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エンターテイメント アーカイブ

2000年05月24日

書評 Suzanne E. Smith, Dancing in the Street: Motown and the Cultural Politics of Detroit

書評

Suzanne E. Smith, Dancing in the Street: Motown and the Cultural Politics of Detroit (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1999).

モータウン。「サウンド・オヴ・ヤング・アメリカ」としてヒットチャートに次から次へと曲を送り込んだ1960年代を代表するインデペンデント系レコード会社。その話は、同時期にクライマックスに達した公民権運動、ならびにその運動が引き出した社会変革と黒人の地位の向上と複雑に交錯している。同書は、モータウン興隆をデトロイト黒人ゲトーのコミュニティ史のなかに位置づけることによって、その歴史的意味を明らかにしようと試みたものである。

このような目的はほぼ達成されている。その点において、これから〈モータウン史〉--そのようなカテゴリーがあればの話だが--に接するものにとって、同書が必読文献になることはまちがいない。これに先行するモータウンに関する書物、たとえばネルソン・ジョージの『モータウン・ミュージック』などに較べ[1]、同書では社会経済的文脈・分析がはるかに詳細な形で織り込まれいて、モータウンに対する最初の学術研究の一つにあげてもほぼ支障はない[2]。

事実、著者スザンヌ・スミスが乗り越えようとしたものは、極めて魅力的で面白い〈モータウン物語〉、ネルソン・ジョージの『モータウン・ミュージック』であったはずである。しかし、 ネルソン・ジョージの著作はしばしば黒人史の側面から「単なるノスタルジアに過ぎない」と批判されてきた。だが長らくこの著作を乗り越えようとするものは出現しなかった。ジョージの著作には、黒人史、とくに黒人の抵抗思想史を学んだものにとってとても豊かな研究素材になりそうなエピソードがふんだんに散りばめられている。たとえば、モータウンの設立者、ベリー・ゴーディ・ジュニアの父親が経営していた雑貨屋の名前は「ブッカー・T雑貨店」と言う名前であったらしい。ここで黒人史家--と言うよりも、黒人研究者とほとんどのアフリカ系アメリカ人--が、政治的アジテーションによって公民権獲得を目指すのではなく、地道な努力を積み重ねることによってまずは経済力を確保し、政治的行動よりも経済的〈自助努力〉の方が優先すると説いた、黒人の教育者ブッカー・T・ワシントンの名前を思い起こすのはほぼ条件反射的になされることである。その後ゴーディがモータウン製品のディストリビューションにあたって権限を保持しようと必死に努めたことからもわかるように、モータウン・レコーズとは、黒人の経済的自律性を説くブッカー・T主義の最良の成果であったのだ。ところがこのエピソードに飛びつき、議論を深めようとするものはいなかった。

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2000年08月20日

書評:Gerri Hirshey, Nowhere to Run

Gerri Hirshey Nowhere to Run: The Story of Soul Music (New York: Da Capo Press, 1994)

白人による黒人音楽パフォーマーのインタービュー集である同書はきわめて興味深い論点を提示してくれている。60年代のR&B、ソウルを扱った同様の著書とはまったく異なった「トーン」が、この本にはある。それは、1960年代というきわめて感情的思い入れが強い時期に興隆したソウルを語るにあたって、ハーシーはなにひとつ同時代的論考をしていない、という点である。

評者は、スザンヌ・スミスの著書の評する際に、ネルソン・ジョージの二大作は「単なるノスタルジアに過ぎない」という批評がなされているという事実に関して言及しておいた。今日の都市ゲトーは、60年代のそれとは異なり、上・中流階級が心地よい住宅環境を求め郊外へ「脱出」したあとのものである。したがって、かつてのゲトーには生き生きとした〈文化〉が存在していたのに対し、今日のゲトーにはその〈文化〉の担い手になれる資力・能力が(一部のヒップ・ホップ・アーティストを除くと)存在しない。そのような現状をふまえた上でかつての〈黒人コミュニティ〉、ならびにこのコミュニティが生んだ文化を論じると、どうしても「古き良き日々」を語ってしまうトーンになりがちである。

