディがモータウン製品のディストリビューションにあたって権限を保持しようと必死に努めたことからもわかるように、モータウン・レコーズとは、黒人の経済的自律性を説くブッカー・T主義の最良の成果であったのだ。ところがこのエピソードに飛びつき、議論を深めようとするものはいなかった。

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2000年07月23日

正義の“ハリケーン”は吹かなかった:シャカ・サフォアに捧げる

「連邦裁判所、州裁判所、そんなところに俺は上訴しろと言っているじゃねぇ、

人間性に訴えろと言っているんだ」

ルービン・“ハリケーン”・カーター(デンゼル・ワシントン)

7月14日、映画『ハリケーン』をみた。パンフレットにあるデンゼル・ワシントンのプロフィールをみると、今や彼は黒人の英雄のひとりになったと言っても過言ではないかも知れない。私が彼をはじめてみたのは、南アフリカのアパルトヘイトと闘い、獄中で死んだ黒人青年、スティーヴ・ビコの役を映画『遠い夜明け』のなかで彼が演じたときである。その後、周知のとおり『マルコムX』では、主人公マルコムの役を見事に演じた。当時のドキュメンタリーに現れるマルコムと、映画のキャラクターのマルコムとにはほとんど差がない。今度は、20年以上にわたる訴訟闘争の結果、冤罪が晴れて自由の身となった黒人ボクサー、ルービン・“ハリケーン”・カーターの役。これら3名は多様なアーティストによって歌詞の題材となってさえいる。マルコムXが現在のラッパーたちの英雄になっていることは言わずと知れたことであろうが、ビコにかんしてはピーター・ゲイブリエルが、ハリケーンにかんしてはボブ・ディランが、それぞれ「ビコ」「ハリケーン」と題した曲でとりあげている。

さて今回の「ハリケーン」、ひとつだけワシントンがこれまで演じた役のなかでは異なるところがあった。それは、ビコやマルコムが自由を求める闘争の半ばで命を終えなければならなかったのにたいし、カーターの場合は冤罪晴れて、自由の身となったところである。よって、『遠い夜明け』『マルコムX』の双方が暗い終わり方をしているのにたいし、『ハリケーン』を見終わったあとの感覚は「すっきりとした」感じを受ける。「本法廷はルービン・カーターにたいし無罪を宣告する」。この判決で映画は終わる。

映画のプログラムをみるとこう書いてある。「真実は負けるはずがない」。これは、黒人の冤罪訴訟をテーマにした法廷映画の古典『アラバマ物語』(原題、To Kill a Mockingbird)と正反対のメッセージだ。『アラバマ物語』では弁護士役を務めたグレゴリー・ペックが白人だけの陪審員に向かい、「私は本法廷のもとでこの件が正当に裁かれるとも思っていないし、正義は必ず勝つというナイーヴな信条を持つものでもない、だが絶望的なところからあなたたちに話したい」と語っている。私は、ペックの言葉を借りると、『ハリケーン』のナイーヴなトーンがどうしても気になった。この映画は「正義は必ず勝つ」と言っているのだ。その〈メッセージ〉を映画半ばで感じ始めたころ、私にはある人物の顔が浮かんで仕方がなかった。そして最後の判決を聞き、涙がとまらなかった。自分の非力が悔しかった。なぜか?

20000723garygraham.jpg左の男性の顔をじっとみてほしい。カメラを直視している彼と目をあわせてほしい。この男性は、1970年代初頭、17歳のときに連続強盗、殺人の容疑で死刑判決を受け、その後数度の控訴審でも有罪は覆らず、この6月22日に処刑された。公に記録された名前はゲイリー・グラハム。本人は獄中でムスリムになり、シャカ・サフォアと改名した。このサフォアの顔が、『ハリケーン』を見る私のこころのなかに浮かんできたのだった。

彼の殺人罪が明白なものならばそうならなかっただろう。そう、グラハムのケースも「冤罪」である可能性があり、死刑の執行は、黒人指導者ジェシー・ジャクソン、アル・シャープトン(元ジェイムス・ブラウンの牧師)、さらにはアムネスティ・インターナショナル、ミック・ジャガー元夫人のビアンカ・ジャガーらの猛烈な抗議にも関わらず行われたのだった。6月中旬、彼の再審を要求する声は高まった。ここで強調したいのは、抗議者は彼が無罪であると主張したのではない。証拠を吟味したならば、当時の裁判手続きに大きな問題ーーサフォアは弁護士費用を持ってなく、“官選”弁護人が彼を代理した。この弁護士は唯一の目撃証人すら法廷で尋問していないとんでもない「弁護」士だったーーがあり、死刑執行の延期と再審を要求したのである。左の写真は死刑延期を求める運動に対し、テキサス州当局が使った暴力を伝えている。

20000723protesters_for_amne.jpg簡単に事実関係を紹介しよう。テキサス州ヒューストン郊外のショッピング・モールの駐車場でボビー・ランバートと言う名の白人が銃殺された。このとき、他の車のなかにいた女性が犯行現場を目撃していた。サフォアは。これと同じ時期、別件の強盗で逮捕されていた。そして警察署での面談の結果、目撃者であった女性は、サフォアが犯人だと断言したのである。

しかし、犯行現場から彼女が乗っていた車までの距離は約200メートル離れていた。そして強盗のときに彼が使用した拳銃とランバートの死体から摘出された弾丸の弾痕は一致していなかった。彼の死刑判決は、物的証拠をまったく欠いたまま、ひとりの女性の証言だけを根拠に言い渡されたものだったのだ。そして20年以上のあいだ、彼は獄中から無罪を主張し続けたのである。

死刑執行の日、私はアムネスティ・インターナショナル(この大組織を突き動かしたのはビアンカ・ジャガーである)などの指示にしたがい、ブッシュ知事のメールアドレスに10分間に1通のメールを送りつづけた。ところがすべてが返ってきた。彼のメールサーバーを抗議のメールがパンクさせたに違いない。CNNのサービスによってサフォアの経緯は30分おきにメールで受けとることができた。少なからず「正義が勝つ」ことを信じたが、結末、死刑執行。

事件を複雑にすることに、サフォアの死刑執行には〈政治〉が絡んでいた。共和党から大統領候補として選出されることがほぼ確実なジョージ・ブッシュ・ジュニアが現在のテキサス州知事であり、サフォア恩赦、さらには人身保護令状発布の権限は彼にあった。ところがブッシュは断乎とした死刑肯定派であり、1980年代に一度サフォアの死刑が延期されていることから、知事の権限を行使することを拒否した。ジェシー・ジャクソンは、「もしグラハムが有罪だ、そして死刑が妥当なのだと信じているならば、私と一緒に死刑執行の現場に立ち会ってほしい」という要求を出していたが、ブッシュはそれすらしなかった。上の写真の目を見るのが、冤罪で死刑を待つものの目をみるのが怖かったからだとしか解釈のしようがない。

ときは遡り 1988年大統領選挙、ブッシュ知事の父親は「黒人=犯罪者」というイメージを巧みに選挙戦に取り入れた。この年、マサチューセッツ州で仮釈放されたウィリー・ホートンと言う名の黒人が、メリーランド州で白人家庭の家に押し入り、レイプ・強盗・傷害の罪で逮捕された。このホートンの仮釈放に署名をしたのがマイケル・デュカキス、ブッシュの対抗馬である。この関係性をブッシュは巧みに攻撃し、犯罪者への重罰をひとつの選挙公約にした。共和党のテレビコマーシャルは、ホートンの顔とデュカキスの顔を重ね、「白人女性をレイプした男(ここで暗に黒人男性というメッセージが取り込まれている)を保釈したのは民主党大統領候補デュカキスだ」というメッセージを流した。その結果、白人の団結票を掘り起こし、投票の1か月前の世論調査で示された5ポイント以上差を逆転したのである。そして、今回、その息子も今回の選挙で〈人種カード〉を切ったのだ。有罪が確定している黒人のために動きはしない、と。

サフォアの場合、正義の“ハリケーン”は吹かなかった。物証なきまま言い渡された死刑判決。しかも17歳のときの犯行。テキサスでも「少年法」はある。しかし、彼には適用されなかった。そうはならなかった。

もうこの世界にシャカ・サフォアはいない。それを考えると、映画『ハリケーン』のメッセージはうつろにしか響かない。

現在アメリカで無罪を主張し闘っている人物は多くいる。このコーナーのエッセイは、そもそもアトランタでのアル=アミンの逮捕がとても怪しいものであることのリポートからはじまったのだが、ある調査によると死刑判決の3分の2が上訴審で覆されているらしい。この事情をつきつけられ、イリノイ州ではライアン州知事が死刑執行の無期延期の命令を下している。多くの法学者が言うところでは、テキサス州知事ブッシュにも同様の権限があるらしい。つまりブッシュは、自らの意志によって、その権限を行使しないことを選んだのだ。

アメリカの囚人の数は1990年代に入り急増した。現在のところ、世界の総人口に占めるアメリカの人口の割合が約8%にしかないのにたいし、囚人人口のなかに占めるアメリカでの囚人の割合は25%に達しようとしている。現在、私は、『ハリケーン』の舞台となったフィラデルフィアーー誰も解説を加えていないが、ルービン・カーターが逮捕された当時のフィラデルフィアでは、警察権力と黒人コミュニティとのあいだの緊張が高まっていた。なぜならブラック・パンサー党が同地で全米大会を開催する予定だったからであるーーで、同じく殺人の容疑で有罪が言い渡された元ブラック・パンサー党員のケースを追いかけている。その囚人の名は、フィラデルフィアで人気を博したトークラジオのDJでブラック・パンサー党員、ムミア・アブ=ジャマル。もうたくさんだ。サフォアの後を追うような人物が現れてはならない。

ここで筆者がとてもいらだたしく思うのが、黒人の団体としては最古の歴史と最大の会員数を持っている全米黒人向上協会(NAACP)の運動方針である。NAACPは現在サウス・カロライナ州製造の物品、同地を観光目的で訪れることのボイコット運動を行っている。理由はサウス・カロライナ州議会議事党の前に南軍旗が掲揚されているから。問題はそれどころではない。私は、個人として、人間性の名の下に、テキサス州産品のボイコットを訴える。そしてブッシュが大統領になった暁にはアメリカ産品のボイコットを訴える。彼が死刑執行の停止を命令する大統領行政命令を発布しないかぎり。

他方で、筆者の考えでは、黒人指導者の第一人者ジェシー・ジャクソンの言動は、ここ数年のあいだに変化した、と筆者は感じている。以前は根強い人種差別を糾弾し、黒人の黒人としての窮状を救おうとしていたのに、現在はより広い人類の問題として黒人の直面している問題を解釈し、〈人間性〉にアピールするようになったのだ。これは、マルコムX、マーティン・ルーサー・キングが最後に立った地平と同じである。これは奇しくも『ハリケーン』のなかでワシントンが語った台詞と同じであった。英語のappealという言葉には、「上告する・控訴する」という意味と「訴えかける」という意味がある。冒頭に掲げたルービン・カーターの言葉は、このappealという言葉の原義を巧みに使った名台詞だ。

最後に以下にシャカ・サフォアが死刑執行の前に書いた手紙を翻訳掲載する。これを読んでくださっている方々の人間性に訴え、〈第2のグラハム〉が現れることのないように。

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2004年06月14日

レーガン国葬

なぜか日本でもアメリカでもレーガンの葬儀に際し、彼を「持ち上げる」論調の報道が続いた。サダム・フセインに大量殺戮併記を売ったのは彼の政権のときであり、アメリカ経済を悩ませた「双子の赤字」は彼の時代に最大になっていた、等々といったことを指摘するのも少数に留まっていた。

先週末、スティーヴィー・ワンダーのコンサートなど、中止に追い込まれてものものある。いわばアメリカに住むもの全員が「喪に服す」ことを要求されていたようだ。

しかし、黒人向けのメディアは、彼が為したことを忘れてはいない。彼は、とにもかくにも、公民権運動家3名が殺害された街として有名なミシシッピ州フィラデルフィアーー映画『ミシシッピ・バーニング』のモデルとなった事件、なおFBIの大活躍を描いた同映画には、実際にFBIは死体捜索以外何もしなかったことを鑑み、当時の運動家から激しい批判が浴びせられたーーで大統領選遊説活動を開始した人間だ。しかも、それがどのような意味を持つのかをはっきりと意識しながら(黒人は共和党にとって必要ないということ)。

また「福祉の女王」Welfare Queenということばを創り、人種主義者と批判されるのを避けつつ、遠回りに黒人批判を行ったのも彼が最初である。

2004年06月18日

メイナード・ジャクソン

深南部初の黒人市長となったメイナード・ジャクソン(Maynard Jackson)元アトランタ市長が亡くなってから、6月23日で一年が経過することになる。この16日、そのジャクソンを讃えるランプがアトランタに建立された。

場所は、アトランタの随一の大通り、ピーチトゥリー・ストリートと、同市の黒人居住区の中心街、オーバン・アヴェニュー(故マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの生家が面している通り)の交差点。同市における黒人の政治力の伸張を物語るには絶好の地。

故ジャクソンがこのような「象徴」を喜んだかどうかは甚だ疑問だ。なぜならば、彼は、名だけの「黒人の進歩」よりも実質の生活の向上を目指した急進的黒人政治家として名を博していたからだ。

2004年06月25日

ハーヴァードの黒人学生

ヘンリ・ルイス・ゲイツ・ジュニアとラニ・ギニアという現代のアメリカ黒人の知識人たちのインタビューによると、現在ハーヴァード大学に通っている黒人は全体の8%、実数にして530人になった。

ハーヴァードの位置する場所を考えると、8%という比率は決して低いと断言できるものではない。

しかし、問題を複雑にしているのが、黒人内部での差異、特にエスニシティによる相違である。近年、カリブ系移民やアフリカ系移民の研究書の刊行が相次いでいるが、それらはこの黒人内部の差異に焦点を当てたいがためである。

さて、ハーヴァードでは、黒人学生のなかで、祖父母の代から合州国に居住しているものは、黒人学生全体の3分の1にしかならないらしい。

スパイク・リー監督の『ドゥー・ザ・ライト・シング』を思わせる実態だ。

Another Rodney King

20040625brutality.jpg6月24日、またしても警察官による黒人青年への暴力行為がビデオに収められ、全米に報道された。場所は、1992年の大暴動の現場、ロサンゼルスのサウスセントラル地区。警察の残虐な行為は、暴動の原因となった、ロドニー・キング殴打事件にそっくりだ。

しかし、類似はここで終わる。

1992年当時の警察署長は、人種差別的とも思われる発言を繰り返していた問題の多い人物だった。現在の警察署長は、そのような警察を改革した人物として高く評価されている人物である。

また、ロドニー・キングの罪科はスピード違反だった。無防備の人間を、スピード違反したからといって、殴る蹴るの狼藉を働く警官は明らかに常軌を逸したものだったし、それゆえ多くの者が怒りを抱き、その果てに暴動がおきた。しかし、この度、暴力を受けた人物の罪科は車の窃盗。しかも、警察とカーチェイスを行い、犯人が武装しているのかどうかも警察の側には不明だった。そして暴力を行使した警官のなかには黒人警官もいた。

このような事件の被害者は、非常に高い割合で、黒人(アフリカン・アメリカンとアフリカ人)である。しかし、わたしは、「人種差別」だけが、このような事件の原因だとは思えない。アメリカのメディアは、人種的側面だけに注目するが、アメリカという国自体が、銃器をもつ「自由」を認めている等々、きわめて暴力的な社会だということも見落としてはならないだろう。

かつて、ブラック・パワー運動の中心にいたH・ラップ・ブラウンは、「暴力というものは、アメリカン・パイと同じほど、アメリカ的なものなのだ」と、アメリカ社会の残虐性を批判した。そのことばが、この事件の顛末を追いかけていたわたしの脳裡に浮かんだ。

2004年06月26日

政治家、宗教界のリーダー、さらにはギャングまで集合

シカゴ、6月25日の夜、ジェシー・ジャクソン・ジュニア(連邦下院議員)、ボビー・ラッシュ(同じく連邦下院議員で元ブラック・パンサー党シカゴ支部の副議長)、イスラーム、キリスト教の宗教界のリーダー、さらにはギャングのリーダたちが会合を開いた。目的は、黒人青年が直面している苦境への対処法を議論すること。

昨年、わたしはアメリカ史研究会において、アメリカでの「監獄社会」の誕生について、時間の都合上短くなったが報告を行った。(報告ハンドアウトはhttp://www.fujinaga.org/を参照)。この会合の報道によると、わたしが黒人青年の苦境を調査したときよりさらに悪化している。

シカゴ都市圏において、16歳から22歳までの黒人青年のうち、学校に通ってもいなければ、雇用もされていないものの率は過半数を超えている。また、高校までが義務教育であるアメリカにおいて、高校を卒業できていないものの率は、38%にのぼる。

ここにて悪循環は完結する。80年代以後の産業構造の転換(リストラクチャリング)以後、都市圏で増加した職は、高学歴を要する専門職か、地位の上昇がのぞめない雑役労働かに限られている。

高校を出ないから仕事に就けないのか、それとも、仕事に就けないから高校にいかないのか。そんなことを考えるあいだに、危機的情況がそのまま放置されている。

この会合が有意義に終わることを祈る

2004年07月03日

ビル・コスビーの発言が引き金となった論争

いま、70年代から80年代にかけて大活躍した黒人コメディアン、ビル・コスビーの発言が、アフリカン・アメリカン・コミュニティで大論争を起こしている。

最初は5月17日のブラウン判決50周年記念集会で行った発言。そこで彼は、ティーンの少女の妊娠や高率の高校中退率などは人種の問題ではなく、だらしない個人の責任だ、と発言した。さらに、ニガーということばを使う青少年たちの言葉遣いに対しても、非常に厳しい批判を行った。

従来、アフリカン・アメリカン・コミュニティでは、同胞のアフリカン・アメリカンの批判をすることは、wash dirty linen in public 内輪の恥を外にさらけ出す、として忌避される傾向がある。かつては、近代黒人運動の中心人物、W・E・B・デュボイスがそのようなことを行い、自らが創設者のひとりであったNAACPを退会するに至ったという経緯すらある。

どうやらコスビーは、自分の発言が論争を呼び、同胞から批判を浴びるということを熟知したうえで言ったようだ。公民権運動後に生まれた黒人たちは、公民権運動がこじ開けた門を、自ら閉ざしている、と彼はいう。

ここには明らかにアフリカン・アメリカン・コミュニティ内の対立が見える。しかし、その対立は、階層間・階級間の対立というより、世代間の対立のように思える。

ニガーということばをもっとも頻繁に公の場で使っているのは、ラップ・アーティストたちだ。彼ら彼女らは、それを、別に自分を卑下するためではなく、自分の場があるコミュニティの連帯の証として使っている。コスビーが批判するニガーという言葉と、彼ら彼女らにとってのニガーという言葉は、同じ意味を持つものではない。

と考えていると、ラッセル・シモンズの発言が手に入った。彼の判断によると、ラップの歌詞は「ヒップ・ホップ世代の闘争の表現」になるようだ。

ある文化史家は、わけてもニガーということばの使用に関し、その使用を止めることで差別を是正しようとする行為をreservationistと呼び、意味を変えて使うことで侮蔑的意味合いを内から穿とうとする行為をrevisionistと呼ぶ。

このケースでは、コスビーはreservationist、シモンズはrevisionistとなるだろう。

なお、ジェシー・ジャクソンはコスビーを支持、アル・シャープトンは、彼の行動の特徴ではあるが、日和見を決め込んでいる。

この問題は、現代のアフリカン・アメリカン・コミュニティを考える際にとても重要なものであるゆえに、稿を改めて、http://www.fujinaga.org/ か活字媒体で論考を発表する予定

2004年07月04日

コスビー発言続報

20040704cosby.jpgコスビーの発言は、わけてもニガーということばの使用に関し、ラップを放送禁止にしようという動きがあった90年前後以来の大論争を読んでいる。2日には、ケーブルテレビ局主催で、討論会が行われた。参加者は、現在黒人知識人の筆頭にあげられるスタンレー・クローチや、パブリック・エネミーのチャックD、等々。

やはり、ヒップ・ホップ・ジェネレーションの発言は面白い。討論会に参加したある者は、別称として使われているniggerと、ヒップ・ホップ・カルチャーでいうniggaとは違う、と主張する。

下の投稿での区別でいえば、わたし自身は、ヒップ・ホップ・ジェネレーションの側、つまりrevisionistに立つ。マルコムXもそうだろう。彼はかつてこう言った。「差別の毒牙は、己に自信をもっていれば恐ろしくはない」。

2004年07月11日

「ビル・コスビー論争」続報

『ニューヨーク・タイムス』は、黒人からの投書6通を掲載。そのすべてがコスビーの発言を擁護するもの。

わたしの意見をここではっきりしておくと、彼の発言を全面的に支持することはできないが、それでも「まちがった」ことは言ってはいないと考えている。

2004年07月16日

ムミア・アブ=ジャマルとNAACP

NAACPの幹部会は、大会終了直後の15日、1970年代にフィラデルフィア(今年の大会が開催された場所)で警官殺害の嫌疑で死刑判決を受けている、元ブラック・パンサー党活動家で社会派のトーク・ラジオDJだったムミア・アブ=ジャマルの再審請求を支持する決議を緊急採決した。

日本語で手記の翻訳も出ているアブ=ジャマルは、獄中より無罪を訴えている。

アムネスティ・インターナショナルUSA支部の調査によると、アブ=ジャマルの死刑判決が下った裁判において、判事は「あのニガーを油で揚げてしまえ」"fry that nigger"というとんでもない発言をしていたらしい。同組織は、この発言だけでも、再審理請求の充分な根拠となるという見解を発表している。

なおNAACPの決議にあたっては、創設者のひとり、W・E・B・デュボイスの息子で現在マサチューセッツ大学教授、デイヴィッド・グラハム・デュボイスが強力に推進したものである。

2004年09月28日

R・ケリー公判

少女のポルノ画像を撮影したとして起訴されていたR・ケリーの公判が開かれた。ケリー弁護団が勝利。

検察は事件が起きた時期を1997年11月1日から2002年2月1日までの「いつか」としていた。これに対し弁護団は、「あまりにも曖昧な時期」であり、「アリバイを証明することも不可能」と反論。地方判事が弁護団の主張を認め、検察に事件の日時を限定するように指示をくだした。

R・ケリーの「性犯罪」はこれが初めてではない。スパイク・リーなどは、「そのような人物の音楽など聴けやしない」という旨の発言を行っているが、有罪・無罪の問題はさておき、彼の音楽は素晴らしいとわたしは思う。

2004年11月18日

ポストコロニアルの現在と反アファーマティヴ・アクションの出会い

カリフォルニア州で反アファーマティヴ・アクションの運動の先頭に立っていた黒人実業家、ウォード・コネリーの提案が、この度、否決された。

その詳細はこんなもの。

コネリーは現在カリフォルニア州立大学理事会の理事を務めている。彼は、両親がそれぞれ異人種・異民族の属する学生の5%が特定の人種にカテゴライズされることを嫌っており、自らのアイデンティティを「多人種」mutiracialとしたいと思っていることを根拠に、入学願書の人種・民族記入欄に「多人種」のカテゴリーを含めるように要求した。

ここまでは実に筋の通った、「ポストコロニアルの現在」を映し出す「進歩的」な提案のように聞こえる。

ところが、既にカリフォルニア大学では、multiracialのアイデンティティを持っている志願者には、それを表明することができていた。ことは単純、いくつかある志願書の欄の複数にマークを済め終わり。このようなことができたからこそ、コネリーは、そもそも異人種・異民族結婚をした両親を持つ学生を調査することができたのである。

カリフォルニア大学理事会の他のメンバーは当然コネリーの提案に反対した。コネリーは、現行の願書は「人種主義的である」と断言していたのだが、そのロジックがわからなかった、と伝えられている。

わたし自身も、彼の主張はさっぱりわからない。

どうやらここでポストコロニアルの現在は、現代アメリカでも最も保守的なものを育んでいるように感じる。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの下のことばは、このような事態を見事に察知している。

「ポストモダニズムとポストコロニアリズムにとっての大切な概念の多くは、現在の資本や世界市場のイデオロギーと完全に呼応している。世界市場のイデオロギーは、つねにすぐれて反基礎づけ主義的で反本質主義的な言説であった。流通、変動性、多様性、混合は、まさにその可能性の条件なのである。交易は諸々の差異を一緒にするのであって、差異がより多ければ、それだけ楽しみも多いのである!差異(すなわち商品、住民、文化、等々の差異)は世界市場において、無際限に増殖しているようにみえる。それは固定された境界を何よりも暴力的に攻撃している。それは無際限の多数多様性によって、いかなる二項対立的な分割をも凌駕するのである」

アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『帝国』(以文社、2003年)

2004年12月13日

シカゴ警察の大失策

シカゴ警察がこのほど大失策をした。

アメリカでは、人種故に刑事捜査の対象になることをracial profilingと呼ぶ。それは、数多くの公民権団体やリベラルな政治団体、人権団体から批判の対象になっている。

この度、シカゴ警察は、メキシカン・アメリカン居住区で車を運転していた2人組の黒人を逮捕した。逮捕の理由は、逮捕の時点では明かされなかった。

このとき、逮捕されたひとりの男性が警官にこう叫んだらしい。「あんたら、何やっているんだ、コイツはジェシー・ジャクソン牧師の息子なんだぞ」。

これで警官の態度は一変した。免許証のチェックで、本当にジャクソンの息子であることが判明すると、「この辺りの治安は良くないので、その注意のために引き止めたんだ」と答えたらしい。

ところが、それ以前に、2人組は、壁に手をつかせ、足を拡げるように命令され、ボディ・チェックをされていたのである。

なお、このとき、2人が乗っていた車の車両登録証は、有効期限切れから2か月が経っていた。警官はそのことに気がつかなかった。ジャクソンの息子自身が「落ち度があるとすれば、登録証だけだった」と「自己申告」をしたらしい。

取り締まるべきところは取り締まらず、禁止されている捜査方法を実施、シカゴ警察は大失策をおかしてしまった。

2004年12月21日

なぜかヒップホップのパーティに中止命令

ロードアイランド州ワーウィック郡警察公安部が、同地で行われる予定であったヒップホップ・パーティの禁止を命じた。

公安部長の話だと、「ヒップホップのパーティに集まる群衆はきわめて暴力的」であり、「ただそれに我慢がならないだけだ」というのが、その理由らしい。

しかしヒップホップだけが「暴力的」なのだろうか。

オハイオ州で殺人事件を起こしたのはヘヴィ・メタルのコンサートだった。

なぜかブラック・パフォーマンスには「暴力」というイメージが貼り付けられてしまう。

ニュース出典
http://www.allhiphop.com/hiphopnews/?ID=3873

2005年02月26日

テキサス州警察、黒人とラティーノを標的に…

民間機関の調査によると、テキサス州では、警察関係機関の5分の3が、黒人とラティーノを特別な標的にした捜査活動を行っていたことが判明。

アメリカでは、これはracial profilingと呼ばれ、各地で議論になっている。しかし、ここまではっきりした結果が出たところは稀だ。

しかも、捜査の結果、非合法活動を行っているものは、黒人やラティーノより白人が多いらしい。したがってracial profilingを行う根拠自体が、ここに、否定されることになった。

ブッシュ大統領のお膝元でのこのスキャンダル、果たしてどのような方向に向かうだろうか?

2005年03月11日

黒人兵の率が急低下

20050311black_soldier.jpg
2000年度には23.5%に達していた軍隊新兵のなかのアフリカン・アメリカンの比率が、今年度は14%までに低下した。

全人口に占めるアフリカン・アメリカンの比率が12.3%だから、ほぼアメリカの人口構成と等しいまでに下がったことになる。

しかし、80%に近い減少率、これは重大なことを物語っている。

この数値を報道した『ワシントン・ポスト』紙は、アフリカン・アメリカンのイラク戦争支持率が白人に比すと著しく低いことを、その理由のひとつとして指摘している。事実、ブッシュ再選に投票した黒人は11%しかいない。

イラク戦争がここまで長引くことで、アメリカ史上初の事態が起きることになった。徴兵制がひかれずに長期の戦争に突入するのは、この戦争が初めてなのである。

そう考えると、コンドリーザ・ライス、ブッシュ双方が欧州との関係回復をまず最初に目指したのには、「この戦争はアメリカ一国では勝てない」という認識が強まったことを表しているのかもしれない。

いずれにせよ、黒人兵の減少は、黒人がイラク戦争を支持していないことを表す、これはまちがいないだろう。

2005年03月16日

ビギー殺害事件捜査終了

20050316biggie.jpg
Biggie Smalls (aka. Notorious B.I.G)の殺害に関する捜査の終了を、FBIが公式に発表した。

これで、Tupac殺害事件もBiggieのそれも、ともに「迷宮入り」してしまった。

アメリカの刑事事件は、突然捜査が再開されることがあるので、これによって将来を断定することはできない。が、それでも、彼らが「なぜ」死んだのか、は、とりあえず誰にもほんとうのところがわからなくなってしまった。

なお、Biggieの母親は、ロサンゼルス市警の警官で、同地のギャングと親密な関係を持っていたことが判明し刑事訴追されている人物を、Biggieの殺害に関与しているとして民事裁判にて補償を求めている。

2005年04月09日

41 Shots

ニューヨーク市長選の予備選挙が本格化してきた。共和党は現職のブルームバーグが指名されるのがまちがいないが、民主党の指名争いはかなり激しいものになりそうだ。

そんな折、1999年に、まったく武器は所有していなかったのにもかかわらず4名の警官から合計41発の弾丸を受けて、何の罪も犯していないのに殺害された「アマドウ・ディアロウ殺害事件」に対するある候補の発言が波紋を呼んでいる。

この事件は、ブルース・スプリングスティーンが、警官の暴力への抗議の意を込めて、"41 Shots"という曲にしてレコーディング、ギター1本の弾き語りでコンサートで歌っているものである。


このとき、4名の警官に対しては無罪の評決が下ったのだが、そのときの抗議は極めて激しいものだった。そのなか、Fernando Ferrerという名の政治家は、抗議を行っている市民のなかに参加し、銃撃を犯罪だと公言していた。

それが、今回の選挙戦を前にし、前の行動を否定、警官の行動は犯罪ではないと言い始めた。

それに怒ったのがニューヨーク在住のアル・シャープトン牧師。

ところが、フェラー候補の真意は、前回の予備選でシャープトンから支持されたことがかえって白人の反感を買い、結局選挙に敗北したというところにある、という。
4
だからシャープトン牧師の抗議は、彼が待っていたものなのだ。

かかる政治家が候補として指名された場合、それはアメリカ社会がいかに保守化したのかを示している。

1999年でもかなり保守的だった。異常な警官の暴力が無罪になるのだから…。

2005年04月11日

Jay Z、 Outkast、Kayne Westの影響力

20050411jay-z.jpg『タイム』誌の最新号に発表された「世界で影響力をもつ100人」のなかに、ヒップホップ界から、Jay-Z, Oustkast, Kayne Westの3名が含まれていることが判明した。

ほかに黒人では、コンドリーザ・ライス国務長官のような政治家も選ばれているが、アル・シャープトン牧師のような社会活動家は選ばれていない。

もちろん小泉首相も選ばれていない。

つまり、世界第4位の経済大国の首相より、デフ・ジャム・レコーズ社長の方が、影響力があると見なされているのである。そのような判断、どこかわかるような気がする

2005年05月02日

ケネス・クラーク逝去

20050502kenneth_clark.jpgアメリカの人種隔離政策(アメリカ版アパルトヘイト)segregationを違憲とする判決、ブラウン判決を引き出すにあたって極めて協力な「科学的証拠」を提供した臨床心理学者ケネス・クラークが亡くなった。享年90.

彼については、拙訳ナット・ヘントフ『アメリカ、自由の名のもとに』にヘントフの筆による長文のエッセイが掲載されている。

彼の業績のなかで有名なのが「ドール・テスト」。黒人と白人の人形を黒人に選ばせ、黒人の美的感覚が人種隔離制度のためにいかに歪められているのかを「立証」した(心理学的には、しかし、この結論には多くの反論があった)。

これで、公民権運動を担い、先頭に立った人の多くがもうこの世にいなくなってしまった。思いつくのは、彼より1世代若い、ブラック・パンサー党幹部、ボビー・シール、キャスリーン・クリーヴァー、イレーン・ブラウンくらいか…。

一方、公民権運動が目的としたものは達成されていない。それはおろか、一度は勝ち取った成果さえも、新保守主義、ネオ・リベラル、ネオコンと続いた過去四半世紀の歴史のなかで、ほぼ転覆されてしまっている。

2005年08月26日

人種別プロファイリングの実態が判明

連邦司法省が公開した資料によると、路上の検問でストップさせられる率は人種によって大きな差異がないものの、ストップ後の扱いで大きな格差が存在していることが判明した。統計数値は以下の通り。

・ストップさせられる率、白人・黒人・ラティーノそれぞれだいたい全体の9%

・ストップ後
  逮捕されたものの率
    白人 2%
    黒人 5.8%
    ラティーノ 5.2%
  暴力を振るわれたものの率
    白人 0.8%
    黒人 2.7%
    ラティーノ 2.4%
  手錠で拘束されたものの率
    白人 2%
    黒人 6.4%
    ラティーノ 5.6%
  車内を捜索される率
    白人 2.5%
    黒人 8.1%
    ラティーノ 8.3%

このような事態を「人種別プロファイリング」racial profilingと呼ぶ。

7月のロンドン爆弾テロの際に、無実のブラジル人が警官に射殺されたが、これもいささか異なる環境とはいえ、人種別プロファイリングの一種である。それゆえに、今週ロンドンで行われたデモでは、Stop Racial Profilingと叫びながらロンドン在住のマイノリティの姿が見られたのである。

上の統計結果に対し、NAACPは、同団体の独自調査の結果の方がもっと人種別の格差がある、と談話を発表している。

ところが、そのNAACPですら、アラブ系に対する人種別プロファイリングに対しては黙したままだ。

そのようなダブルスタンダードの存在があるからこそ、リベラル派の政治勢力が至るところで瓦解しているのだと考えざるをえない。

出典:http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/08/24/AR2005082401649_pf.html

2005年09月02日

インナーシティの孤立とハリケーンカトリーナ

ニューオーリンズ市内に取り残された人びとーーインナーシティで孤立しているひとーーは、圧倒的、黒人を初めとする「貧困層」である。

さて、あなたならどうしますか?
・市長を初め行政機関の長が避難命令を出した。
・公共交通機関はすでに運行中止。
・車を持っていない、または悪天候のなかでも無事に運転できるほど整備された車を持っていない。

市内に残るしかない。

この情況は簡単に推測できる。なのに、州兵の出動は、したがって、ハリケーンが通ったあとではなく、通る前に行われるべきだった。

残骸をよく見てほしい。アメリカなのに、多くが「木造」である。これは、いわゆるshotgun houseやshack、あえて日本語にすれば「掘っ立て小屋」である可能性が非常に高い。

また、別荘地にあるコンドミニアムには保険がかけらているので立て直されるのも早いが、「掘っ立て小屋」にしか住めない、避難する足のない人間がどうやって住宅の保険に入っているだろう。

これは、したがって、巨大な人災である。そしてその被害者は貧困層、都市や南部貧困層に占める黒人の率は高い。

ですから、募金をお願いします。
http://www.redcross.org/

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2005年09月06日

何もわかっていないジョージ・W・ブッシュ

ブッシュ大統領がニューオーリンズを訪問している模様が先程NHKで放送された。曰く

"Let the people get BACK on your [sic] feet"
(ちなみに、これがいわゆるブッシュ語、英語では、ご存じのように、この掛かり受けでは、on their feetになる。この大統領は本当にイェール大学卒なのだろうか?)

この人はやっぱり何もわかっていない。

上の表現のon one's feetが自立という意味は承知の上で言う。

「自らの足」立つ姿に「戻る」???

被災者には避難する「足」がなかったのだ。あらゆる機関がprivatize民営化された結果、彼ら彼女らからには、天災を逃げる「足」がなかったのだ。

「自らの足で立つところに戻す」。虚言である。彼ら彼女らから足を奪ったのは、誰だ!

彼ら彼女らが、on their feetで生きていく術を立ったのは、共和党保守派→民主党ニューリベラル→共和党ネオコンサーヴァティブと続いた政権である。

福祉国家にテロ攻撃をしかけたのは、ジョージ・W・ブッシュ、とその郎党である。

Mobilze Black Power Agaist Conservative Onslaught!

イライジャ・カミングスを初めとする黒人連邦議会連盟(Congressional Black Caucasus)のメンバーたち、さらにはヒップホップスターKayne Westがブッシュ政権の批判を公言し始めた。

わたしは、受動的なただ単なる被害者として黒人を描くことは避けてきた。彼ら彼女ら(そしてわたしたち)は歴史を創り、社会を創り、世界を創る主体だからだ。

ニューオーリンズが始まる世界創り、現在は詳報を収集中であるが、逐一ここ、もしくは

http://www.fujinaga.org/

で報告していく。

conservative onslaughtに対する反撃は、これから始まる。

2005年09月07日

カニエ・ウェストの発言、なぜか検閲される

ラップ・シンガー、カニエ・ウェストが行った、ハリケーン被害に対するブッシュ政権の行動批判が、アメリカのテレビネットワークの一部で検閲にあい、放送されなかった。

彼は、こう語った。

「ジョージ・ブッシュは黒人のことなんて考えちゃいない。だいたいメディアが俺たち黒人を描く姿だって大嫌いだ。黒人家族が歩いていたら、略奪者集団呼ばわり。白人家族だと、食べ物に困っていると言う。救済活動が始まるまで5日もかかったのは、被害者のほとんどが黒人だったからだ。こうやって批判をしている俺にしても、偽善者かもしれない。だって、テレビを観ていて辛くなるばかりだから、現実から目を逸らしてしまったんだ。それに、寄付をする前に買い物にも行った。そんな調子でも、いまマネージャーを通じて、俺の財布からいくら出せるか、その最大限の額がいくらになるのかを調べてもらっている。つまり、赤十字はいま最善を尽くしているだろう。その一方で、救助に使うべき人びとがいままた別の戦争を起こそうとしているんだ、その許可を貰っているんだ。俺たち黒人を撃ち殺す」。

この発言の最後の部分は、治安回復のために、政府が窃盗犯射殺命令を出したことに触れている。

それにしても、自らを「偽善者」だと認め、良心の呵責に苦しんでいるこの発言は、ひとのこころをえぐりとっている。その刃の鋭さに恐れをなしたものがいるのだろう。さもなければ、なぜこの発言が放送禁止になるのかわからない。

ハリケーン・カトリーナは人災である−−実数値から見よう

ハリケーン・カトリーナが起こしたニューオーリンズでの災害は、人災である、それを示す明確な数字を示そう。

2000年の時点で、国勢調査を行った連邦政府には、このような数値が手許にあった。

20050907katrina.jpg1.約48万人のニューオーリンズ市民のうち、連邦政府が定めた貧困者のカテゴリーに入る人間の人種別率は以下の通り。

    黒人:35%
    白人:13.7%

別の計算を用いて率を出すとこうなる。28%のニューオーリンズ市民が貧困層に属するが、その内黒人が占める率は、84%に達する。(ちなみに、全米の人口に占める黒人の比率は約12%)

2.さらに貧困者のなかで、車を所有していない家庭に住むもののは

    黒人:2万1千人
    白人:  2千人

とくに、2の数値は、過去、このブログで私が直観的に述べてきたことがあながち当てのない推論ではなかったことを物語る。彼ら彼女らは実際に避難できなかったのだ。

そして、国勢調査局が知っていたことを、ホワイトハウスが知らなかったとどうして言えよう。上の数値とて、筆者が特別なリサーチをして判明したことではない。国勢調査局のウェブサイトに出ており、それは公衆みなに開放されている。


ブッシュ失政を物語る数値は、さらに、

・ニューオーリンズ市が属するルイジアナ州兵の3分の1が、イラク戦争関連の軍事行動に従事していて、災害派遣ができる状態ではなかった。

2005年09月08日

ヒップホップ・アメリカ、ハリケーン被害者救済に動く!