この本は60年代に立ち返らないことによってノスタルジアに陥ることを巧妙に避けている。著者の視点は必ず1994年という時点におかれ、過去を振り返るのはアーティスト当人である。そしてアーティストたちの言葉の底辺に流れるのは「時代は変わった」というものであり、彼ら彼女らは過去の人種隔離の存在した時代をノスタルジックに振り返ることなく、黒人音楽がアメリカ文化の主流となった現在を楽しく生きている。マーサ・リーヴスはモータウンの南部ツアーの際に、白人優越主義者からバスが銃撃された事件を語っているが[1]、そこにもどこかしら人種主義を嘲笑う余裕がある。白人優越主義者がわがもの顔で南部を闊歩した時代は、確実に過ぎ去ったのだ。

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2004年06月11日

巨星逝く

レイ・チャールズが、ビヴァリーヒルズ病院で、6月10日午前11時35分、肝臓疾患のため逝去されました。享年73。

えっ、と『ニューヨーク・タイムス』からのメールを読んだとき絶句しました。4月30日、彼の邸宅がロサンゼルス市の歴史遺産として保存されることになったのですが、そのときが公共の場における彼の最後の姿になったようです。

黒人音楽の歴史を創ったひとがまたひとり。ご冥福をお祈りします。

2004年07月03日

マーロン・ブランドー逝去

20040703blando.jpg7月3日、マーロン・ブランドー逝去。

マーロン・ブランドーとブラック・ワールドの関係は何?、と思われる方も多いと思う。そこで簡単にその説明をしたい。

ハリウッドは、50年代の赤狩りの標的にされ、そこで政治的意識の高い人物はほぼ映画界から追放された。そのときの追放劇のなかで、仲間を「売った」として悪名が高いのが、映画監督エリア・カザン、当時は俳優だったロナルド・レーガン。ブランドーの出世作の監督がカザン。

しかし、ブランドーは、60年代に入り社会政治運動が盛んになると、それをハリウッドのセレブリティのひとりという地位を利用し、人的・財政的に支援した人物の代表である。このような活動をした俳優としては、ジェーン・フォンダが有名だが、フォンダの場合、後に「売名行為」として当時の行動が批判されるのと対称的に、ブランドーは、60年代に政治運動に身を投じた青年たちと同じく、あくまでも「叛逆」の表象であり続けた。

1962年、ミシシッピで学生非暴力調整委員会が黒人の有権者登録運動をしているときに、その運動資金を出したのは、ブランドーとハリー・ベラフォンテ。

1963年のデトロイト、マーティン・ルーサー・キングやアレサ・フランクリンの父、C・L・フランクリンと一緒にデモ行進したのはブランドー。

ワシントン大行進のとき、ハリウッドから仲間を引き連れてかけつけ、そうすることでメディアを動員するのを助けたのはブランドー。

ブラック・パンサー党の創設者で「国防大臣」、ヒューイ・ニュートンが、警官殺害の冤罪で投獄されたとき、解放運動の資金を提供したのはブランドー。

ご冥福をお祈りします

2004年07月22日

Patheticなブッシュ選挙戦

20040722don_king.jpgNAACP年次大会への招待を拒絶したブッシュは、黒人票を掘り起こすために特別委員会を結成した。ところが、驚きは、その委員会のメンバー。

なんとドン・キングがいるのである。写真の髪型をみれば、ああ、この人、と思われる方は多いだろう。

が、念のため解説しておきます。

ドン・キングは、モハメド・アリのファイティングマネーを巻き上げ、民事訴訟で敗北した人物。ドン・キングは、マイケル・ジャクソンからギャラと印税をせしめようとして失敗した人物。悪名高い詐欺興行師。(アリを初めとするボクシング界での詐欺行為に関しては、右の拙訳が詳述している)

さらに、ドン・キングは、マルコムXの友人であったコンゴ共和国の初代首相パトリス・ルムンバを殺害し、クーデタで政権を奪取、同国を現在に至るまで苦しめることになる腐敗政権の始まりを期した人物、独裁者モブツ・セセ・セコの友人。ドン・キングは、アジアでは、マルコス元フィリピン大統領の友人。

ドン・キングは独裁者が大好き。

周知のとおり、ブッシュは、イラクの独裁者から追放するといって戦争を起こした。またまた彼の論理は破綻をきたしている。

何はさておき、ドン・キングの方が、NAACPより、黒人コミュニティで支持を得ているとたいへんな勘違いをしている。しかし、共和党幹部のなかに、まともな政治学・社会学のトレーニングを受けたものはいないのだろうか。

ブッシュの選挙戦はpatheticだ。

2004年08月05日

Public Enemy in Russia

昨年の夏、モスクワでパブリック・エネミ(P.E.)ーのコンサートが開催され、彼らのメッセージに不快感を抱いていた6名のスキンヘッズが、コンサートから帰ろうとする観客に襲いかかり、1名を死亡させるという事件が起きた。

この件に関し、ロシアの裁判所は、最長で18年の実刑判決をくだした。

P.E.のメッセージに不快感ーーより精確に言えば、「不安」ーーを感じているスキンヘッズは、アメリカにもいる。

2004年08月07日

リック・ジェイムス逝去

20040807rick_james.jpg
1979年後半から1980年前半にかけてヒットを連発し、そのなかの幾つかは今日のラップなどでよくサンプリングされているシンガー、ソングライター、プロデューサーのリック・ジェイムスが亡くなった。

テンプテーションズのオリジナルメンバーが伯父である彼が契約していたのはモータウン。思えば、彼とデバージは、このレコード会社がまだ創業者ゴーディによって管理されていた時代の最後の大スターだった。(右の彼の写真の姿は、よくエディ・マーフィが真似たものだった)。

死因は自然死(natural death)。享年56という若さを考えると、ドラッグが原因ではないか、という噂がでている。

2004年09月28日

R・ケリー公判

少女のポルノ画像を撮影したとして起訴されていたR・ケリーの公判が開かれた。ケリー弁護団が勝利。

検察は事件が起きた時期を1997年11月1日から2002年2月1日までの「いつか」としていた。これに対し弁護団は、「あまりにも曖昧な時期」であり、「アリバイを証明することも不可能」と反論。地方判事が弁護団の主張を認め、検察に事件の日時を限定するように指示をくだした。

R・ケリーの「性犯罪」はこれが初めてではない。スパイク・リーなどは、「そのような人物の音楽など聴けやしない」という旨の発言を行っているが、有罪・無罪の問題はさておき、彼の音楽は素晴らしいとわたしは思う。

2004年11月29日

Tupacの新譜がまた出ます

死後7枚目になるTupacの新譜、Loyal to the Gameが発売される。

そのなかの一部の曲は、海賊版としてすでにネットに出回っているらしい。

2004年12月07日

スティービー・ワンダー、エミネムを酷評

20041207eminem.jpg
グラミー賞候補がアナウンスされる時期が近づいてきた。そのなかの有力候補、エミネムの"Just Loose It"をスティービー・ワンダーが酷評。

タイトルから想像つくように、これはマイケル・ジャクソンの大ヒット曲"Beat It"を幾分かパロディにしたものだ。イメージ・ビデオでは、ジャクソンの「児童虐待容疑」への皮肉が込められている。

スティービー・ワンダーを怒らせたのは、そのタイミング。「ひとが意気消沈しているところになぐりかかるのは褒められたことじゃない」というのが彼の意見。

さらに、スティービーの怒りはこれだけでは止まらなかった。「[エミネムには]これまで敬意respectを払ってきたが、考えてみれば、彼は2Pacにはとても及ばない」。さらには、「低所得者が多い黒人が多くのファンになってくれたから成功できたのに、こんなことをやるなんて、ヤツはbull shitだ」と発言。スティービーにとって、エミネムは「偽善者」。

スティービーは生まれたときからずっと光を見たことがない。ゆえに「肌の色」を物理的意味ではしらない。彼にとって肌の色は「社会的構築物」であり、「自分と同じコミュニティに属するか否か」で決定されることになる。

スティービーは、したがって、「肌の色が白い」エミネムに怒ったわけではない。

ブラック・コミュニティで"respect"は極めて重い価値を持つ。それがわからないエミネムは、したがって、「よそ者」なのだ。

多くのものを当惑させる存在、白人ヒップホップアーティスト、エミネム、彼が引き起こした現象を考えると、いろいろ面白いことがでてきそうな気がする。

2004年12月09日

Jay Z, Def Jam の社長に!