Jay-Z が、カニエ・ウェストの擁護に出た。

ビルボード誌の取材に答えた彼は、検閲を受けたカニエ・ウェストの発言に対し、「ウェストを100%支持する。ここはアメリカ、言いたいことは何だって言う権利がある、言論の自由は俺たちの権利だ」と述べた。

そしてウェストの発言に援護射撃。曰く「ほんと萎えてしまうよ、こんなことがアメリカで起きるなんて。『いったいなにが起きているんだ What's Going On?"』と思うだろ。なんで反応がこんなに鈍感なんだ。さっぱり理解できない」。

アメリカの大都市の通りに何日も死体が放置されている、まさに「萎えてnumbing」しまう事実だ。このようなことが続けば、きっと人間は無感動(numbing)になる。

だから、現在、彼は、何とパフ・ダディと、ハリケーン被害者のなかでも黒人被害者救済を目的とした音楽イヴェントを協議中だと言う。

これは、ある特定の人種を救済の対象としていることで、人によっては「偏狭だ」と批判するかもしれない。しかし、白人にコーポレート・アメリカがついていて、メディアがそれを支援しているなら、黒人にはヒップホップ・アメリカがついている、わたしはそう思いたい。きっとサッチモも喜んでいるだろう。

ところで最後になりましたが、ニューオーリンズの観光名所にもなっている、ジャズ好きなら一度は訪れる場所、Preservation Hallが救済基金を設立しました。少しでも、募金、よろしくお願いします。

http://www.preservationhall.com/2.0/

2005年09月12日

第2のゲイリー・グラハム(シャカ・サフォア)をつくるな!

抗議の署名をお願いします。

http://www.iacenter.org/francesnewtoncampaign.shtml

2000年、テキサス州に、まだ未成年のときに殺人罪に問われ、死刑判決を受け処刑されたシャカ・サフォア(ゲイリー・グラハム)という人物がいた。この件に関して、処刑直後にわたしのウェブサイトで特別エッセイを書き、そのとき処刑の決定を下したブッシュ当時テキサス州知事に抗議しようという呼びかけを行った。

なぜならば、官選弁護人が反対証人をたったひとりも法廷に呼ばず、まともな反対尋問もないまま、刑事裁判が結審したからである。

いままたテキサスで、フランセズ・ニュートンという人物が、同じ境遇に立たされている。ニュートンは夫と子供の殺害の罪で死刑判決を受けている。しかし、彼女の場合も、官選弁護人がまともな「弁護」活動をしないまま結審を迎え、その結果、死刑となった。

この件に関し、アメリカ弁護士会や、元連邦司法長官ラムゼイ・クラークらが、再審を要求する運動を行っている。

残念ながらもう時間が残されていない。刑の執行日となっている日は15日。

第2のゲイリー・グラハム(シャカ・サフォア)をつくるな!

抗議の署名をお願いします。

http://www.iacenter.org/francesnewtoncampaign.shtml

このサイトにいけば、事件の詳細が記されていますし、あなたの声を残すことができます。

2005年09月14日

BETがハリケーン被害者支援へ

黒人を主な視聴者としている黒人経営のケーブル局Black Entertainment TV 通称 BET がハリケーン被害者救済のためのチャリティ番組を放送した。番組のタイトルは、「わたしたち自身を救おう」(Save Ourself Relief)。「自分たち」と言っているのは、この天災が人災に転じたために、被害者の多くが黒人になっているからである。

その番組には、約束どおり、Jay-Z と Sean "Diddy" Combs (aka. Puff Daddy)が登場し、番組のなかで100万ドルの小切手を赤十字に手渡した。メアリー・J・ブライジも出演、10カラットのダイアモンドを番組のなかでオークションし、それをすべて寄付。

この番組だけで1000万ドルの寄付が集まった。

番組が放送したのは、このようなチャリティだけではない。ヒップホップの精神そのまま、ストリートから発せられた政権批判が飛び出た。今度はQ-Tip。

彼はこう述べている。「俺たちは、メキシコ湾地域の再建のために基金を作ろうとしているんだ。もともとこの地域は、一級のウォーターフロント地区。だからディック・チェイニー副大統領がそこにいったときピンときたね。アイツには隠れた目的があるんだよ。こんなときに限って、困っている人を食い物にしてやろうというヤツが出てくるんだ。だから、俺たちヒップホップ・コミュニティのメンバーは、その地域の土地が人でに渡ってしまわないように、黒人が持っていたものが他の手に渡らないように、ベストを尽くさなくちゃいけない」。

連邦政府高官、ハリケーン対応の裏側を暴露

すでに日本でも多くのメディアが伝えているところではあるが、災害対策を管轄している部局FEMAの高官が『ニューヨーク・タイムス』に裏側を暴露した。

「わかっていましたよ、バスを使って、ニューオーリンズから避難をさせるべきでした。ハリケーンは巡航ミサイルのようでした。つまり行く方向がはっきりとわれわれにはわかっていたのです。担当部局の人間として、本部にいたものはわたしを含めてみんな、情けなくなってきました。一刻も早く大規模な救助措置が実行に移されなければならない、そんなこと承知していました。しかし、なぜなのかわかりませんが、その措置はとられなかったのです」。

さらに、被害の模様をテレビでみた消防士たちは、ボランティアとしてルイジアナに駆けつけようとした。しかし、FEMAは、彼ら彼女らをアトランタに集合させ、そこでセクハラの講習をしたという。その場にいた消防士は、遅れた時間のぶんだけ人が死んでいるというのがわかった、と『ニューヨーク・タイムス』に語っている。

このFEMAの局長を、ブッシュ大統領は、当初、「すげえ仕事をしている」と絶賛した。そのような大統領も、まことにもってすげえ仕事をしている。FEMA局長のいちばん大きな経歴は馬主団体の会長。それを「抜擢」したのはジョージ・W・ブッシュ。

ハリケーン・カトリーナ〜深まる「人種」対立

20050914katrina.jpg世論調査機関 Pew Research Center によると、ハリケーン・カトリーナへのブッシュ政権の対応、わけてもニューオーリンズでの対応に関し、黒人と白人とで大きく見解が異なることが明らかになった。

被害者がアフリカン・アメリカンでなければ政府はもっと迅速に行動したはずだと考える黒人は3分の2にのぼっている。一方、同じ見解をもつ白人は3分の1に過ぎない。

以下に報告してきたとおり、わたしもこの3分の2の黒人と同じ見解をもっている。

しかし、ここで駄目押しとして付言しておけば、ハリケーン被害自体は天災であり、それゆえそもそも「人種差別」を行うはずがないということ。天災を人災にしたのは、政策だということ。ここを区別することは、やみくもに「差別」の糾弾を行い、そうすることで真の差別が何なのか不明にさせないためにも重要である。

さて、そのようなわたしが、鋭い意見として紹介したいのが、2004年大統領選挙で、そもそも民主党の本命候補だったハワード・ディーン元ヴァーモント州知事の発言である。

彼はこう言っている。

「アメリカは、いくらそれが醜くても事実を直視しなくてはならない。この災害を生き延びたのが誰で、死んだのが誰か、それを決めるにあたっては、肌の色、年齢、経済状況が重要な意味をもったのだ」。

ハリケーンが自然の猛威だけだったなら、肌の色、年齢、経済状況を考えはしなかっただろう。「自然」がこれらを「考える」ことなどありえない。この3つの要素が意味をもったこと、それはこれが人災であるという「醜い真実」を物語っている。

2005年09月16日

フランセズ・ニュートンは処刑されました

20050916frances_newton.jpg抗議の署名をお願いしていましたフランシス・ニュートン処刑の件、残念ながら、抗議運動実らず、現地時間14日午前10時頃に刑が執行されてしまいました。彼女の冥福を祈ります。

裁判所の判断というのは絶対的なものではありません。法律が複雑になり、多くの市民がその細部を熟知できない現代社会にあっては有能な、もっと的確に言えば、自分の利益になる弁護士をいかに捜すかが、極めて重要な意味をもってきます。

別にこれにたいそうな知識はいらないはずです。テレビ番組『行列のできる法律事務所』を一回でも見ればわかる通り、弁護士の見解、法律のエキスパートの見解でも、かならず違っている。とすれば、いかにして、自分の立場で考えてくれる弁護士を捜す「方法」を知っているか、が、現代社会を生きるにあたっては極めて重要になってきます。

デンゼル・ワシントン主演の映画『ハリケーン』をご覧にならればわかる通り、多くの黒人は、刑事裁判の初期段階で、この「方法」の知識を持っていません。それで、官選弁護人のおざなりの「弁護」で刑を言い渡されています。

それで極刑に処せられたのは今回が最初ではないのです。詳しくは、http://www.fujinaga.org/ でエッセイで書いておりますが、死刑は間違っているとして死刑囚を全部恩赦した州知事だっているのです。

ただ、テキサス州は違う。この州は死刑囚執行の数で群を抜いています。(多くはジョージ・W・ブッシュ知事時代の執行)。

こんな野蛮なことはやめさせましょう。

フランシスの最後のことばは"No"。

わたしはまた在りし日のゲイリー・グラハムの姿を思い出してしまいました。今夜は眠れそうにありません。

2005年10月04日

ニューオリンズ復興計画

20051004katrina.jpg『ワシントン・ポスト』紙の報道によると、ハリケーン・カトリーナ、リタでもっとも大きな被害を受けたニューオリンズ第9区は復興から取り残される可能性が高くなったようだ。

被災前に人口2万人だった同区の住民の圧倒的多数が黒人。住宅の半数以上が賃貸物件。さらには、その3分の1が貧困生活を送るのを余儀なくされていた。

しかし、ロックンロール草創期を担ったファッツ・ドミノもここに住んでいれば、アラン・トゥーサンやケーミット・ラフィンズ、そしてマルサリス家らジャズミュージシャンたちもここに住んでいた。なぜならば、この街の雰囲気が好きだったからである。あるものは、「そこにはハートとソウルと美があった」と言う。

ネーギン市長は、ニューオーリンズの全ての区の復興プランを策定していた。しかし、国家安全保障省の高官は、第9区の住宅の多くは「復興させることが不可能」だと語り、連邦住宅都市計画省朝刊は、もっと厳しく「第9区を再建するのはまちがいである」と述べている。

ここは有名な観光地、フレンチ・クォーターから2マイルしか離れていない。そこで、バーテンダーやウェイター、ウェイトレス、メイドとして働いていたのが第9区の住民たちである。つまりこの街のビートを地味だがしっかりキープしていてくれたのだ。

しかし、どうやらニューオーリンズ復興は、観光名所、ジェンティリーやレイクヴューといった中流・富裕層が優先され、この街を有名にした、この街のアイデンティティである場所が後回しにされるようだ。

アメリカは、安値で不動産を買い、高値で売り抜ける不動産ファンドの発祥の地。第9区の開発がビジネス中心、つまり市場原理に任されるとなると、それはかつての住民には帰還不能を意味する。不動産価格が高くなれば、彼ら彼女らは帰って来られない。

もうニューオーリンズは消えてなくなり、ニューニューオーリンズになってしまうのだろうか。

2005年10月05日

監獄社会の顔ーーその1

現在わたしが強い関心をもって追っているアメリカの社会問題のひとつに、巨大な監獄社会というものがある。いま『ニューヨーク・タイムス』が、その問題について連載記事を掲載している。

3日版に掲載された記事が取り扱ったのは、いろいろな側面をもつこの問題のなかでも、未成年(つまりアメリカでは18歳以下)で犯罪を犯しながら、仮釈放なしの終身刑に服している青年の問題。

このような厳罰を行っている州は、50州中48州。アムネスティインターナショナルの調査によると、同様の罰を実施している国は、イスラエル、南ア、タンザニアしかない。しかしアメリカは、この罰で服役している人間の数でずば抜けている。イスラエル7人、南ア4人、タンザニア1人、アメリカ約2200人。そのうち、350名はいまだ15歳以下だ。

そしてその51%が黒人である。

これは黒人の犯罪性を物語っているのではなく、アメリカの刑罰が80年代以後保守化したために厳格になったことの結果である。その詳細はわたしのサイトのエッセイのコーナー、ならびに学会報告を参照。いずれこのブログでも、最新の情報を掲載するにあわせ、この事情や背景、歴史を説明していく。

2005年10月21日

Million More March 続報

20051021million_men_march.jpgこのブログで紹介したMillion More Marchが先週末実施された。

主催者は80万人の参加を予測していたし、わたしのもとに届いた映像を見るとワシントンのモールはほぼ人で埋め尽くされていた。さらに、今回は、10年前の行進にも参加していたジェシー・ジャクソン・シニアにアル・シャープトンに加え、前回は男性に参加者を限定した行進は性差別にあたるとして協力を拒否したとNAACPとNULの会長も参加した。

カトリーナ災害を受け、久しぶりに黒人活動家の統一戦線が張られたのである。

しかし、前回の行進が日本を含め全世界に衛星中継されたのに対し、今回の報道はきわめて限られている。

『ワシントン・ポスト』の記事によると、「真剣な政治デモというより、フェスティバルのムード」があったらしい。1963年のワシントン大行進のとき、それを「ピクニック」「茶番劇」といって揶揄したのはあのマルコムXだった。ふと、このエピソードを思い出してしまう。

実際の反響など、これから追跡調査しなければならないことは多いが、それでも確実にこれだけは言える。アメリカ社会を動かすには、残念ながら、至らなかった。

他方、ブッシュ政権は、ハリケーンで被害を受けたメキシコ湾岸地域の「復興」のために大きな財政支出が必要だということを理由に、歳出「カット」に踏み切った。福祉予算をカットしたのである。さらにまた、高額所得者に対する減税も行おうとしている。再建には好景気が必要で、それは富裕者を優遇しないと訪れないとする破綻したレーガノミックス政策をまだ続けようとしている。さらには、最低賃金の一時凍結を実施した。これも「復興」を早くするためらしい。

富裕者の生活は「復興」される。貧困者の生活はもとには戻らない。

2005年11月05日

パリ北東部郊外の暴動

20051105paris_riot.jpg10月7日よりパリ北東部で始まったアフリカ系の暴動は、ディジョンやマルセイユなど他の都市に飛び火し、この10年間、先進諸国が経験した最大級の都市暴動になった。

きっかけは、「警官による暴力」と「人種別プロファイリング」。2名のアフリカ系青年が、深夜、警官に尾行されていた。そこで身の危険を感じたふたりは、警官の尾行を振り切ろうと走り出し変電所に逃げ込んだところ、感電死してしまった。(これは、ロイター通信や『ニューヨーク・タイムス』が報じたところによる。彼らの死因について、いまのところ確かなところはわかっていない)。

そして、3日にはついに、アフリカ系居住区で評判の悪い店舗を標的にした放火や警官隊に対する狙撃が始まった。

暴動のきっかけになった問題、そしてその経過は、60年代のアメリカの「ロング・ホット・サマー」、さらに記憶に新しいところでは1992年のロサンゼルス暴動と「うり二つ」である。

なお、青年を中心とする暴徒は、フランスで生まれたものが大半である。一部の日本のメディアは、彼ら彼女らを「移民」と形容しているが、これは正確な表現ではない。むしろ、彼ら彼女らを「移民」とみなすそのまなざし自体が、フランスの国是ーー自由、平等、博愛ーーに反するものであり、このような風潮こそが、暴動の根本的原因であると言っても良いだろう。

公民権運動が求めたものーー自由ーーが現実にならないとき、「ロング・ホット・サマー」は始まった、その経緯と同じである。

2005年11月10日

ニューオーリンズ復興の姿その1

ニューオーリンズの老舗の新聞 New Orleans Times Picayune が伝えたところによると、ニューオーリンズの公安を維持している「当局」ーー誰の命令で動いているのかは定かでないーーは、自分の家に帰ろうとする住民を追い返したという。あれだけ市民団体が警告し、監視しているのにもかかわらず、追い返されたのはアフリカン・アメリカン。

さらに、彼ら彼女らは、そもそも避難するときから、想像を絶する経験をしている。彼ら彼女らが避難に応じたのはニューオーリンズが浸水してから後。そこで、「黒人が市内で暴れている」という報道を聞き、彼ら彼女らがミシシッピ川にかかっている橋を渡ろうとすると、橋の向こうの自治体(Grentaとジェファーソン郡保安部)は威嚇の銃を発砲し、渡河を妨害した。

そして、今度は市内に帰れない。なぜならば「どうせ帰ってもやるのは盗みだけ」という風評がたってるから。

そこで、元ブラック・パンサー党ニューオーリンズ支部の創設者の一人で、いまも市民活動を続けているMalik Rahimを中心に抗議デモが組織された。ミシシッピ川にかかった橋を渡るデモである。

公民権運動史に親しんだものにとって「橋」と聞けば、すぐに思い浮かぶところがある。セルマ闘争のときに、マーティン・ルーサー・キングの団体、SCLCが組織したデモ隊が渡ろうとし、アラバマ州兵に凄まじい暴力で弾圧された光景の場、エドモンド・ペッタス橋である。現在、そこは、アラバマ州の史跡に指定されている。

今回の元ブラック・パンサー党員が組織したデモ隊は、40年前のエドモンド・ペッタス橋を渡ったものたちと同じく、公民権運動を鼓舞した運動歌「我ら打ち勝たん」を歌った。パンサー主義と非暴力は、約40年を経たのちに、ミシシッピ川の上でひとつになった。

このデモ隊を、ニューオーリンズ当局は、そのまま通り過ごさせたらしい。報道によると「セルマのようなことになるのを避けるため」。

悪名ばかり高くなっている50 Centは、最近こう述べた。Any publicty is good publicity。公民権運動が成功した理由のひとつは、メディアを大々的に動員できたからである。それを巧く回避されては、「何が起きているのか」は伝わらない。(最近、日本の報道で、「カタリーナその後」を伝えているところがあるだろうか?)。

さて、では、毎日々々、ニューオーリンズで何が起きているのかを伝えてくれるブログを、これからこのテーマをとりあげる度に伝えて行こう。

まずは、こうしている本日、南部屈指の大学、ノース・カロライナ大学チャペルヒル校で、戦略会議を開いている団体のサイトを紹介する。

2005年12月12日

【緊急!】署名をお願いします

土曜日の朝日新聞でも取りあげられていたのでご存じの方も多いだろうが、アフリカ系アメリカ人のギャングのなかでも最大の規模をもつCripsの創始者の一人、スタンレー・トゥーキー・ウィリアムスの死刑執行のときが迫りつつある。

このブログでも、さらにはhttp://www.fujinaga.org/の方でも、たびたびアメリカの刑事裁判の人種的階級的不平等性に触れてきたし、これまで何度も署名を訴えてきた。再度お願いしたい。支援団体がいま、最後の努力をしています。こちらで署名をお願いします。

なぜ署名をお願いするのかというと、それは彼は単なる「極道」thugではないからだ。

1979年、ロサンゼルスにあるセブンイレブンの前で殺人事件が起き、そのときに使用されたショットガンがトゥーキーのものだと判明したという物証が決定的な根拠となり、彼は死刑を宣告された。凶悪なギャングの幹部だったということを鑑みると、「当然」と考える人もいるだろう。

しかし、その後の彼は、「模範囚」となり、青少年に対しギャングに加わることの危険性を訴えるエッセイを著すなど獄中から社会活動を開始、ノーベル平和賞にノミネートされるまでになった。

たしかに犯した罪は償わなくてはならない。しかし「死刑」という刑罰は、間違って人命を合法的に奪うという危険性をもつ一方、犯罪被害者にとっても「納得のいく」解決策とはなっていない。たとえば、今回のケースにおいても、セブンイレブンで殺された人物の実兄は、こう述べている。

「[終身刑への減刑を求める運動の]結果がどうであれ、死刑執行に決められた火曜日がつらい日になるのはまちがいありません。結局、得するものは誰一人としていません。もし彼が特赦を受けたならば、それに悲しむ人がいるでしょう。他面、そうでなかったならば、彼の命が消されたことでとても落ち込むことになるでしょう」。

さらに、獄中での彼の「回心」を鑑み、ジェシー・ジャクソン師はこう述べている。
「罪を贖う行為の価値を過小評価することになれば、彼のこの社会への貢献を過小評価することになれば、そしてまた回心の証拠をはっきりと示したのにもかかわらず周りが変化しないということになれば、シニシズムの大波が押し寄せてくることになります、そのことを考えると怖くなります」。

彼の支援者のなかに、かつてCripsのメンバーだったヒップ・ホップスター、スヌープ・ドッグもいる。ここではっきりしておきたいことは、そんな彼の支援団体が求めていることは、彼を放免することではない、ということだ。残虐な刑罰、死刑を中止し、終身刑に減刑するように求めているだけである。現在、カリフォルニア州議会は、死刑を廃止することを討議中である。もしその法案が可決されたら、彼の刑の執行はどう説明されるのだろうか?