20041209jay-z.jpgJay Z が、自らが所属するDef Jamレーベルの社長になることが決まった。

その決定には、ユニヴァーサルとワーナーという、レコード業界の巨大企業によるJay Z 獲得合戦があった模様。

現在 Def Jam はユニヴァーサル傘下にある。ワーナーの引き抜きに応戦し、ユニヴァーサルに留まってもらうために、Def Jam レーベルのアルバム制作からマーケッティングに至る権限をすべて譲渡する条件をユニヴァーサルが提示し、Jay Zが受け入れた。

メガ・レコード会社の重役に、ゲトー出身の黒人がなることは極めて珍しい。ヒップ・ホップは「ガラスの天井」を突き破った!。

2004年12月16日

ジェイムス・ブラウン癌手術成功

20041216james_brown.jpgジェイムス・ブラウンが前立腺癌の摘出手術を受けた。

結果・経過は良好らしい。

ここ最近、R&Bの巨人の逝去が続いていたが、JBも気がつけば71歳になっている。

とてもそんな年齢には思えないのだが…

2004年12月21日

なぜかヒップホップのパーティに中止命令

ロードアイランド州ワーウィック郡警察公安部が、同地で行われる予定であったヒップホップ・パーティの禁止を命じた。

公安部長の話だと、「ヒップホップのパーティに集まる群衆はきわめて暴力的」であり、「ただそれに我慢がならないだけだ」というのが、その理由らしい。

しかしヒップホップだけが「暴力的」なのだろうか。

オハイオ州で殺人事件を起こしたのはヘヴィ・メタルのコンサートだった。

なぜかブラック・パフォーマンスには「暴力」というイメージが貼り付けられてしまう。

ニュース出典
http://www.allhiphop.com/hiphopnews/?ID=3873

2005年01月10日

ほんとうの「ミシシッピ・バーニング」ーー正義へ1歩前進

20050110mississippi_kkk.jpgついに公民権運動史上もっとも残忍な殺害事件の犯人に司直の手が及んだ!。

1964年、ミシシッピ州ネショバ郡で、有権者登録運動を推進していた人種平等会議(CORE)の活動家3人が、保安官に交通違反で逮捕された後、KKKに身柄を引き渡されリンチで殺害されるという事件が起きた。

この事件は映画『ミシシッピ・バーニング』のモデルとなった事件である。だがしかし、映画は肝腎なところで史実を誤って伝えた。否、公民権運動家が激怒するかたちに脚色したのである。

第一に、映画ではFBIが大活躍するが、これはまったく史実と反していた。公民権運動家やミシシッピ州の黒人は何度もFBIや司法省に保護を求めたのだが、拒否され続けた。その結果リンチ事件が起きたのである。

第二に、映画では、獅子奮闘するFBIが犯人を逮捕し起訴するのだが、これも史実とは異なっていた。3名を殺害したのにもかかわらず、有罪判決をうけたものはごくわずか、しかも殺人罪ではなく、公民権侵害で起訴され、六年以上の懲役に服したものはいない。

しかし、ミシシッピ州警察が、この度、この「悲劇」の解決に向かって大きな一歩を踏み出した。

三人をリンチしたKKKのリーダー、エドガー・レイ・キレン(Edgar Ray Killen)を殺人罪で逮捕、大陪審も起訴を決定したのである(なお60年代の捜査では、「陪審員全員が白人の大陪審」が審理し、不起訴処分に終わっていた)。

当時、ボランティアとして運動に参加していた黒人女性の大学生は、この事態の急転に関して、こう述べている。

「ありきたりのことだけど、こう叫んだわ、ついにやったのよ!って」。

さらに、リンチ事件が起きる日まで三人と行動を共にした公民権運動指導者のひとりで、現在も南部で活動に従事しているローレンス・ギヨーはこう述べる。

「生きてこの日を見てやる、そう祈っていきてきました。このために闘い続けてきたんですから。夢にさえみたくらいです。それがやっと現実になりました。これでミシシッピ州当局はこう断言したことになりますーーこの州において、二度と再び、政治的暗殺を許容することなどあってはならない」。

さらに同じく運動指導者のひとり、ヒーザー・トビアス・ブースはこう語る。

「これから得た教訓がありますかって?、それだったらこういうことです。正義を求める闘いはいまも続いている。団結すれば、歴史を変えることだってできる」。

ここにくるまで実に長い時間が経った。そのため、殺害された大学生の母親は80歳代になっている。それでも確かにミシシッピの歴史の大きな部分が書き換えられ、そうすることで歴史が変わった。

なお、キレン容疑者(左写真)は無罪を主張。さらに公判が行われた裁判所には、爆破予告さえあった。

だからこそ、もう一度このことばを胸に刻まねばならない。世界がこんなにも暗いからこそ。

「団結すれば、歴史を変えることだってできる」

ミシシッピ公民権運動を鼓舞したゴスペルにこんな節がある。

This little light of mine, I'm gonna let it shine, let it shine, let it shine, let it shine!

*遅れましたが、あけましておめでとうございます。今年も頑張ります。*

2005年01月14日

『バーバーショップ』がテレビシリーズに

公民権運動を揶揄しているとして問題となった映画「バーバーショップ」が、このたび、テレビシリーズとなることに決まった。

主演は、これまた公民権世代からは不評を買っているアイス・キューブ。

2005年02月04日

60年代を代表するスタジオ閉鎖

ロイター通信が伝えるところによると、60年代のサウンドを創りだしたスタジオの一つ、テネシー州マッスルショールズスタジオが閉鎖されることになった。

理由は、コンピュータとハードディスクを中心にするようになった音楽産業のなかで、生き残ることができなかったため。さらには、同スタジオで「生産」されたヒット曲のカタログが高く売れず、銀行が融資をしなかったのも響いたようだ。

2004年から、何とeBayでオークションに出ていた、この歴史的スタジオは、現在映画制作会社と落札価格について最終合意に達する直前にあるらしい。またベビーブーマーを狙った60年代回顧映画でもできるのだろうか?

2005年02月16日

P. Diddy 告訴される

20050216diddy.jpg
P. Diddyが、大手の出版会社 Random House から告訴された。

両者は自伝の出版で契約を結んでいたのだが、前金を支払っているのにも関わらず、一向にP. Diddyのペンが進まないらしい。

http://www.allhiphop.com/hiphopnews/

2005年03月15日

ビギーの命日に…

20050315biggie.jpg2月28日のことになるが、世界でもっともホットなヒップ・ホップ局、ニューヨークのHot 97で銃撃戦があった。

ロサンゼルスのサウスセントラル地区コンプトン(映画Menace II Societyがモデルとした黒人ゲトー)出身で、全米に名を馳せているギャング、Cripsのメンバー(Snoopy Doggy Doggもかつてはメンバーだった)だった50 Centが、ニューヨークのブルックリン・ベットフォード・スタイヴザント地区(スパイク・リーの数多くの映画のモデルとなっている地区)でドラッグ売人だった経験をもつthe Gameを、同局放送のインタービューで酷評した。それに怒ったthe GameのガードマンのひとりがHot 97に殴り込み。待ち受けていた50 Centのガードマンたちから銃撃される。

その後、今度は、50 Centのエージェントに銃弾が撃ち込まれる事件が起きた。

ニューヨーク地方紙はRap War Broke Out!などとセンセーショナルな見出しで大々的にこれを報道した。

すくなくとも過去10年間、ヒップホップシーンを追いかけているものならば、ここで思い出すことがあるだろう。コンプトン対ブルックリン、ともに若くて将来が期待されるラップシンガーの暴力的対立。7年前にラスベガスで殺害された2Pacと、8年前にロサンゼルスで殺害されたBiggie(Notorious B.I.G.)のあいだの対立である。