世界に拡がる支援者を知り、それでもトゥーキー・ウィリアムスは、もし刑が執行されるとなると、「独り」で刑を受けると言っている。殺人に関しては、無罪を主張しているのだが…

恩赦の権限を握っているのは、アーノルド・シュワルツネッガー知事。こちらで署名をお願いします。死刑を止めさせましょう!。協力してください!。

【緊急!】カリフォルニア州最高裁、恩赦を拒否

20051212tookie.jpgトゥーキー・ウィリアムスの速報。

カリフォルニア州最高裁が恩赦の要求を拒否。

これでシュワルツネッガー州知事の「英断」のみが最後の望み(ちなみに、全部の死刑囚を終身刑に減刑した例がイリノイ州にはある、ほんの3年前の話だ)。

一方、AOLワーナーが運営しているサイト、Black Voicesの世論調査では、55%が恩赦に賛成、反対は28%。もちろんこのサイトを訪れるものの大半が黒人ではある。他面、ここのところ自分が提案した住民投票が否決されるなど、支持率の低下に悩むシュワルツネッガー知事が、政治的にこの件を利用する危険がある。彼は保守的共和党、死刑支持論者だ。

州知事がネットでご意見番を開いています。抗議の声を響かせましょう。ご協力をお願いします!。

なおここにアップした写真が、現在サンクエンティン刑務所の死刑囚棟にいるトゥーキーの姿である。

2005年12月13日

【緊急!】あと11時間半しかありません

トゥーキー・ウィリアムスに関する速報。

シュワルツネッガー州知事がトゥーキー・ウィリアムスに恩赦を与えることを拒否しました。あと11時間半しかありません。

抗議の署名をこちらでお願いします。

なおスヌープ・ドッグがABC放送で行った特赦をもとめる会見はネットで配信されています。

トゥーキー・ウィリアムスは処刑されました

20051213tokie.jpgトゥーキー・ウィリアムスは、カリフォルニア州政府によって、アーノルド・シュワルツネッガー知事の支持を受け、現地時間13日0時53分に、合法的に殺害されました。

署名にご協力いただいた方々、どうもありがとうございました。

こんなこと、せめても、これが最後になれば…。

この事件については後日、詳報を記します。

もう2度とシュワルツネッガーの映画は観ません。

2005年12月22日

Thugの涙

20051212snoop.jpg死刑延長の署名をお願いしましたトゥーキー・ウィリアムスの葬儀が行われました。

くやしくて仕方がありません。

右の写真は、トゥーキーの亡骸を前にしたスヌープ・ドッグの姿です。

彼は、トゥーキーのことを「俺にとってのマーティン・ルーサー・キングだ」と語っていました。少なくとも、今、スヌープがthugではなくラップスターであるのはトゥーキーがいたからです。

いったい誰だトゥーキーを殺したのは!

2006年01月16日

今日はキング・ホリデイです

今日、1月第3月曜日は、アメリカ黒人にとって特別な日である。マーティン・ルーサー・キングの誕生日(1月15日)を記念し、この日は、連邦政府の定めた休日となっている。

キングの誕生日を休日にしようとする運動は、1980年代に頂点を迎えた。スティービー・ワンダーがその運動のデモに加わり逮捕されたこともあった。多くの日本人が歌詞を理解していないように思われるが、彼の名曲、"Happy Birthday"は、その逮捕の時の怒りを語り、キング牧師への感謝の気持ちを歌い上げたものである。

休日になったのはいいものの、しかし、ここのところこの日が近づく度に、キングならびにキング家に対するネガティヴな報道が続いている。例えば…

『ニューヨーク・タイムス』は、キングの墓、研究施設、ミュージアムの複合施設、Marthin Luther King Center for Nonviolent Social Change(写真は、その施設にある公園、墓を中心にした池のまわりを黒人の子供たちが闊歩する姿)を売却しようとする動き、ならびにその動きに対して、キングの子孫のあいだでの対立が激化していることを伝えている。

『ワシントン・ポスト』は、キング家が名演説「私には夢がある」の知的所有権を保持しているがゆえに、演説の全部を多くの人びとが聞くことができない、と伝えている。(このことに問題があることは確かだが、彼の演説は、上記のセンターに行くとたった10ドルで売られているし、ネットで購入することもできる。学校が買えば、教材としての使用は自由だ。『ワシントン・ポスト』は、キングがもっとも愛した「もっとも恵まれていない人」がキングの財産管理人の貪欲さの犠牲になっている、と仄めかしているが、正直なところ、私にはこの論理がわからない。10ドルの教材を学校が買うことができないならば、それは根本的には教育をないがしろにしている行政の問題である)。

さらに、地元アトランタの『アトランタ・ジャーナル=コンスティチューション』は、キングの母親が所有物であった聖書が、本日、ネットオークションにかけられることになっている、と報道している。

『ワシントン・ポスト』が典型的にみられるように、これらすべてが、キングの子供たちの生き方を批判したものだ。上に書いたように、なかにはさっぱり論理がわからないものがあるが、多くのものは、残念ながら、正鵠を射ている。キングの子供たちは、キングほど「立派」な人物ではない。

しかし、そもそもマーティン・ルーサー・キングという人物自体が、人類の歴史上稀にみるカリスマと政治的嗅覚とをもった人物であった。彼と比較されては、しかも偶像化され英雄化された彼と比較されては、ほとんどのものが色褪せる。

雑音に惑わされないように、この日の意味を確認しよう。

キング博士、Happy Birthday!

I just never understood
How a man who died for good
Could not have a day that would
Be set aside for his recognition
Because it should never be
Just because some cannot see
The dream as clear as he
that they should make it become an illusion
And we all know everything
That he stood for time will bring
For in peace our hearts will sing
Thanks to Martin Luther King

Happy birthday to you
Happy birthday to you
Happy birthday
     
Happy birthday to you
Happy birthday to you
Happy birthday
(From Stevie Wonder, "Happy Birthday")
Stevie Wonder - Hotter Than July - Happy Birthday

この歌は、一般に流布しているイメージと違って、友達や家族に捧げた歌ではないんです。キング牧師の誕生日を休日にする運動のテーマソングなのです。

2006年01月23日

旧モータウン本社が解体〜変わりゆくデトロイト

20060123detroit1968年から1972年までモータウンの本社として使用されていたデトロイト市にあるビルが解体された。2月5日に同市で開催されるスーパー・ボウルのための再開発事業のひとつとして、この街を活気づけた場所が消えゆくことになったのだ。(ベリー・ゴーディ元社長は、この事業を支持しているという)。

アメリカの行事では最大級のものの一つ、スーパー・ボウルを誘致するにあたり、デトロイト市は、その経済効果を3億ドルと見積もっている。この試合の観戦、そしてそれに伴うお祭り騒ぎのためにやってくる人は10万人を予想。

しかし、そもそもこの街の産業の根幹だった自動車産業は、未だ不況に苦しんでいる。今月も、フォード自動車は、同市にある複数の工場の閉鎖と3万人の解雇を発表したばかりである。同市の失業率は6.8%、ニューオリンズに次いで全米都市ワースト2位であるのも、無理はない。

このように産業の基盤が70年代以後完全に破壊されてしまった街には、10万人が訪れようとも、ホテルが十分にない。有名なホテルチェーンでダウンタウンにあるものは、リッツ・カールトンだけである。

多くの観光客は、したがって、郊外にあるホテルに泊まり、ゲームに併せて「8マイル・ロード」を越えて都市中央部にやって来る、ゲームが終わるとすぐに去ることになる。そのための道を空けるために、モータウン旧本社ビルは解体された。

これでデトロイトはかつての光を取り戻せるのだろうか?

2006年01月30日

ニューオーリンズ復興ニュース2

20060130katrinaブラウン大学の社会学者が、驚愕する予測を発表した。

もしハリケーン被災地が再建されず、貧困者へ政府が支援を行わないとすれば、黒人市民の80%がニューオーリンズに帰ってこなくなる可能性が高いらしい。

この数値は、国勢調査資料データと被災地の地図の分析から導きだされたものである。災害の程度が中位以上のもののなかに黒人が占める比率は75%、そのうち29%貧困ライン以下の所得しかなく、失業率は10%を超えていた。したがって、転居至近の援助がなければ、そのまま現在避難している場所に居続ける可能性が高い。

また、ニューオーリンズに帰れなくなる白人も50%にのぼる。

その結果、災害直前に48万人だった同市の人口は、14万人まで急減することになるらしい。

なお共和党議員でさえも、復興公社を設立し、連邦政府が再建事業に積極的役割を担うことを求める法案を提出しようとしているが、行政府の反応は良くない。ブッシュ政権は、公社をつくると公務員が増えるという理由で反対し、復興の中心はあくまで「民間」にするという方針を堅持している。「民間」が儲からない復興事業に乗り出すであろうか?

ニューオーリンズは、19世紀の一時期、ニューヨークやボストン、フィラデルフィアを凌ぎ、一時期全米一の人口を誇った時期がある。その街がいまやなくなろうとしている。

2006年02月01日

コレッタ・スコット・キング逝去

20060201corettaking日本時間22時31分、公民権運動が生んだ巨星のひとりがまた亡くなりました。あまりにも続く訃報に、かなり強いショックを私は受けています。

キング博士の夫人で、キング博士暗殺後は自分自身が活動に身を投じた人物であるコレッタ・スコット・キングが、カリフォルニア州サンディエゴから20マイルほど南、メキシコにあるホスピスで息を引き取りました。享年78。

キング博士の「右腕」で国連大使やアトランタ市長を務めたアンドリュー・ヤングがテレビ番組で語ったところによると、コレッタ・スコット・キングは、眠るように息を引き取ったそうです。昨年の8月に脳梗塞で倒れ、その後は、1月初めにチャリティ会場に姿をみせたのみ、今年のキング・ホリデイの祝典も欠席していました。

彼女は、「偉大な指導者」の妻「だけ」だった存在ではありません。キング博士が凶弾に倒れたわずか3日後、博士がそのときに従事していたメンフィス清掃労働者のデモ行進の先頭に立ち、周囲を驚かせたのは彼女です。その後、夫が創設した公民権団体、南部キリスト教指導者会議だけでなく、全米女性機構の理事も務めました。

トゥーキー・ウィリアムスの処刑があった今日から考えると、極めて意味深長なことに、自分の夫を殺害した廉で死刑判決を受けたジェイムス・アール・レイが求めていた再審請求を支持したのです。復讐ではなく真実を求めている、そう語り。

ジョージア州知事(白人)の判断で、ジョージア州は、彼女の告別式が行われる日まで、半旗を掲げます。

かつてイギリスのセントポール大聖堂で説教を行ったときに彼女はこう語りました。「今日の世界にみられる悪、破壊された秩序、混乱を前にすると、多くの人が絶望感をもちます。しかし、わたしには、あらたな社会秩序とあらたな時代の夜明けが見えるのです」。

キング博士も、暗殺される前日に、同じようなことを言っていました。いま、二人は「約束の地」で出会っているでしょう。

コレッタ・スコット・キングの冥福を祈ります。

2006年02月02日

ハリケーンの災害は国家安全保障省に責任あり!

連邦上院の委員会、Government Accoutability Officeが、ハリケーン・カトリーナの対応を調査した最初の報告書を発表した。

この災害について、Federal Emergency Management Agency (FEMA)のマイケル・D・ブラウンが主たる批判の対象になっていた。もっとも、ニューオーリンズ第9区の掘っ立て小屋より、スーパードームの避難所のほうが素晴らしいなどと破廉恥な発言をしたブッシュ夫人という「ライバル」がブラウンにはいたが、政治的責任のありかとしてはもっぱらFEMAが告発されることが多かった。ところが今回の報告書は違っていた。

9・11テロ後、ブッシュ政権が危機管理の立て直しの主眼として行ったものに、国家安全保障省の設立というのがある。あのテロのとき、国家の命令系統が寸断されてしまった、FBIとCIA、ニューヨーク消防署・警察署のあいだにコミュニケーションがなかったということが反省され、この省が設立されたのである。個人の権利を蹂躙すると批判されている強大な国家権力を持ち…。

ハリケーン災害を調査した報告書は、民主・共和両党の委員の意見として、その国家安全保障省長官マイケル・チャートフの責任を問うた。それも当然である。今回の自然災害にあたり、連邦、州、ニューオーリンズ市のあいだにコミュニケーションが確立されてなく、その反対に責任の「たらい回し」をしたのだから。

この報告に喜んだのが、何とこれまで酷評されてきたブラウン。自分の上司の責任が追及されたからには、もはや批判の矢面に立たなくても済む。

一方、国家安全保障省長官の上司、つまりホワイト・ハウスの主はどうか。ホワイト・ハウス報道官は、この報告書に関し、こう語った。「国家安全保障省および政府のその他の機関、つまりその他の機関とは言ってもホワイト・ハウスは含まれないのですが、いずれにせよホワイト・ハウスを除く政府の機関が、災害救援でリーダーシップを発揮するべきでした」。

責任転嫁はまだ続く。

連邦上院の調査の進展を見守ろう。

2006年02月03日

コレッタ・スコット・キングの葬儀

コレッタ・スコット・キングの葬儀の詳細の一部が決定した。

アトランタ市郊外にあって、末娘のバーニス・キングが牧師を務めているニュー・バース・ミッショナリー・バプティスト教会で葬儀が、来週火曜日に開催されることになった。月曜日は、音楽を大学で専攻していた彼女の生涯を振り返る意図を込め、キング家が代々牧師職を務めるアトランタ市内のアビニザー・バプティスト教会で、音楽会が行われる。

なお、ジョージア州知事は、ジョージア州議会議事等で、市民とのお別れの会の開催をキング家に申し入れ、この土曜日にその会が開催されることになった。白人優越主義者が州政府を掌握していた1968年、キング博士の葬儀のときはこのような行事ななかったのだが。

そのような人種的和解の陰で、『ワシントン・ポスト』によると、共和党員の州知事と黒人州議会議員、公民権団体との対立の模様を報道している。知事は写真付きのIDを選挙投票のときに携行することを求める法改正を提案、それに対し黒人政治家、公民権団体は、法改正はジム・クロウ時代への逆行だと非難している。私見では、この改正案が通過すると、黒人の投票率はいまよりさらに低くなる。キングが命を賭した運動の成果のひとつ1966年投票権法は、したがって、骨抜きにされる。

キング博士の棺は、彼の業績を記念し、将来の活動家の訓練施設ならびに研究者のための史料文書館として建設されたキング・センターの中庭の公園の池の上にある。その横に、コレッタ・スコットが並ぶことになるという。

『ニューヨーク・タイムス』は、葬儀会場の選択のことを、1万人の会衆を収容できる郊外の大教会になったことは「サプライズ」と見出しで報じた。公民権運動を知る多くのものにとって、会場はアビニザー・バプティスト教会が会場になることはまちがいないと思われたからだ。キング家側近のものの見解として、アビニザー・バプティスト教会が狭いことを理由にあげている。葬儀への参加者は、5000名を下らないと見積もられているが、キング博士の葬儀がアビニザーで行われたことを考えると、少々奇妙に思える選択である。

おそらくあの頃から、良くも悪くも多くのものが変わったのだろう。そしてまたおそらく、これが最後の「60年代公民権運動家」のhomecoming gatheringになる。現在の政治社会的情況は新たな政治運動の幕開けを待っている一方、ひとつの時代がいま確実に終幕を迎えようとしている。

2007年06月06日

モータウン・サウンドには汚い言葉はなかった?

&uot20060607sharpton.jpgヒップ・ホップの歌詞が人種的偏見を助長する言葉を用いることがアメリカで大きな問題になってきていることは、これまでも書いてきた。〈人種〉が関係した社会問題が起きる度に登場する人物が、この問題でも活動を始めている。2004年の大統領選挙に落選すると目されつつも立候補した人物で、National Action Network の会長、アル・シャープトン牧師がその人である。

シャープトンが牧師を務めている教会があるニューヨークを皮切りに、NAN は、「品行方正なヒップホップ促進運動」Decency in Hip Hop Campaign を4月から開始し、この度、NAACPと共同でデトロイトで討論会を開催した。同地の観光名所のひとつ、モータウン・サウンドを「生産」したスタジオ、ヒッツヴィルUSA を訪れて、彼はこう語った。

「1960年代といえば、ジェイムス・ブラウンとモータウンの時代です。しかし、彼らは N-Word を使ったり、女性の人格を貶めるようなことはしなかった」。

さて、果たしてそうでであろうか。いろいろと解釈はあるだろうが、二つほど紹介しよう。

まず、モータウン・サウンドを代表(70年代だが)する名曲、マーヴィン・ゲイの「レッツ・ゲット・イット・オン」 Marvin Gaye - Let's Get It On - Let's Get It On

この曲は、当時としては露骨すぎる性的表現が問題となった。メイクラブの歌とも捉えられるが、「女性を性の対象としてしか見ていない」という批判がされても仕方がない。

さらには、ジェイムス・ブラウンから「イッツ・ア・マンズ・ワールド」James Brown - The Godfather of Soul, 1933-2006 (Live) - It's a Man's World

この曲は、「メイル・ショーヴィニズム」の表現として批判され、その批判の先頭に立ったのは、かの「ソウルの女王」「アメリカの和田アキ子」、アレサ・フランクリンである。「あんた、もう一回よく自分がやろうとしていること考えなよ!」とシャウトしているソウルの名曲 "Think"Aretha Franklin - Aretha Now - Thinkが、その曲だ。

つまり、シャープトンは、60年代の歴史を政治的に利用しているとしか私には判断できない。史実は違うことを語っているのだから。さらに、個人的趣味の問題ではあるが、「品行方正なヒップホップ」というもの自体、そもそもまったくクールに聞こえない。「ディストーションのかかっていないヘヴィメタルギター」のようなものだ、と言えば、私が感じている異和感がよく(?)伝えられるだろうか。

もちろん私もヒップホップの語彙に社会的問題があること、それは認める。しかし、シャープトン型の運動がポジティヴな変化に繋がるとは思えないのだ。私にはマスターPの努力の方がよほど真摯に見える。

なお、シャープトンがデトロイトで会合を開いたのと同じ日、デトロイト市議会議員クワメ・ケニヤッタと、ヒップホップグループ Infinity Solutionz がタウン・ミーティングを開催していた。こちらの方は、ラップで歌われている現状を変える方法を討議するものだった、と、『デトロイト・ニュース』紙が伝えている。大切なのはこのような努力だ、と私は思う。

2007年06月07日

ニューオリンズの復興ニュース(久々です…)

ニューオリンズの復興に関して久しぶりに書き記しておこう。

ハリケーンの被害自体が人種的に不均等な結果をもたらしたということは現在では広く知られた事実だが、復興後の状況も人種間格差が存在しているようだ。5月初頭に世論調査機関 Kaiser Family Foundation が明らかにしたデータによると、ハリケーンの被害から丸1年が経過した時点での調査で、「生活が破壊されている」と答えた白人が29%であるのに対し、黒人のそれは59%にのぼる。

白人の率が約3割に達しようとしているのも、通常のいわゆる「先進国」での災害を考えるとたいへんな高率だ。そしてこの調査対象のなかには、既にニューオーリンズを「見棄て」てしまい、そのほかの土地に移住したものは含まれてはいない。そのようななか、堤防が決壊したのは政府の責任であるとして損害賠償を求める動きが活性化している。『ワシントン・ポスト』紙によると、政府を訴えた人びとの人数は25万人に達し、請求総額は2780億ドルに達する。(政府がメキシコ湾岸地域の災害復興に充てた予算は1250億ドルであり、それをはるかに上回る)。

自然災害にあたり政府に責任を問うこと、それには多大な法的障害があり、原告が勝訴する確率は決して高くはない。あるものによっては、これは「訴訟社会アメリカの悪の側面だ」と指摘する向きもあるだろうし、私自身、それが「アメリカ的特質」であることに同意はしなくても、方法的・法論的妥当性には疑問を強く感じる。

そこで、とても心が温まるエピソードを紹介することにしよう。

「復興開発」による建築労働者の需要が高まるなか、同地には数多くのメキシコ人労働者がやってくることになった。ところが季節性と循環性が高い建築労働の質上、労働期間は決して長くない。建築事業が終われば、「飯場」もなくなる。そうすると、廃屋となった住宅に「居座る」squwatしかなくなってしまう。当然、ニューオーリンズに在住の人びととの軋轢は増え、対立は高まるし、そもそも「スクワッター」は法律を犯しているために逮捕されてしまうことすらある。

20070606old_curtis.jpgこの2月、ニューオーリンズ市郊外のグレトナで、そのような事件が起き、17人のラティーノが挙動不審・浮浪の容疑で逮捕されることになった。頼るあてのない彼らは、しかし、その日のうちに保釈されることになった。もっとも被害の大きかったニューオーリンズの黒人ゲトー、第9区に本拠地がある「ニューオーリンズ生存者の会」 New Orleans Survivors Council という団体に属するメンバーが保釈金を払ったからだ。なおその人物と17人のラティーノとのあいだにそれ以前の親交はなかった。

20070606young_curtis.jpgこのニュースを聞いたラティーノの団体、「日雇い労働者の会」 Congreso de Journaleros は、「ニューオーリンズ生存者の会」への感謝の意を表すために、第9区に存在している未だ改築されていない住宅を無償で補修した。そうして、現在、この二つの団体はこうして復興された家で、毎週集会をもっている。

さて、保釈金を支払った奇特な人物の名前は、カーティス・モハメド Curtis Muhamad。なにやら、カーティス・メイフィールドとモハメド・アリの名前が一緒になり、「わくわくさせる」響きがある。実は、この二つの60年代精神の体現者と、カーティス・モハメドの来歴とは無縁ではない。彼は、60年代の公民権団体のなかでももっとも勇猛果敢で急進的だった学生非暴力調整委員会 Student Nonviolent Coordinating Committee (SNCC) のベテラン活動家だった。

SNCC関係の文献ではカーティス・ヘイズ Curtis Hayes と記されているその人物であり、その後、篤信家ムスリムになった活動家だ。Oh, Keep Your Eyes on the Prize Action, Marley Marl & Masta Ace - In Control, Vol. 1 - Keep Your Eyes on the Prize (Featuring Masta Ace and Action), Hold on!。がんばれ、カーティス!。

2007年06月23日

マーティン・ルーサー・キング記念聖堂建設基金コンサート

現在、ワシントンD・Cでは、リンカーン記念聖堂とジェファソン記念聖堂とのあいだに、マーティン・ルーサー・キング記念聖堂の建設が進行中である。

20070623mlk.jpg2008年に完成が予定されているこのプロジェクトの総予算は1億ドル、ワシントンD・Cのモールと呼ばれる国立の公園地域に、アフリカン・アメリカンを顕彰する碑が建つのは、もちろんこれが初めてになる。

リンカーンとジェファソンのあいだに立つ、キングの像、その立地はアメリカの歴史を考えると、とても素晴らしい場所だ。キング博士がアメリカの政治思想のなかで果たした場所として、ここより適したところはない。

他方、AP通信が報じるところによると、その予算の大半は、寄付によってまかなわれるようである。

そこで立ち上がったのが、黒人のセレブ(日本語のセレブではなく英語の意味で解釈してください)たち…。

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2007年06月27日

デス・ロー・レコーズの終焉

20070627deathrowrecords.jpgデス・ロー・レコーズのCEO、マリオン・“シュグ”・ナイトのマリブ・ビーチに面したプライベートビーチも備えた770平方メートルの豪邸が、620万ドルの下限価格でオークションにかけられた。

2Pac、スヌープ、ドクター・ドレーら、ウェストサイドのギャングスタ・ラップ──世代的には Old Skool に属する私はやはりどこか照れてしまって「ウエサィのラップ」とは表現できない──の象徴であったこのレコード会社は、2006年4月に破産宣告がなされており、負債総額は1億ドルにのぼっている。破産宣告のために法廷に出された書類によると、シュグ・ナイト個人の資産は5万ドルしかないらしい。

シュグのこの経済的情況の真偽はさておき、1990年代後半はもっとも勢いのあるレーベルであったこのレコード会社を、かかる情況に追い込んだのは、数々の刑事事件。そのなかには、未だ未解決の2Pac、ノートーリアスB.I.G.殺害事件も含まれる。シュグ自身も、ジャーメイン・デュプリーを脅迫するなど、直接刑事犯罪に関わった。(これらは、Randall Sullivan の LAbyrinth に詳述されている)

過日、歴史的シンボルとしてのモータウン・レコーズの政治的利用に関して批判的論評を行ったが、デス・ロー・レコーズの行きついた場所を考えると、やはりベリー・ゴーディが築いた業績は光輝いている。シュグの現状を考えると、そしてそれまでの過程を考えると、悲しくなってくる。

2007年07月15日

全国黒人向上協会全国大会にて──その1

20070715julian_bond.jpg先週末より、デトロイトで、全国黒人向上協会 (NAACP) の全国大会が開催されている。トルーマン大統領よりはじまり、かつては大統領やその特使が参加するのが恒例であったが、それも2001年にブッシュ大統領が拒否して以来、今年もホワイト・ハウス関係者の存在はなかった。

その2001年、現会長で元学生非暴力調整委員会の運動家だったジュリアン・ボンドは、「ブッシュ政権は共和党のタリバン派(キリスト教原理主義者たち、狂信的右派の意味)と名指しで批判した。ところが、9・11直後のアメリカ社会の右傾化と、2004年大統領選挙の結果や国税庁による特別捜査の開始などを受け、公民権運動との関係のない実業界から執行委員長を選ぶなど、一時期はブッシュの方針に妥協するかのような姿勢をみせた同団体も、昨年の民主党の躍進、そしてブッシュへの支持率の低迷を受け、再度ボンドは、現職大統領への猛烈な批判を開始した。

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2007年07月17日

全国黒人向上協会全国大会にて──その2

全国黒人向上協会(NAACP)をブッシュ大統領が無視し続けているのは昨日ここで報じた通りだが、それに対し、来年の大統領選挙への出馬が予測されている民主党の政治家たちは、大会が開いているデトロイトに足を運んだ。その中には、世論調査や選挙資金集めでトップ争いを激しく繰り広げているバラク・オバマとヒラリー・クリントンもいる。

しかし、民主党がかくも黒人の団体との近しさを強調するのは久しぶりのことである。実のところ、民主党は、マイノリティ利益の代弁者と目されるのを忌避し、そのような事態を避けてきた。このような政治環境は、思うに、ブッシュ政権が有能な黒人を政府の高官(たとえば、コリン・パウエルやコンドリーザ・ライス)に登用し、そうすることで「黒人」のイメージを向上させたからであろう。皮肉なことにそれは民主党の利になっているように思われる。

さて、候補者が次から次に演壇に立つ模様を報じる『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事は、そのなかでも、オバマは「ホームゲームのアドバンテージをもっているかのような聴衆の反応を得た」と報じている。当初、彼が「黒人候補」としてみなされるかどうかが問題とされていたが、どうやらその問題は解決済みのようだ。

その演壇でオバマはこう述べたのである。

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2007年07月20日

ニューアークの政治 ── 変化する〈人種〉の意味

日本でも名前が知られてきたバラク・オバマと経歴が良く似ている人物として、このブログでニューアーク市のコーリー・ブッカーのことを以前紹介したことがある。『ニューヨーク・タイムズ』紙が伝えているところによると、ブッカー市長誕生直後の「旋風」の後、今度は彼が守勢に立たされ、リコール運動さえ起きているらしい。

その記事のなかで、特に注目されるのが、〈人種〉の意味である。「コーリー・ブッカーは実は黒人ではなかった」、そんな噂が同市では流れており、それが市長の「弱点」とされているのだ。ジム・クロウ時代の南部では、「黒人の血が一滴でも流れていたら…」ということが人々の社会的・政治的・経済的地位や命運を否定的に決定づけた(この様子はフォークナーの小説などを読むとよくわかるであろう)。しかし、現代の北部都市ニューアーク市では、その構図が逆になっている。

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2007年07月21日

日本で欠けている黒人の表象

さて、昨日の記事では、「黒人」の表象、「黒人」とは何かについて読者に問いかけてみた。ここで、ちょっとした仮想をしてみたい。

来年の大統領選挙で、バラク・オバマが当選し、それと同時に「新しい黒人政治家」の像が日本のメディアに堰を切って氾濫したとしよう。すると日本における一般的「黒人像」のなかで、まったく欠けているものが現れてくることになる。

現在の日本における黒人のイメージは、本サイトの内容からするとかなり逆説的だが、良くも悪くも上のような像であろう。一部にネガティヴな黒人像の受容は日本人に内在的な偏見の顕れだと酷評する人々がいるが、私は、それに対し、ヒップホップに発する黒人像の受容には肯定的・否定的両側面があるという場に立つ。

その上で、敢えて問うてみたい。たとえ、強烈にポジティヴな黒人像ーーたとえば大統領!ーーが流布したとしても、それが黒人の実像を捕らえたことにはならない。さて何が欠けているだろうか?

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2007年07月24日

デトロイト暴動から40年

アメリカが7月23日を向かえた。この日は、正確な数字が残っているものとしては、当時アメリカ最大の人種暴動(43人死亡、7000人逮捕、92年のロサンゼルス暴動のみがこの死亡者数を上回っている)となり、公民権運動の時代の終焉をつげる序曲となったデトロイト暴動がおきてちょうど40年目にあたる。わたしが住んでいるここ日本もとても暑い日だったが、暴動がおきたその日のデトロイトも華氏90度を超える酷暑だったという。

その日から、デトロイトは大きく変化した。この街の活力の源泉そのものであった自動車産業は、みなさんご存じのとおり衰退。暴動がおきた67年当時でさえ、自動車工場はより労働力の安価な地域に移り初めており、デトロイト市内にはクライスラーの工場しかなかった。クライスラーが投資ファンドに買収されたいま、かつてこの街を支えた工場すべてが一度はこの地を去ったことになる。

さらにはまた、この街の名と一緒に世界中に知れ渡ることになったモータウン。モータウン・サウンドを量産したスタジオ、Hitsville U.S.A. は実は暴動の中心地となった12番街・クラアモント通りの交差点からわずか徒歩で5分ほどのところにある。そのサウンドの中心地も、73年にはハリウッドのサンセット大通りに移転し、90年代に歴史的建造物として補修改装されるまで、「見棄てられたインナー・シティ」のなかにぽつりと位置することになった。

この73年は、また、デトロイトで初めて黒人が市長に当選した年でもある。つまり、デトロイトにおける黒人政治力の伸張は、同市の社会的・経済的インフラの崩壊と同時に進行したのだ。では現在はどうであろう…。

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2007年07月25日

デトロイト暴動、40年後、その2

20070724prayer_for_riot.jpg暴動から40年目、デトロイトではその惨事を悼むために祈りを捧げる行事が、暴動の起点となった場所で行われた。

その模様を、『デトロイト・フリー・プレス』紙は、「これまでのものとは異なるもの」と報道している。

というのも、行政区画上はデトロイト市とは異なっている郊外の都市の首長がこの祈りに参加したからだ。デトロイト都市圏郊外からの人々の参加と言えば、それは、この地域では「黒人と白人がともに」ということを意味する。インナーシティの人口は約90%が黒人、郊外といえばそのまったく反対の事情が存在している。

かつてデトロイト市郊外の街、ディアボーンの市長、オーヴィル・ハバードは、北部にしては珍しい名だたる人種隔離論者だった。それゆえ彼の名前は、インナー・シティの黒人には人種主義と同義である。しかし、現市長はデトロイト市と友好関係を保つために、この祈りの行事に参加した。その祈りにあたり、デトロイト市長のクワメ・キルパトリックはこう語った。

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2007年08月22日

ハリケーンシーズンがまたやって来たが…

世界を驚かせたハリケーン・カトリーナの災害からもう2年が経過しようとしている。そして今年もハリケーンシーズンがまたやってきた。

しかし、『ニューヨーク・タイムズ』紙が論説文で批判しているところによると、ニューオーリンズの堤防は未だに復旧していないらしい。驚いたことに、堤防の再建設が終わるのは2011年。その間、この街に住む人びとは、まさに運命を天に祈らなければならない。Big Easy という名で親しまれたこの街は、この季節にはEasyではいられない。

2007年09月04日

デトロイトより ── ブラック・アメリカの危機

20070904_pan_african_orthodox_church_small.jpg1967年3月のデトロイト、アルバート・クラーグという名の牧師が、聖母マリアやアフリカ人、イエスを革命家と説く特異なキリスト教の一派を立ち上げた。クラーグ師は、その後、デトロイトのローカルな政治で大きな影響力を持つようになる。

実は、このアメリカではレイバー・デイの3連休になった週末、67年の暴動の中心地からわずか数ブロックのところ、旧モータウン本社から通りを4つ隔てたところにある彼の教会の礼拝に参加してきた。右の写真は、その教会の入り口の看板である(拡大写真はここ)

クラーグ師は既に鬼籍に入っており、今はその後継者が牧師を務めている。教会のディーコンの人びとに、近年の活動を伺ってみると、サウス・カロライナで農場を運営し始めるなど、それはネイション・オヴ・イスラームのものに酷似していた(ネイション・オヴ・イスラームもデトロイトが発祥の地である)。

説教は、それでも旧約聖書のなかの寓話の引用から始まる。かなりのあいだ、正直言ってつまらなかったのだが、90分くらいにのぼるその説教の3分の1が過ぎた頃だろうか、牧師はブラック・アメリカの現状を語り始めた

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2007年10月29日

モータウン50周年、その悲哀

20071029hitsville_at_501週ほどここに掲載するのが遅れてしまったが、先週末、デトロイトでは、モータウンのガラ・コンサートが開催された。ここのところ毎年開催されているようだが、今年は少し趣きが違う。なぜならば、今年は、モータウンの前身タムラ・レーベルが創設されて50周年にあたり、ガラも50周年と銘打って行われたからだ。

これにあわせて、かつてのモータウン本社、現在のモータウン歴史博物館があるウェスト・グランド・ブールヴァードは、創業社長でモータウンサウンドを創りあげた人物の名前に因んでベリー・ゴーディ・ストリートと名づけられた。

この通りをモータウン博物館を過ぎて西に500メートルほど行けば、マーティン・ルーサーキング公演という小さな公園があり、その公園の角を北に行けばローザ・パークス・ブールヴァードが始まる。つまり、ここには50年代から60年代を突き抜けた黒人社会の息吹が記念されることになったのである。(ちなみに、通りの名前変更は、マーサ・リーヴスの提案によるらしい。わたしは、恥ずかしいことに、彼女がデトロイト市議会議員になっている!とは知っていなかった)。

さすがに今回のガラには「大物」が集まったようだ。なかでも、モータウン・ファンにとって嬉しいのが、ブライアンとエディーのホーランド兄弟が参加したということ。ホーランド兄弟とラモント・ドジャーのHDHトリオこそ、初期のモータウンサウンド(軽妙なタンバリン、ジェイムス・ジェイマソンのテンポが良くてトリッキーなベース、タムの4連頭打ちに、打楽器のように叩かれるピアノ等々)を創りだした人物だが、ゴーディ社長が暴利を貪っているということで裁判となり、両者の間柄は長いあいだ冷え込んでいた(これは右の本が詳しい)。

しかし、何か寂しいところがある。というのも、世界中に中継された25周年のときに較べると、さすがにモータウンサウンドも輝きが鈍くなったか、と思わざるを得ないからだ。というのも、

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2007年11月11日

2Pacシャクール芸術センター破壊事件容疑者逮捕

日本でも大々的に報道されたルイジアナ州の「ジェナ・シックス」事件を初め、ここのところアメリカでは黒人を対象にした「ヘイト・クライム」の増加が伝えられている。連邦司法省長官人事、さらには同省高官のセンシティヴィティを欠く発言も相俟って、司法当局の態度が厳しく問われ、今月6日には、アル・シャープトンやマーティン・ルーサー・キング3世などの公民権運動家──このような事件では「お馴染み」の面々──が、16日に、ワシントンD・Cでヘイト・クライムへの取締・捜査の徹底を要求する「巨大なデモ」を慣行するという宣言を発表した。

そのような緊張した脈絡において、アトランタにある2Pacシャクール芸術センターの外装が破壊され、「ジーナ・シックス」Jena Six 事件と同じく、この革命家の息子であるラッパーの銅像のクビに(ジム・クロウ時代のリンチを暗示する)「首つり縄」nooseがかけらえる事件が起きた。左のビデオにある通り、この事件は、したがって、当初「ヘイト・クライム」の嫌疑で捜査が進められた。

しかし、とんだ結末になってしまった。

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2007年11月12日

「カーナー委員会」の「再調査」が始まる

20071112_detroit_riot
今から40年前、ニューアーク〜デトロイトの大暴動を契機に設立された都市騒擾に関する大統領特別諮問委員会(通称カーナー委員会)は、1960年代後半に頻発した暴動の原因を探る最終過程にあり、その結果は翌年の3月1日に公開された。『デトロイト・ニュース』紙が報じたところによると、今月11月18日、その「カーナー委員会」の「再調査」がデトロイトを皮切りに始まる。そして、同じく3月1日に、連邦議会に調査報告書を提出する予定であるらしい(この委員会報告の史的意義については、今年9月のアメリカ史学会年次大会で報告し、その原稿はこのサイトにアップしている。なおわたしは、その報告に基づいた論文を現在執筆中であるが、脱稿・発表の折には、ここで報告したい)。

今回の「カーナー委員会」には、しかし、1960年代と大きく異なることがある。それは、

(1)大統領の行政命令によって設立された67年の委員会と大きくことなり、今回の委員会には行政的威信も「国民が与えた権威 national mandate」もない。この委員会は、67年委員会の委員を務めたもののなかでいまも存命中のものに、アイゼンハワー財団が委託したものである。

(2)60年代のような大規模な「運動」がどこにも存在していない。したがって、報告が現状を告発するもの(それは多いに予測される)になったとしても、それを推す市民運動が存在していない。

(3)60年代当時と較べ、人種関係に関する政治学・社会学の調査・論考は、著しく増加している。したがって、今回の委員会の報告が目新しいものになることは、ほぼ期待できない。

1960年代当時と現在は異なる。それを踏まえたうえで、この委員会が何らかの報告書を出し得るだろうか。

2008年3月1日が単なる「記念日」にならないことを祈りたい。

2007年11月15日

親しみの表現か人種主義の発露か?