実際、多くの新聞がこの過去に言及していたし、それゆえに、両者のあいだの休戦と和解のために動いた牧師(アル・シャープトン)もいる。右の写真は、そのような努力あって、和解を宣言したときの2名の姿である。彼らは、この事件の「反省」として、ハーレムのコミュニティに寄付をすることにしたと『ニューヨーク・タイムス』は告げている。

この事件に限らず、ラップのアクトには「暴力」が何かと取りざたされている。昨年のSource Awardでは、Dr. Dreがステージ上で殴打されるという事件があったばかりでもある。確かにギャングスタ・ラップは暴力を賞揚しさえしている。2Pacが流行させたことばThugh Lifeは、敢えて日本語に訳すならば「極道」ということになるだろう。

しかし、カントリー・ウェスタンだって、「暴力」と無縁ではない(映画『ブルース・ブラザース』ーー古典ですね、しかしーーを観ればよくわかる)。ただ違うところは、ヒップホップの場合、あめりにも多くの若い「タレント」が、傷ついてしまったということだ。

50 Cent と the Game の「和解」は、Biggieの8周忌の日に行われた。偶然であっただろうが、「極道」の「先輩」を、この2名も忘れてはいなかった。とにもかくにも、今回の事件、地元のメディアは大騒ぎしたが、1名が怪我をしただけですんだということを喜びたい。

Biggie、Big Poppaは天国でどう思っているだろうか…。

(この問題に関しては、6月にきちんとまとめたかたちで「論文」にする予定であった。その素材であるために触れるのを避けていたが、この事件があまりに大きな余波を引き起こしただけに、今日こうして簡単に紹介することにした。「論文」は、でき次第、http://www.fujinaga.org/に掲載したい)。

2005年03月16日

ビギー殺害事件捜査終了

20050316biggie.jpg
Biggie Smalls (aka. Notorious B.I.G)の殺害に関する捜査の終了を、FBIが公式に発表した。

これで、Tupac殺害事件もBiggieのそれも、ともに「迷宮入り」してしまった。

アメリカの刑事事件は、突然捜査が再開されることがあるので、これによって将来を断定することはできない。が、それでも、彼らが「なぜ」死んだのか、は、とりあえず誰にもほんとうのところがわからなくなってしまった。

なお、Biggieの母親は、ロサンゼルス市警の警官で、同地のギャングと親密な関係を持っていたことが判明し刑事訴追されている人物を、Biggieの殺害に関与しているとして民事裁判にて補償を求めている。

2005年04月09日

41 Shots

ニューヨーク市長選の予備選挙が本格化してきた。共和党は現職のブルームバーグが指名されるのがまちがいないが、民主党の指名争いはかなり激しいものになりそうだ。

そんな折、1999年に、まったく武器は所有していなかったのにもかかわらず4名の警官から合計41発の弾丸を受けて、何の罪も犯していないのに殺害された「アマドウ・ディアロウ殺害事件」に対するある候補の発言が波紋を呼んでいる。

この事件は、ブルース・スプリングスティーンが、警官の暴力への抗議の意を込めて、"41 Shots"という曲にしてレコーディング、ギター1本の弾き語りでコンサートで歌っているものである。


このとき、4名の警官に対しては無罪の評決が下ったのだが、そのときの抗議は極めて激しいものだった。そのなか、Fernando Ferrerという名の政治家は、抗議を行っている市民のなかに参加し、銃撃を犯罪だと公言していた。

それが、今回の選挙戦を前にし、前の行動を否定、警官の行動は犯罪ではないと言い始めた。

それに怒ったのがニューヨーク在住のアル・シャープトン牧師。

ところが、フェラー候補の真意は、前回の予備選でシャープトンから支持されたことがかえって白人の反感を買い、結局選挙に敗北したというところにある、という。
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だからシャープトン牧師の抗議は、彼が待っていたものなのだ。

かかる政治家が候補として指名された場合、それはアメリカ社会がいかに保守化したのかを示している。

1999年でもかなり保守的だった。異常な警官の暴力が無罪になるのだから…。

2005年04月11日

Jay Z、 Outkast、Kayne Westの影響力

20050411jay-z.jpg『タイム』誌の最新号に発表された「世界で影響力をもつ100人」のなかに、ヒップホップ界から、Jay-Z, Oustkast, Kayne Westの3名が含まれていることが判明した。