ミネソタ州、ハムリン大学で、ハロウィンの日、白人が体と顔を真っ黒にし、「アフリカ」の「未開部族」の仮装をしたことで停学処分になった。この学生たちに近しいものは、事件が文脈を無視して誇大に伝えられており、処分を受けた学生たちにアフリカン・アメリカンを中傷する意図はなかったと述べている。

同様の事件は、実のところ、頻発している。

たとえば、2005年11月、シカゴ大学では、「極道渡世一直線パーティ straight thugging party」と題したダンスパーティを白人学生が開催し、その会場には、衣装として、手錠を片手にはめて、マニラ紙に包まれたビールを呑む学生がみられた。そのテーマに憤慨した黒人学生が抗議のために現場に向かったところ、白人学生のひとりが「ヘイ、リアルなヤツがきたぜ、俺たちはお前たちみたいになりたいよ」といった発言を行ったらしい。その学生は、シカゴ大学、つまりバラク・オバマが教鞭を執っていた大学の学生であり、「リアルな極道」ではない。そしてまた、大きすぎるバギー・ジーンズとTシャツ、それにベースボール・キャップといった「ヒップホップ」流の恰好とはほど遠い、「名門私立の大学生らしい」、ごくふつうの恰好をしていたという。

では、何が、彼ら黒人は「ゲトー・ギャング」(白人学生の表現)の世界からやってきたリアルなブラックと思われたのだろう?

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2008年02月22日

「人種内部」の対立とオバマ選挙戦ーーだからわたしはうれしい

よくこのような質問を受けることがある。「それでアメリカの黒人はどう思っているのですか?」。たとえばコンドリーザ・ライスやコリン・パウエルについて、イラク戦争について。たとえばO・J・シンプソンの累犯について。そして、たとえば、バラク・オバマについて。

残念ながら、それにはこう答えるしかない。「わかりません」。

時間があると、ここで逆に突っ込む(質問のされ方がそっけないものだったら「逆ギレ」する)こともある。「黒人という集団は多様な意見対立を内部にもっている集団であって、それはわたしたちと何らかわりありません。松井秀喜について「日本人」はどう思っていますかと聞かれてたとえあなたが日本人を代弁しても、それがわたしの見解と一致するという確証がもてますか?たまたま「人種」が同じだからという理由で統一された見解をもっていると見なすなら、それは一種の人種主義ですね」。「そんな「黒人の一般意思」のようなものを摘出できる能力があるなら、わたしは今こんなことをしていません、世界的知識人になってます」とか。

実は、いまさらながら振り返ってみると、20年になる黒人研究のなかでのわたしの小さな努力は、この黒人という「人種内部」の対立に光を当てることに費やされてきた。「対立」というと聞こえが悪いが、多様な意見をもつ人種集団を描き出すことで人種そのものを脱構築してやろう、そう思っていたのであろう。「白人」と「黒人」の「人種関係」に関心を払ったことは、正直言ってほとんどない。下のエントリーをご覧になってもわかると思うが、わたしの焦点はつねに「人種内部」に向かっている。

80年代後半から20世紀末にかけて"diversity"といえば人種のモザイク状態の多様性のことをいい、多様さを構成する単位は人種やエスニシティとされてきた。黒人史家のトム・ホルトは人種とは黒人を括るカテゴリー、エスニシティは白人のなかを区別するカテゴリーであり、黒人にはエスニシティが許されていないと語り、ジャマイカ出身の歴史人類学者オランドー・パタソンは人種とは学問の術語としては利用価値がなく、エスニシティに置き換えたほうが良いと語る。わたしにインスピレーションを与えてくれた人びとは当然いるのだが、それでも「間」より「内」に目が向けられることは少なかった。

なぜならば、「必死に戦っている集団の内部分裂を促している」と見なされかねないからだ。

それだからこそわかるのだが、爾来、黒人指導層は指導層内部での意見対立が表面化するのを極度に恐れた。WEBデュボイスがNAACPを辞めなくてはならなかったのは、彼が当時の執行部と異なる意見を発表したからであるし、マルコムXが公民権運動指導層から激しく嫌われたのも、彼が指導層への批判を大々的に行ったからである(下に書いたように、ジェシー・ジャクソンの大統領選挙のときに対立が表面化することがあった、しかしそれを当時者が認めることはなかった)。

オバマの登場でわたしが何よりも嬉しいのは、そのような多様性が日々日々伝えられてくること。日本で報道されることは少ないが、米語の新聞を見ると、そこには「黒人」という「人種内部」の葛藤がある。

上のYouTubeの動画は、そのなかのひとつ、昨日紹介したジョン・ルイスがまだクリントンを支持していた今年の1月14日、南部キリスト教指導者会議の元会長ジョー・ロワリーと喧々囂々の議論をするところである。このふたりは、前者はキングに憧れる神学徒として、後者はキングの側近として、苛烈極まりない南部公民権運動に従事した当人である。

彼らは言ってみれば「戦友」であり、その絆はしたがって強い。その二人がテレビ画面(パソコンモニタ?)のなかで、「人種を政争の具にしたのはどっちだ」と丁々発止とやりあっている。ファーストネームベースで!。

ここを訪れられている同業者の方、もしくはさらに「人種内部」の多様性を知りたい方がいらっしゃったら、コメントの方もぜひみてください。人種もさらには国籍も特定できませんが、何かが変わっているアメリカを感じることができます。

この葛藤のなかから新たなブラック・アメリカが生まれる、そう考えると何だか歴史の一シーンに立ち会っている充実感さえある。

2008年03月05日

「カーナー委員会」が「予備結果」を発表

ここのところ、当然のことではあるが、アメリカから伝わってくる「人種」や「黒人」に関連したニュースのほとんどがオバマの大統領選挙運動のことになっている。そこで、否、その文脈のなかで考えてみると、きわめて興味深いリポートのことを伝えたい。

下の11月12日のエントリーでも記しているが、昨年、40年前に全米の都市暴動に関して調査を行った「都市騒擾に関する大統領諮問委員会」、通称カーナー委員会が、今度は財団の支援を得て調査活動を行った。その調査の予備結果によると、この40年間の黒人の進歩、人種関係改善に関する成績はD+、つまり「合格最低点(日本でいう「可」)の上の方」というものになった。

オバマの華々しい活躍を脇に、NAACPデトロイト支部の前会長アーサー・ジョンソンは、「今日の経験から言いますと、昔と較べて顕著に良くなったと言えるところはほとんどありません」と述べている。

では、どこが特に成績評価を悪くすることに繋がったのか?。新カーナー委員会はわけても5つの点を指摘している(これは予備報告の結果であり、正式なリポートは今年中に公開される予定になっている)。

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2008年04月01日

決戦はフィラデルフィア:死の影の谷間の声がひな壇にあがった「希望」に迫る

以前このブログで紹介したムミア・アブ=ジャマルの死刑判決に対し、ペンシルヴェニア最高裁の再審判決がくだった。証拠不十分を理由に、死刑から(仮保釈の可能性のない)無期懲役に減刑された。

法に基づく裁判は、一般的市民感情からすると、「真理」を求めて議論する場のように思われる。しかし、これは現実のところ、近代法の権能を誤解したものでしかない。裁判とは、平たく言えば、原告と被告が対立した議論の「落としどころ」を探りあうものである。この誤解はときに市民感情からの乖離ともなる。

ムミアが無罪なのか有罪なのか、真理はひとつしかない。ならば死刑か無罪かのどちらかが妥当であり、裁判所はそれをつきとめるべく努力せよ、とこんな感情がわき上がってきても、それはそれで理解できることだ(というかわたしはむしろそう強く思う)。

だからこそ、「政治犯」と目されたものを救うには、「落とし前」をつけるための条件を良くするため、市民による政治的プレッシャー、もっと通りの良い言葉を使えば、輿論を喚起することが必要となってくる。

そこで、パム・アメリカらムミアの支持団体が大胆な呼びかけをおこなった。4月22日、民主党全国大会前の最後の大票田での予備選がペンシルヴェニア州で行われる。そこでメディアの関心が集まってくる19日土曜日にムミア投獄に関し大抗議集会、デモ行進を敢行するというのだ。

他方、バラク・オバマは、黒人候補と呼ばれつつも、黒人の問題(black isssue)を全面から取りあげることをしてこなかった。ついこのあいだ起きたジェレマイア・ライト牧師の"God damn America"発言をめぐる論争で、結局彼はその問題を取りあげざるを「得なくなった」のだが、それが敏感なtouchy問題であることに変わりはない。ちなみにさまざまなメディアで主張されているが、ライト牧師の発言は前後の文脈をまったく無視した発言であり、それを主にはフォックステレビなどが誇張して問題化したものである。彼の批判のトーンは、アメリカを「暴力の御用達」と呼んだ晩年のマーティン・ルーサー・キング牧師のそれと比すれば、むしろ穏健なものである。左の説教をご覧あれ。

ところで、ムミアは、フィラデルフィアの監獄のなかから、ライト牧師を批判し人種間和解の崇高な理想像を同じくフィラデルフィアのコンスティチューション・ホールで描いたオバマについて、こんな辛辣な判断をくだしている。

「アメリカ史上初の黒人大統領という野心に駆られ、オバマは、自分がどれだけブラックでないのかを証明するレースの最中にある。だからこそ、自分の恩師と思う人間でさえ非難することができたのだ」。

民主党予備選で、ずっと人種とジェンダーは、それがあきらかなのに直接には触れられない、否、オバマもクリントンもそのふたつを「タール人形」とみなす奇妙な事態が展開されてきた。選挙のサブテキストであった問題は、しかし、いまテキストになろうとしている(この問題はもういずれ学会報告を行う予定である)。

NAACP会長で元連邦下院議員ジュリアン・ボンドは、囚人が参政権すら剥奪されている問題を、2000年大統領選挙のときからずっと追及している。そんな問題をオバマはとりあげるだろうか。法的カウンセルが必要だがその費用をもたない人びとのためにシカゴ・サウスサイドで活動した経歴をもつにもかかわらず、その資質をまだ彼は見せていない。だが見せろとムミアが迫る!

2008年10月16日

バトルグラウンドからの報告(12) ── 「オバマ後援会」主催のコンサート(2)

20081015_obama_rally_small.jpg1980年の大統領選挙、ミシガン州はその後のアメリカの選挙政治を特徴付けるひとつの「政治集団」を生み出した。レーガン・デモクラットがそれである。

1936年の選挙以来、アメリカの民主党は二つの大きな支柱をもっていた。それは黒人を始めとするマイノリティと労働組合である。ところが、1960年代以後、民主党がマイノリティの権利を擁護する姿勢を強めるなか、白人労働者階級は自分が支持してきた党に「見捨てられた」と感じ始めていった。

それはある意味では自然なことである。経済全体が拡大しない限り、マイノリティの生活が向上することは、彼ら彼女らと階層を接していたものたち(具体的に言うと、白人労働者階級)の間での経済競争の激烈化、いわゆる「パイの分け前争い」につながってしまう。その実、1970年代以後、アメリカ経済は長期の不況に見舞われ、経済の拡大どころではなかったのだ。

この時代を象徴するのが、日本製の自動車の「洪水」のようなアメリカ市場への進出である。ミシガン州は、フォード、GM、クライスラーが本社を抱える場所。この州はかつては「民主主義の兵器廟」(自家用車生産は戦時には簡単に軍用車両生産に切り替えることができる)と呼ばれた世界の自動車工場である。

この時代(第二次大戦期から1970年代まで)の経済体制を、ケインズ主義経済とも言えば、フォーディズム体制とも呼ぶ。フォーディズムの中核には労働組合が存在した。そのなかでも最大の組合が全国自動車労働組合(United Automobile Workers Union、UAW)であり、その本部はミシガン州デトロイトにある。この時期、日本でも、デトロイト発のニュースでアメリカの労働者がトヨタの自動車をハンマーでたたき壊す画像がよく伝えられたし、ビンセント・チンという名前の台湾人が日本人に「間違えられて」殺害されるという悲惨な事件も起きた。

この体制は、白人労働者階級(日本ではより穏便に響く「勤労者世帯」という言葉がなぜか好まれる)とマイノリティが利害の一致を見ている限り維持されるものだった。ところが、1980年、ケインズ主義的な経済政策、いわゆる「大きな政府」を解体することを中核としたロナルド・レーガンが提唱した政策が白人労働者階級に訴求したのである。実際のところ、英語ではただ working class と言うことの方が多いが、通例、ただ単に working class と呼んだ場合、そこに黒人は入らない。これは、正確には「黒人と利害が対立する階級の白人」を意味する「コード化された言葉」coded word のひとつである。そして日本人に向けられた敵意は、もちろん、黒人にも向けられたのだ。

しばしばデトロイト郊外のマコム郡は「レーガン・デモクラットのふるさと」と呼ばれる。

さて、日本でも広く報道された民主党予備選挙、特にその後半になってバラク・オバマは労働者階級に人気がないということが言われてきた。このときに白人労働者階級の支持を得ていたのは、もちろん、ヒラリー・クリントンである。したがって、11月の本選挙での問題は、このクリントン支持層がどう動くかにあった。

ミシガン州でオバマの支持率が高い。これは、では、何を意味するのであろうか?

白人労働者階級から広く支持を集め始めていると見なすのが自然であろう。ここに至ってのオバマへの追い風は、気がついてみれば業界こぞって悪徳高利貸し商法に加担していた未曾有の金融危機から吹いていることも確かである。規制緩和、規制緩和と、政府は小さければ小さいほど良いと唱えてきた政治のツケなのだ。これを何とかするためには、それこそ「根本的な改革」fundamental change が必要である。政治を考える思考自体を変えなくてはならないのだ。

さて、左上の写真は、ブルース・スプリングスティーンが駆けつけたオバマ支援集会の観衆の姿である(画像クリックで拡大)。小さな球場を埋め尽くしたその人びとは白人労働者階級だ。この集会のチケットには所属する組合の名前を記す欄があったが、そこに何らかの名前を書いた人はきっと多い。

1980年代以後の共和党の優勢は白人労働者階級とマイノリティとを敵対させることによって維持されてきた。今回、それが揺らごうとしている。少なくともミシガン州では大きく揺らいでいる。

スプリングスティーンは、下の YouTube ビデオで観られるように、「敵は退散したらしいが、まだ安心するには早いぜ」と語るとともに、これ以後、オハイオ州のコロンバス、ヤングスタウン、ペンシルヴァニア州フィラデルフィアでの集会に参加すると述べている。そう、これまでこのブログを訪問された方はご存じのように、これらはバトルグラウンドだ。

ちなみに彼は一貫して民主党支持であり、2004年にもジョン・ケリーの選挙応援を行った。きわめて「アメリカ的」に思える彼は、しかし、偏狭な「愛国心」のシンボルとして利用されることがある。それを最初に行ったのは、Born in the U.S.A.が大ヒットしていた1980年のロナルド・レーガンである。レーガンの政治利用を聞いた彼は、その後に行ったコンサート会場で、自分の立場を明確にするため、1970年代の鉄鋼不況を綴った名曲、"The River"を、アメリカ労働総同盟・産別会議会長に捧げると語って歌った。

ミシガン州での流れが何らかの意味を持つとすれば、それはこれらの州も「雪崩を打って」民主党陣営に加わるかもしれないということであろう。「レーガン・デモクラットのふるさと」が「本来のふるさと」の民主党に帰ってきたのだから。

本日の朝の時点でのCNNの予測では、マケインが勝利するには、まだ接戦となっている諸州で全勝するしかないらしい。予測は所詮予測だが、わたしがここで述べてきたのはこのような単なる数字上の計算ではなく、バトルグラウンドで感じた観測である。

よく言われているように、バラク・オバマは、これまでの「黒人政治家」とは異なる。ジェシー・ジャクソンにせよ、アル・シャープトンにせよ、かつて大統領予備選に出馬した黒人政治家は、選挙に勝つことではなく、選挙運動を通じて黒人のおかれている環境に対する関心を高めることが目的だった。ところがオバマの場合は、あくまでも勝利が目的である。ミシガン州での選挙戦は、同州の歴史上最大の選挙運動だったと報じられているが、それは勝利を目的にするオバマの選挙運動全体のなかで、この州が占める政治的意義が大きかったからだ(このカッコの部分は、討論会の報道を観たあとに書き足している、オバマはアメリカの経済的苦境を語るのに「デトロイト」という換喩法を用いた)。

さらに、南部ヴァージニア州やノース・キャロライナ州もオバマが逆転しそうになっている。ここはラストベルトと呼ばれる中西部や北東部とは違った意味合いを持つが、その解説は次回に譲りたい。そろそろ大統領候補討論会の時間だ。

2008年12月01日

バラク・オバマが目指す政治(3) ── 勝利演説完全解読(2)

さて、前回の問いに答えることからまず始めよう。

おそらく、「わたしは目がねをかけています」ということを、選挙遊説のたびに言うものはいないだろうし、選挙戦を通じてまったくその事実に触れないものだって普通に存在するはずだ。

もともと〈人種〉とは、人間がもつ属性のなかのひとつに過ぎず、それはひとつの属性であるという意味において、目がねと同じものである。しかし、この〈人種〉という属性が殊更重要な意味を果たしているのは、それが社会によって強い意味づけを施されているからである。

この社会的力は人の意思で簡単に変えられるものではない。この力が変わるには、人びとの意識的な営為とともに、人為を超えた時の流れが必要だ。何はとまれ、現在のアメリカ社会ではこの力を否定していて政治世界を生きられるものではないのである。

したがって、オバマの〈人種〉は、「わたしは黒人です、だから…」ということをわざわざはっきりと言わなくても、彼が存在するその場を既に規定し続けていたのである。よくオバマは〈人種〉について言及しないから黒人政治家ではないという論評が(特に民主党予備選序盤の日本のメディアで)見られたが、これほど馬鹿げた議論はない。

なぜならば、オバマが黒人政治家であること、これはオバマ本人が逃げようにも逃げられない社会的現実なのだからだ。

この峻厳なる現実がまず存在していた。そしてオバマはそこから逃げなかった。むしろ事態は、その反対であり、自分が当選すれば、それがアメリカ史上初の「黒人大統領」の誕生を意味するという「歴史性」を強く認識していた。そして、「黒人」、つまり「奴隷の子孫」がアメリカ合衆国大統領になるということそれ自体に、「〈テロとの戦争で失墜したアメリカ民主政治〉、それを再生する」という政治的アジェンダとを直結させていったのだ。

みずからを「歴史の体現」とするこの大胆な戦略、それを彼はことばにして表現することなく実行していった。なぜならば、彼の風貌がぱっとみてわかるアフリカ系だからである。

先に述べたキングの引用に見られるとおり、この選挙戦にはいろんなところでいろんなシンボリズムが用いられていたが、昨年に始まったオバマの選挙戦の開始点と終着点もそのひとつだ。

開始点は、リンカン大統領生誕の地、イリノイ州の州都、スプリングフィールド
終着点は、南北戦争の北軍の最高司令官の名前を冠したグラント公園

「俺に投票しろ、それが民主主義の豊かな生命力を物語ることになる」。こんな横柄なことを述べたところで、誰も見聞きしないだろう。しかし、現実として、オバマはこれと同じメッセージを、より崇高なことばに変えて、はっきりと宣言したのだ。

彼は勝利演説の冒頭でこう言っている。

「どんなことだって可能なところ、それがアメリカだということをまだ疑っているものたち、われわれの建国の父祖たちの夢はまだ生き続けているということをまだ疑っているものたち、われわれの民主主義のパワーを懐疑的に見るものたちがいたとして、今宵の結果があなたたちがそのような人びとに対して示した答えなのです」。

ここでいまひとつのポイント。オバマは、ここで、自らの人種的象徴性がもった意味を、すでに能動的な市民(「あなたたち」)の功績に帰し、それを称えている。ここで、「俺に投票しろ、それが民主主義の豊かな生命力を物語ることになる」といえば自己中心性が高まってしまうメッセージを脱中心化し、民主主義そのものの理念のなかに選挙の意味を埋め込んでいるのだ。

さらに肝心なことに、ここで「自分」を「中心」から退かせるとともに、〈人種〉は消えているようでいて帰って大きな存在感を示している。何はとまれ、オバマはここで〈人種〉はつねにアメリカ民主主義の弱点であった、その弱点を克服したのだ、と宣言しているのだから…。

このレトリックの巧妙さには、改めて考えてみて、驚嘆せざるを得ない。

かくして彼の演説のなかでよみがえった能動的市民の政治活動が彼のことばによって称えられていく。

学校や教会を一回りするほど伸びた投票者に並ぶものの列、それはこの国が歴史上なかったほどの数にのぼり、票を投じることができるまで3時間、4時間と待たなくてはならない、そして多くのまた生まれて初めて投票したそんな人もいる、そんな人びとみんながくだした結論なのです。この選挙だけはこれまでとは違ったものにならなくてはならない、自分たちの声が今度こそは違った結果になるかもしれない、そんな信念をもった人びとがいたからこそ、この結果が生まれたのです」。

さて、この次、この能動的市民のカタログをオバマは作り始める。そこでは、実は、アメリカ大統領選挙戦史上初めてのとんでもないことばが大胆にも潜み込んでいた。

【続く】

2008年12月02日

バラク・オバマが目指す政治(4) ── 勝利演説完全解読(3)

今回の解説は、オバマ演説の訳から入ろう。

「それは、若い者も老いた者もともに下した答、民主党支持者も共和党支持者も、白人、黒人、ヒスパニック、アジア系、アメリカ先住民(Native American)、同性愛者(gay)、異性愛者(straight)、身体障害者(disabled)、健常者(not disabled)も一緒になって下した答えなのです。そうしてアメリカ人は世界に向かってひとつのメッセージを発しました ── アメリカが個人の寄せ集め、共和党支持者が多い集(red state)と民主党支持者が多い集(blue state)によって分断された政治を単につなぎあわせたものであったことなど一度もなく、われわれはいつの時であっても、ひとつの統一されたアメリカ合衆国だったのです」。

この演説の後半部は、2004年の民主党大会の基調演説を彼が行ってきた主張をそのまま繰り返したものである。アメリカを〈人種〉や政治思想によって分断された国家であるとみなす考え方は、1990年代半ばより広く共有されてきた。ここでオバマは、そのときに広く読まれた著書、アーサー・シュレジンガー・ジュニアのThe Disuniting America をはっきりと意識しつつ、シュレジンガーらの主張を否定し、その勢いを一気にアメリカ愛国主義につなげている(しかしながら、「ケネディ神話」を作り出した人物のひとりであり、それゆえケネディをこよなく愛するこの老歴史家は、オバマ当選を喜んでいると思う、たぶん…)。

さて、前回指摘した「アメリカ大統領選挙戦史上初めてのとんでもないことば」は、すらすらと述べられたこの演説の前半部にある。実は、アメリカ先住民ということば、そして同性愛者ということばが、このような舞台の演説のなかで発せられることはなかった。オバマにこれができたのは、彼が自分が黒人であることをはっきりと意識していたからにほかならない。

しかし、これはよく考えるととんでもないことだ。日本の総理大臣が、「わたしが総理になれたのは、国民の熱烈なる支持があってのことです」と慇懃に礼を述べ、そのあと支持層それぞれに挨拶し始めるとしよう。そのなかに「ゲイ」ということばがでることなどありあり得ない(もちろん、この選挙で、カリフォルニア州の住民投票はゲイから婚姻の権利を剥奪することを是とした。その問題はあまりにも大きいが、実際のところ、このわたしにはそれを論じる力がない)。

選挙結果が世界に知れ渡ったあたりから、アメリカではオバマ当選を祝う各国の姿が報じられた。そのなかには、もちろん彼の父の国、ケニヤの姿もあったが、多くは、香港のイギリス系、フランスやドイツのアラブ系といった、彼と同様ハイブリッドなアイデンティティを抱く人びとの姿だった。日本からの画像は、福井県小浜市の勝手連。それは実に異様だった。

話をもとに戻して、オバマはこれまで大統領選挙で無視されてきた人びとをこうして登場させる一方、ある人物像を退場させた。それは、ジョン・マケイン(わたしが参加した集会で、ブルース・スプリングスティーンは彼のことを「もうすぐ歴史の脚注にしかすぎない存在になる人物」と言ったが、もはやはっきりとその「定位置」を確保してしまった感がある)が、テレビ討論会で突然「テレビの前のジョー、配管工のジョー、わたしはあなたのための政治をしようとしているんです、オバマ上院議員はあなたのような人びとに対し増税を行い、大きな政府をつくろうとしているのです」といったことを述べ立て、周囲をひかせてしまったその「配管工ジョー」である。

このブログの大統領選に関する記事を読まれている方ならお気づきの方も多いはずだ。この「配管工ジョー」は白人、政治思想はレーガンデモクラットである。

政治的言説の舞台から、かくして登場者が入れ替わった。こうしてみるとオバマは、政治舞台の登場者であるというよりも、ここではむしろ演出者である。

2009年01月10日

オークランドの警官暴力が暗示するもの ── 「ポスト人種」時代の人種問題

20090109_policebrutality2009年元旦のカリフォルニア州オークランド、サンフランシスコ=バークレー=オークランド間を結ぶ鉄道BARTの駅で、警官が無抵抗で非武装の黒人青年を射殺した。広く報道されている画像を見るかぎり、これは幾多ある警官暴力のなかでももっともひどいもののひとつだ。黒人青年は、3人警官から抑え込まれてうつ伏せになっている。その3人のなかのひとりが、ピストルを抜き背後から弾丸を撃ち込んだ。この模様を映している鉄道の乗客の携帯ビデオには、その警官の行動に対する驚きの声までも録画されている。

同地では、NAACPはもとより、市議会議員も先頭に立ち、抗議行動が行われた。自己調査をするのでその報告をまってくれと言っているBARTに件を任せた市警察に対しての抗議だ。そしてその非暴力の抗議は、7日、小さな暴動と化した。

これは1960年代後半の人種暴動や公民権運動の展開と「うりふたつ」だ。オークランドは、また、警官暴力への抗議をきっかけに結成されたブラック・パンサー党発祥の地でもある。抗議デモを行っている人のなかには、「身の回りに注意しろ、警官が近くにいる!」と皮肉を書いたプラカードを掲げているものがいたが、これはパンサー党が抗議デモで用いたものそのものである。

ところが当時とはひとつだけ大きく異なることがある。

現在のオークランド市長はロナルド・デラムス。1940年代に黒人ポーターの労働組合オルグとして社会政治活動を始め、1970年代には同市の「ブラック・パワー」のシンボルにもなった人物。さらにまた、60年代にはほとんどが白人だったオークランド警察は完全に人種統合されている。

人種は社会的構築物であるという認識が広まってから以後頻繁に言われるようになった言葉に「ポスト人種社会」という言葉がある。現代社会は、人種によって分断した社会の「後」に位置するという見方だ。

そして、バラク・オバマの当選は、ポスト人種社会の象徴とさえ思えた。

そこで起きたこの事件。

大統領は黒人である、しかし実際の現状は60年代と何らかわならい、そんな事態の展開をある面では予示しているように思える。

ただし、そんな不安を消し去ってくれるかのような状況もまた、この事件のなかでは見られた。60年代の抗議行動、その後半期になると怒りを抱えた群衆の大半が黒人だった。今回の抗議行動は完全に「人種統合」されていた。白人もまた、残忍な警官の行為に激怒していたのである。

なお、黒人を射殺した警官は、これを書いている時点では、まだ逮捕されていない。

2009年02月19日

全国黒人向上協会の危機と「ポスト人種」のアメリカ

2009年2月12日、全米各地でリンカン大統領生誕を祝う行事が行われた。この日がリンカン生誕200周年ならば、それは、アメリカでもっとも古くかつ最大の規模の黒人人権組織、全国黒人向上協会 (the National Association for the Advancement of Colored People) が結成100周年を迎えたことになる。なぜならば、この組織は、1909年にイリノイ州スプリングフィールド(リンカンの生誕地)で起きた人種暴動(当時の人種暴動は白人に黒人が一方的に襲いかかるものだった)に抗議して、リンカン生誕の日に結成された組織だからだ。

しかし、オバマ大統領誕生後、何とNAACP不要論が飛び出すことになってしまった。

以前から、NAACPが黒人大衆の現状と噛み合っていない(黒人コミュニティの空気が読めていない)とする批判はかなり多く上がっていた。より正確に言えば、この組織に大衆基盤があったのは1940年代初頭だけであり、戦後は赤狩りに与することで保守勢力の一翼を担ってしまい、1960年代は若者の組織の後塵を拝したり、1970年代以後は明確な指針を打ち出せずにいたりと、法廷において画期的な違憲判決(たとえば、もっとも有名なのが人種隔離教育に対する違憲判決、『〈ブラウン〉対〈教育委員会〉』判決)を導き出したという以外、あまり高い評価は与えられていない。

おそらく歴史を画するような偉業をなしえるには、この組織は巨大すぎるのだろう。つねにアメリカの主流社会の動向に敏感であり、否、敏感でありすぎ、そのためアナクロニズムと思われるような戦略をしばしばとる。

実は、今回飛び出てきたNAACP不要論は、このアナクロニズムを鋭く批判したものだった。コロンビア大学の比較文学者で、全国公共放送などで人種問題に関するコメンテーターとして活躍しているジョン・マクホーターは、リベラルな論壇誌『ニューリパブリック』に掲載された論文「誕生日の乱痴気騒ぎ」のなかで、「NAACPが今日解散してとして、それがブラック・アメリカに大きな影響を与えるだろうか」という過激な自問自答を行った。その答えは、ノー。影響はない、ということだ。

かと言って、マクホーターは、大統領が黒人になった今や人種主義は消え去った、などという単純でおめでたい議論を行っているのではない。彼がいうには、人種主義はもちろん存在している、しかし、それは、「中庭の掃除をしたあとに、まだゴミが残っているというようなもの」、一切合切のゴミを取り去ることなどもともと不可能なのだという現実感覚に基づいたものだ。つまりゴミがでたところで、そのゴミを除去する最良な手段を考えれば良いというのである。

たとえば、黒人のなかでは以上な高率になっているエイズの問題。これは公衆衛生と保険行政の問題になる。青年黒人の犯罪率(とその再犯率)の高さといわゆる黒人と白人の「成績格差」なのならば、それは教育問題になる。

マクホーターに言わせると、それらはデモ行進で解決できないものである。そのような彼にとって、デモや抗議に終始しているNAACPは、「60年代のスピリットを色鮮やかで劇的に再演しているにすぎない」のである。

そこで彼が求められる黒人の運動として紹介している例が、元ブラック・パンサー党員でつい最近逝去したばかりのウォーレン・キンブロが、ニュー・ヘイヴンで行っていた「前科者再生プログラム」である。キンブロ自身、「同志」を殺害したいわゆる「内ゲバ」で実刑を受けたことのある「前科者」で、自分の経験に基づいて社会更正支援組織を立ち上げた。その近年は高い評価を受けているが、なにはともあれ、それはキンブロのプログラムが「ブラック・コミュニティ」の需要にぴったり応じたものだったからである。

このマクホーターの意見、わたしもうなずけるものがあった。古くは黒人指導者ベイヤード・ラスティンが1965年に提唱した「抗議から政治へ」という路線を踏襲するものであるが、もはや抗議デモの時代ではない。エンパワメントへの道は、コミュニティ自体の活性化を通じて行われる。

たとえば、筆者が知っている限りでも、ブラック・コミュニティの健康問題や教育問題にグラスルーツの視点から対処している組織は数多くある。たとえば、ジオフリー・カナダの斬新なアイデアで発足した「ハーレム子供解放区」Harlem Children's Zone (HCZ)

「ハーレム」と「子供」とは、実際のところ、ちょっとした形容矛盾である。少し無理して、日本でわかり安い比喩にすると、この組織は「新宿ゴールデン街子供解放区」とか「新大久保子供公園」とかいった響きすらする。ハーレムと子供とはどうしても馴染まない。しかし、高校生の就学率と大学進学率の向上を目指したこの組織の評価は高く、実はバラク・オバマはこの組織の「実験」を全国規模で展開するということを(選挙中は)公約に掲げている。マクホーターがハーレムに隣接する大学で教鞭を執っていることを考えると、彼がこのHCZのイニシャティブを知っていないはずがない。まちがいなくこのような組織の存在が旧態然としたNAACPに対するいらだちになっているのだ。

日本でもベストセラーになった(らしい)オバマの伝記を読めばわかるが、バラク・オバマは、シカゴでそのような組織のオルグだった。このところ日本の新聞のウェブサイトを読むと、「オバマの指導力」という言葉をよく見かける。日本の首相がよっぽど指導力がないのか、それともまちがった方向で指導力をガンガン発揮しているのかは知らないが、バラク・オバマに、たとえば小泉純一郎のようなトップダウン式の「指導力」があると思ったら大きなまちがいだ。オバマにカリスマ性は確かにある。というか強烈なカリスマ性がある。しかし、それは、グラスルーツの組織の活性化の結果として輝き始めたものだ。オバマのネットを使ったまった新しいタイプの選挙運動と同じく、彼の指導力をこれまでの政治家のひな形をあてがって考えようとすると必ず失敗する。

このような展開を考えると、ポスト人種社会のアメリカ、そこから人種問題は消え去らなくても、ブラック・コミュニティ自体がその問題への対処はあきらかに変えてきているように思える。

これは、市民社会の成熟度を問うとすれば、まちがいなく良い方向への大きな一歩だ。そして、実は、これも、NAACPの抗議のページェントとは違う意味で、60年代のスピリットを引き継いでいるのである。

2009年02月27日

ニューオーリンズから(1)

上の動画は、2005年のハリケーン・カトリーナの災害で最大の被害を受けたニューオーリンズのロウアー・第9区、マルディ・グラの祭典が行われる前夜の今年の模様である。

ちょっとした縁から、同地の災害復興ボランティアの参加する機会を得て、現在これは現地から書いている。ここで一緒に行動している者の中には、インドネシアのバンダ・アチェ地区で通訳として復興活動に参加した者もいるが、その人物の話ではニューオーリンズの復旧の方が「遥かに遅い」らしい。

ところが、わたしが同地に入る前にちらっと目を通した『地球の歩き方』では、日本の「郵便」にあたるUnited Postal Serviceの統計をあげて、85%の郵便が配達されていると紹介されている。もちろん、観光客に対し必要以上の恐怖感を煽らないことは大切だし、復興が着実に進んでいる側面もある。

では、さて、上の画像のなかに現れる地区の85%が帰ってきていると言えるだろうか?

実際のところ、郵便は配達されているのではない。わたしが復旧作業に入った家(ロウアー第9区より遥かに被害が軽かったアップタウンにある)には、宛名が違うが住所が同じ手紙が無造作に複数投げ入れられたままになっていた。所帯主に会ったが、その家には現在住んでいないらしい。住めないから。

借家に暮らしていれば、誰でも経験があるものだ、前の住人の郵便が配達されたことくらい。郵便はしたがって、住民帰還の指標にはまったくなり得ない。アメリカの場合、日本の住民票にあたる人口管理の方法がないので、その統計の取り方は難しいだろうが、郵政公社の値を参考にしては「ならない」ことだけは確かだ。

戻ってくることには、資力が多いに関係し、そしてその資力は人種と強い関係があった。この街の貧富の差、そして人種隔離された居住区の有り様は、これまで見たどれよりも凄まじかった(続く)

2010年01月25日

ブログ再開のあいさつに代えて

ブログは定期的に更新するのが何よりも重要。それはわかっているのですが、またずいぶんと更新を怠ってしまいました。書くネタは多くある、否、多すぎるほどあるのですが、時間が…。

それでもわたしなりのペースで頑張っていきます。再開にあたって、あいさつだけでなく、H-Netのアフロアメリカン・メーリングリストで紹介されたもののなかから、ハイチ関係のニュースサイトのリンクをご紹介します。

http://www.bpl.org/news/haiti.htm
http://guides.library.umass.edu/haiti

2010年02月07日

"Saints" Go Marchin' In -- New Orleans Mayoral Election

ニューオーリンズ市長選の第一回目の投票結果が出た。黒人票が公民権運動後では初めて白人候補を支持することになるかもしれないという事前の予測通り、現職副知事で元市長の息子、ムーン・ランドリューが当選。過半数獲得まで投票が繰り返される同市の選挙制度にあって、一回目で66%を獲得する地滑り的勝利になった。

さて、歴史的に言って、南部再建期以後黒人は幾度も白人を支持してきた。なぜならば、都市内部における黒人の比率が高くなるまで、黒人が当選できる可能性は極めて低く、白人に投票でもしなければ彼ら彼女らの声が政治に反映されることなどあり得なかったのである。

その状況を一変させたのが公民権運動と都市人口の変容。

公民権運動は黒人の人種意識を覚醒させ、50年代以後の白人人口の郊外への「逃亡」は、全米諸都市において次から次へと黒人市長が誕生する現象を生みだした。

この間に進行していったのは、実は投票が人種的アイデンティティによって決定されるということ。これが問題なのは、黒人だからと言って、黒人市民を利する政治を行うとは限らないということ。民主政治の根幹のひとつには功利主義がある。人種アイデンティティが選挙を支配したとき、有権者は決して功利主義的には行動しない。

ニューオーリンズは、過去2回にわたってC・レイ・ネイギンを当選させてきた。カトリーナが同市を襲ったとき、テレビの前でブッシュを罵倒して泣き崩れた人物である。巨大な自然災害と無能な連邦政府の板ばさみになった彼には「不運」なところがないこともない。しかし、結果を見ると、政治家としての彼に評点をつけるとすると、C-を下がる。

2008年の大統領選挙、以下に記しているように、わたしが特に注目したのは境界州の白人票の動向。同地の白人は人種を超越してオバマを支持した。2010年、ポスト・カトリーナ2度目の選挙、前回は人種的忠誠心からネイギンを支持していた黒人市民たちが、今度は彼を見棄てた。〈人種〉の呪縛を、とりあえずは振り払ったのである。

そのことを祝おうではないか。明日のもっと大きな祝杯の前に!

「多幸感」が過ぎ去って Part 2: On Asylum -- Cuba and Haiti

バラク・オバマは、政権発足直後に、二つの大統領行政命令を発布した。

ひとつは、キューバのグアンタナモ米軍基地にある秘密捕虜収容所(拷問が行われ、人身保護令状の埒外にあるということで国際人権団体が激しく抗議していた施設)を閉鎖すること。そしてもうひとつが、アメリカに親族のいるキューバ人のアメリカへの渡航、またキューバに親族のいるキューバ系アメリカ人にキューバへの渡航を許可し、国交正常化に向けた大きな一歩を踏み出したこと。わけても後者は、キューバを「悪の枢軸」と名指しし、強硬路線をとっていたブッシュ外交からの大きな離脱を示した。

卑俗な表現で気がひけるが、そのときのわたしの心境は「アドレナリンが噴き出してきた」といったところだった。というのも、前年キューバへのアメリカからの渡航を試みて断念した経緯があったからだ。アメリカにとって、キューバは遠い隣国なのである。

ところが「対テロ戦争」がオバマの思う通りに進まず、アフガンには兵が増派される事態。内政は医療保険改革でどんずまり。キューバ政策に関しては前に進んでいる様子がまったく見られなかった。

ところで、キューバからの「難民」に対して、アメリカ政府はきわめて寛容・寛大に「亡命者」としての政治的庇護 politial asylum を賦与するのに対し、ハイチからの「難民」にはそうではない、彼ら彼女らは「不法滞在者」として訴追されるという話はご存じだろうか。

カリブに浮かぶ二つの美しい島、それを統治してきたのは、いわゆる「独裁者」である。ところが、アメリカは、社会主義的独裁者には激しい敵意で立ち向かうのに対し、(開発)資本主義的独裁者(i.e., マルコス元フィリピン大統領、ソモサ元ニカラグア大統領、グエン・バン・チュー元南ベトナム大統領、そしてアメリカに反旗を翻す前のサダム・フセイン、さらにはハイチのデュヴァリエ父子)には極めて寛容だ。政治的庇護権賦与がもつ、政権批判の意味を最大限に活用しようとしているのが、そこには窺える。

ハイチ人は、このイデオロギー上の問題に加えて、アメリカに住み続けることが難しくなっている。なぜならば、ハイチからの夥しい画像がはっきり示しているように、彼ら彼女らはまぎれもなく「黒人」だからである。対し、マイアミなどに行けばすぐにわかるが、アメリカで市民権を得ようとしているキューバ系と言えば、そのほとんどの人の肌の色は「白い」。

いま、そのハイチに対し、アメリカは人道的観点から大規模な救済活動を行っている。その行為はいくら賞賛しても賞賛しきれない。そのことを踏まえてなお且つここで言っておきたい。緊急事態が過ぎ去ったあとのアメリカに求められるのは、政治的な決意である。キューバの扱いもハイチの扱いも、共に「正常」に戻すこと。

オバマ政権、最初のダッシュはすばらしかった。そのときの勢いが戻らないと、正直、2012年、リベラル票が離反するような気がする。

2010年04月05日

オバマと黒人教会 ── Rev. Jeremiah Wright's Smile

ちょうどいまから2年前、大統領選挙予備選が行われていた頃、フォックステレビが、「反米的思想」を吹聴しているとして、オバマが通っている教会、トリニティ教会Trinitity United Church of Christの牧師を非難、猛烈なネガティヴ・キャンペーンを行ったことがあった。問題となった牧師、ジェレマイア・ライトは、ネットやフォックスニュースの画面を通じて頻繁にながされたビデオのなかで、黒人は「神よアメリカを祝福し給え」God Bless Americaと言うことはできない、「神よアメリカを呪い給え」God Damn Americaと言うべきである、といったことを教会の演壇から説いていた。

これは何も「反米的」と形容できるものではない。むしろ、アメリカ黒人の歴史のなかでは、黒人の苦境を映し絵にアメリカを断じることは至極一般に行われていることであり、近しいところでは、その論調はマーティン・ルーサー・キングやマルコムXの双方が用いたことがある。

いわばこのような誹謗中傷を受けて、当時ヒラリー・クリントンと熾烈な予備選の最中にあったオバマは、フィラデルフィアで"A More Perfect Union"と題する演説を行った(右上のYouTube動画を参照)。この演説は、多くのアメリカ史・黒人史家が、アメリカ政治の歴史のなかでもっとも人種を率直に論じた、名演説中の名演説と評価するものである。わたしも、彼の演説のなかでは、この演説こそ最高のものだと評価するし、何度聞いても魂が洗われる感覚を受ける。

「ブラック・コミュニティはわたしと絶縁することはできません、ならばわたしだってブラック・コミュニティと絶交することなどできないのです。わたしが(白人の)祖母と絶縁できないならば、わたしはライト牧師と絶交することもできないのです」と彼が言い放ったとき、このキャンペーンの流れが大きく変わった。それまで、アメリカ黒人ではなくアフリカ人を父に持つオバマのことを、「黒人の経験を知らない人物、ほんとうは黒人ではない人物」と批判していた論調が去り、クリントンを支持していた老獪な黒人政治家ですら彼の支持へと傾いていったのだ。つまり、ネガティヴ・キャンペーンは、オバマに人格の高潔さを示す機会を与えてしまい、意図した効果とは逆の結果になってしまったのである。

しかしながら、ジェレマイア・ライトが、911テロを賞賛していると捉えかねない扇情的な発言を繰り返すにしたがってオバマの政治生命も危機となり、関係を見直さざるを得ず、結局両者は絶縁するに至る。そのとき、NAACPデトロイト支部の会合で、ライトはこう言っていた。

「オバマのほんとうの色true colorは、彼がホワイト・ハウスの主になった後、どこの教会に行くことになるか、それを見ればわかる」。

アメリカ合衆国は、近代思想の産物であるとともに、きわめて宗教的な国でもある。そのような国にあって、大統領が無信教であることは許されない。

しかしながら、その一方、アメリカの教会は、人種統合されているとは言い難い状態にある。その状況を端的に言い表しているのが、「日曜午前11時(つまり、教会で礼拝が行われている時分)はアメリカがもっとも人種隔離されている時間」という表現であろう。つまり、同じキリスト教であっても、黒人は黒人だけで、白人は白人だけで集うのが、事の善し悪しは別として、慣例となっているのだ。

つまり、ライトは、この状況を鋭くつき、オバマの「忠誠心」は黒人教会にあると、挑撥的に言い切っていたのだ。

さて、イースターの日曜日を迎えた4月4日(ちなみに、この日はマーティン・ルーサー・キングが暗殺された日でもある)、オバマは、ワシントンD・Cの黒人ゲトーである、南東部第9区にある黒人教会を訪問した。第9区での失業率は28.5%、貧困率は40%に達する。『ワシントン・ポスト』は、オバマがワシントンD・Cのブラック・コミュニティとが最接近した事例として、この模様を報じている。

ここのところ全米のメディアでは、オバマと黒人運動家との確執を報じる記事が多く見られる。ところが、元来彼は、ワシントンD・C第9区と大して変わらないところ、シカゴのサウスサイドで活動していたコミュニティ運動家だった。つまり、彼にとって、このようなコミュニティが抱える問題は、何も目新しいものではないし、また直接的関係性が薄いものでもないのだ。

オバマがこの日訪れた教会の牧師は、激しく体を揺り動かしシャウトをする、いわゆるリヴァイヴァル調の会衆について、「大統領御一行のみなさま、どうももうしわけありません、しかしわたしたちはこのようにここではクレイジーでいたいのです、髪を乱し、靴を放り投げている光景を見ることになるかもしれません、しかし、それがわたしたちが主を讃えるやり方なのです」と言ったという。この出来事を報じる『ワシントン・ポスト』は、それをこう表現した。「オバマがトリニティ教会のメンバーだったときに参加していた激烈な礼拝」である。

さて、ジェレマイア・ライトがこの記事を読んだら、何を思うだろう。わたしはきっと微笑んでいると思う。

「ブラック・コミュニティはわたしと絶縁することはできません、ならばわたしだってブラック・コミュニティと絶交することなどできないのです」。

ワシントンD・C第9区の教会の牧師はこう言っていた。「大統領がこのような苦しい時期にここを訪れてくれているのに、第9区のことが世間から忘れされられているということなどありません」。

わたしもオバマはブラック・コミュニティのことを忘れていないと思う。

問題を人種問題と規定することなく、より普遍的な問題として捉え、人種問題そのものに取り組むこと、オバマの〈人種〉とのそんなダンスは続く…。

2011年07月10日

黒人人口の変化(その1)——シカゴの黒人人口の「流出」が続く

先週7月3日の日曜日、拙訳の書評が朝日新聞に掲載されました。径書房でのお仕事は、わたしがまだ修士1年以来、実に16年ぶりになります。そのときは、マルコムXのアフォリズム集『マルコムXワールド』で、黒人史年表を書くという仕事でした(物を書くことで初めて収入を得たわたしにとっては一生忘れられないお仕事で、映画公開に併せた最後の追い込みは、やっていてとても楽しいお仕事でした)。同書を監修され、私を起用して下さったアメリカ文学者の佐藤良明先生も、ご自身のブログで批評とともに紹介してくださっているので、これらの内容について、いずれここで、まとめて語りたいと思います。

さて、今日は、かつてのこのブログの調子に戻ろうと思います(と、いうので文体変更)

この春頃からアメリカの新聞では黒人人口の北部都市離れが数多く報じられている。2010年国勢調査(センサス)の数値に基づいて政策が策定される時期に入ったのがその原因であるが、このような報道のなかには大都市が連邦政府から受けている助成金が大幅削減される水準にまで人口が落ち込んだデトロイトのケースなど、かなりショッキングな数値も多い。

南北戦争勃発以後、一貫して南部から北部へ、農村から都市へと動いていたアフリカン・アメリカンの人口は、1990年のセンサスで初めて「南部への回帰」とも思われる徴候が現れた。それから20年、黒人の人口動勢は、どうやらはっきりと北部から南部へ、都市中央部から郊外へと向きを変えたようだ。これはまさに「歴史的」と形容できる変化である。

このなかで、紹介したいのは、7月1日にAP通信が報じたニューヨークに関する記事と、7月2日に『ニューヨーク・タイムズ』が報じたシカゴに関する記事Black Chicagoans Fuel Growth of South Suburbsである。ここには、かつてさまざまなメディアに溢れたアメリカの都市の地景——たとえば、スパイク・リーの映画に出てくる混乱していても活気溢れるブラック・コミュニティであったり、「24時間犯罪現場密着追跡」のようなタイトルののぞき見主義丸出しのテレビの特番に描かれる黒人ゲトー——が急速に過去のものになっていっていることが現れている。

今回は、この二つのなかでも、より大きな動勢について書かれている『ニューヨーク・タイムズ』の記事について述べてみたい。

ファンクバンドのパーラメントは、1975年に、Chocolate Cityというタイトルのアルバムを発表した。このタイトル曲、Chocolate Cityは、アメリカの都市——わけてもこのアルバムにおいてはワシントンD・C——の有り様を、「チョコレート色の街とバニラ色の郊外」と表現し、チョコレート・シティで花開くファンク・ディスコ文化を賛美した。この色彩豊かな表現は、実のところ、アメリカの都市がデファクトの人種隔離状態にあったということを物語っていた。チョコレート色とは黒人の肌の色、バニラ色とは白人の肌の色を指す。

アメリカの都市、わけても北部・中西部の住宅の人種隔離に関する研究は多い(そのなかの優れた研究のいくつかは日本語の翻訳も出ている)。わけてもシカゴは、都市と黒人文化、そして黒人の社会政治運動に関心をもつ人びとの主な焦点になってきた。わたしがそこに住んでいた1990年代半ばも、おそらくその基本的構図は変わっていなかったと思う。たとえば、ループ地区の中心にあるデパート、メイシーズ(当時はマーシャル・フィールズ)の前にあるバス停に夕刻に立ち、バスに乗り込む人を見れば、それはよくわかった。北や北西に向かうバスに乗るのはほとんどがコーケージャン、対して南や西に向かうバスに乗るのはほとんどがアフリカ系だった。当時のわたしはサウスサイドの59丁目に住んでいたのだが、夜11時を過ぎると、南に向かって走ってくれるタクシーを捕まえるのに苦労したことも多い。学部学生当時にバンドを一緒にやっていた友人が遊びに来てくれたので、バディ・ガイが経営しているブルーズ小屋(Checker Board Lounge--当時はハイド・パークではなく、サウスサイドのど真ん中にあった)に行こうとして何台もタクシーに乗ったが、最終的に連れて行ってくれる運転手にめぐり遭うまでとても長い時間がかかり、さらにはそのブルーズ小屋から帰るのに電話で読んだタクシーを3時間(!)も待たなくてはならなかった。しかし、どうやらその構図に大きなとは言えなくとも、意義深い変化が現れているようだ。

シカゴ市の人口は、2000年から2010年までのあいだに、約20万人減少した。この減少した人口のうち、18万1千人が黒人である。この10年間のあいだに同市の黒人人口は、比率にして17%も減少したのだ。

『ニューヨーク・タイムズ』紙の報道によると、この人口流出を促した要因は二つ。ひとつは、日本でも予測できることではあるが、サブプライム住宅市場のクラッシュに伴う抵当物件差し押さえの増加。つまり、単純に言って、不況のため都市に住めなくなったという要因。そしていまひとつが、日本的環境ではまったく馴染みのないこと、低所得者向け高層公共住宅の取り壊しとそれに伴う住民の立ち退き(ちなみに、これはこの記事では触れられていないが、シカゴの2016年オリンピック立候補は、めずらしくループ北側の高級住宅地ゴールドコーストに隣接した地区に建設されていたカブリニ・グリーン・ホームズという「悪名高い」公共住宅を取り壊すことで可能になっていた)。低所得者という経済的階層は、この都市のなかにあっては、かなりの確率でアフリカ系を意味する。

この記事で描かれている図式は簡単に言うとこうなる。差し押さえ物件の増加と、それの低迷する住宅市場での売り出し(つまり住人のいない物件の増加)が、都市中央部(インナー・シティ)にあった中上流層向けの住宅地——2000年代初頭の住宅バブルのときに開発されていた——の魅力を乏しいものに変えた。これと同時に進行した公共住宅の取り壊しは、インナー・シティの「マイノリティが住む低所得者住宅地」にさらなる低所得者を「流入」させることになった。そこで生じたのが、マイノリティの中間層の郊外への「脱出」である。

シカゴ郊外のマッテソン Mattesonの街に、サウスサイド96丁目から引っ越してきたある人物は、こう語っている。「シカゴの市内には中間なんていうものはありません。デイレー[前]市長の政策は、ずっと噂されていたこと、つまり中間層の浸蝕政策というのがほんとうの姿だったのです。リッチになるか、プアになるか、そのいずれかだったのです」。

このようなアメリカ社会の実態は、ベストセラー『貧困大国アメリカ』でも詳述されていることであり、経済格差の拡大といったテーマ自体、今日となっては何の新規さもないものである。しかし、ここでこの記事をほんの少し詳しく見れば、ブラック・アメリカに生じていることの深層が垣間見ることができる。ほんの少し詳しくみよう、マッテソンの位置から。

イリノイ州の南、もしくはインディアナ州の側からシカゴに接近して行くと、シカゴ都市圏に入ったと思う特定の地点がある。それは、おそらく東西に走るI-80かI-94を越えて北に進んだときだ。これを越えると東西に伸びる通りの名前も急にシカゴ市中心部から続く連番が増えてくるし、ハイウェイも有料のものが現れてくる。道の両端が壁で仕切られ、場所によっては高架道になるなど、はっきりと都市に入ったとわかるようになる。しかし、マッテソンは、これより南に位置する。市民活動家だったバラク・オバマがその活動の拠点としていたアルゲルト・ガーデンズは、このマッテソンより北側、シカゴ市中心部とのほぼ中間あたり。つまり、ここは、郊外suburbというよりも、exurbや”outburb”というところに位置する。そのようなところで、黒人人口の増加率は85%に達し、19,000人の総人口のうち15,000人が黒人になった。他方、白人の人口は、4,000人から2,800人に減少しているのである。

この記事のなかで興味深いのが、移ってきた住民が、その理由に都市の荒廃をあげているところ。

ブラック・アメリカの歴史的経験を捨象して考えるならば、荒廃した居住環境を去るということに殊更不思議な点はない。しかしながら、郊外への居住が人種的偏見の壁に阻まれ、黒人がインナー・シティのゲトーに住まざるを得ないとき、彼ら彼女らにとって政治社会的に現実的な戦略は、都市の政治的権力を握ることだった。その戦略にしたがって大衆を動員するには、人種的アイデンティティを強める「ブラック・コンシャスネス」はきわめて重要だった。しかし、いまや都市の政治を握ることよりも、その地を去ることをインナー・シティの住民は選ぶことができ、現実にも選び始めたのである。

1987年、シカゴ最初の黒人市長、ハロルド・ワシントンが在職中に死去して以後、黒人がこの市の市長に当選したことはない。現職のリチャード・デイレーが出馬しなかった2011年2月の市長選では、黒人候補の当選が予測され期待されたが、「黒人の統一候補」を擁立するための話し合いも難航するなか、白人のラーム・エマニュエルが市長に当選した。この市にあって、ひとつの政治運動を形成できるほど強力な人種的紐帯は、もはや存在していない。

シカゴのこのような情況はおそらく全米の都市各地で起きていることだろう。そう考えてくると、2008年の大統領選挙で、オバマが黒人の96%もの支持を集めたという現象の方がむしろ奇異なものに思える。2012年、彼がここまで強く黒人有権者から支持される可能性は、それほど高くはない。

いささか古い言葉だが、スチュアート・ホールが〈人種〉について定義したつぎの言葉が響いてくる。

Race is a modality in which class is lived.

2014年08月19日

ミズーリ州ファーガソンについて(1)

このサイトは2000年大統領選挙で起きたことを伝えるために始めました。ずいぶんと休んでいましたが、活発に発言を再開するべきときが来たと感じています。そこで、久しぶりに日本のニュースも賑わしているミズーリ州ファーガソンでの件について。英語で書いた文章をfacebookの方にアップしましたので、こちらにも再掲します。

newyork2014_detroit1942.png

Left: NYPD officers chalk-killing an unarmed African American (2014)
Right: Detroit police officers brutalizing an African American protester (1942) in front of a public housing project.

You can add Rodney King beating in 1991 in LA.

Scenes are so similar, but. . . .

Pundits say that a racial disturbance will lead to conservative backlash, but is it really so?

1943 Sojourner Truth riot in Detroit precipitated coalition building between civic liberals, white unionists, and civil rights activists. This coalition served as a backbone of the Civil Rights Movement. Racial disturbance does not always lead to backlash but sometimes help organize liberal coalitions.

Look closely at diverse crowds protesting killings of unarmed African American males on the TV screen right now. The videos are, more often than not, HD with FULL COLOR. These are not black and white. Then, we can build a coalition which will crush current political stalemate in Washington.

ファーガソンの件については、facebookにおいても発言しています。

2014年12月07日

ミズーリ州ファーガソン、ならびにNYPDの件について

上記の件、リンクを貼るのが容易だということで、かなりの数のコメントをすでにfacebookの方で行っています。こちらと同時に掲載できれば良いのですが、なかなか時間の都合でそれができていません。よろしければfacebookのわたしのページへどうぞ。

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