ほかに黒人では、コンドリーザ・ライス国務長官のような政治家も選ばれているが、アル・シャープトン牧師のような社会活動家は選ばれていない。

もちろん小泉首相も選ばれていない。

つまり、世界第4位の経済大国の首相より、デフ・ジャム・レコーズ社長の方が、影響力があると見なされているのである。そのような判断、どこかわかるような気がする

2005年04月15日

ローザ・パークス、Outkastと和解

マーティン・ルーサー・キングを公民権指導者のひとりとして擡頭されることになったモントゴメリー・バス・ボイコット運動において、ボイコット実施に至る事件の中心にたった
人物ローザ・パークスは、1999年に発表されたOutkastの曲、"Rosa Parks"の歌詞に激怒し、同グループを相手取って民事裁判を起こしていた。

バスの後方座席に座らねばならないとされていた当時の人種隔離法と闘ったパークスの名前を冠した曲において、Outkastが、"Ah, ha, husu that fuss/ Everybody move to the back of the bus"と歌っていたからである。

和解の内容はこういうもの。ローザ・パークスの業績を讃えるCDやテレビ番組の制作、そのテレビ番組のDVD制作と頒布を行う教育プログラムに資金を提供するというもの。

ここに至るまでに実に長くかかった。

2005年08月30日

シュグ・ナイト、狙撃される

2Pacが在籍していたDeath Row Records (現在の名前はTha Row)の創設者でCEOのシュグ・ナイトが、MTVビデオアウォードの前日、Kayne Westも出席したパーティで狙撃された。6発の銃弾が放たれたが、足に怪我をしたのみで、命の別状はないらしい。

それにしてもシュグが絡んだ暴力事件はこれで何件目だろうか。

2Pacは、あのような死に様を迎えたのか、考えはこちらに向き、今夜は眠れそうにない。

出典:http://query.nytimes.com/mem/tnt.html?emc=tnt&tntget=2005/08/29/arts/29arts.html&tntemail0

2005年08月31日

シュグ・ナイト狙撃、自作自演か?

20050831suge_knight.jpgシュグ・ナイト狙撃の事件は、自作自演の可能性が出てきた。

彼が撃たれた現場からは、他にいかなる弾もみつからなかった、というのがその根拠。

他面、50 Cent が裏にいるという説、そして「ラップ抗争再燃」といった見出しで報じた新聞もある。

何はともあれ、シュグは、ベリー・ゴーディのような「ロール・モデル」にはなりえないことは確かだ。

2Pac も、スヌープも、Dr. Dre も、初期の Death Row を支えた人間は、シュグの力がなくとも、成功しただろう。シュグは、ヒップホップ・コミュニティに貢献しているよりもはるかに多くの害を与えている。

今日、ヒップホップを誤解している者が、アメリカにも日本にも多いのは、多くはシュッグの責任だ!

2005年09月05日

2Pac 狙撃事件の捜査再開

20050905tupac.jpg
連邦司法省筋の情報によると、1994年ニューヨーク市のスタジオで起きた 2Pac 狙撃事件の捜査が再開されることになった。

これまで、彼が殺害された1996年ラスヴェガスの事件に関しては、捜査が繰り返し行われてきている。また、誰が犯人であるかを独自に調査した著作も多い。

今回は、この96年の事件の発端となったとされている94年の事件が捜査の対象。目的は、多くの場所で語られているこの二つの事件に関連性があるかどうかであり、わけても、現在 The Game のマネージャーとなっているジミー・ヘンチメン・ロズモンドの役割に捜査の焦点があたることになるらしい。

これに対し、ロズモンドはこう答えている

「スタジオでの狙撃事件から11年、Tupacが死んでから9年も経つのに、いまだにそんなわけのわからないうわさ話のなかで私の名前があげてこようとは恥を知れと言いたい。だが、これまでだって、2つの事件の捜査には全面協力してきたし、実際にそのために金をつぎ込みさえしたんだ。真実が解明されるべきだと思ったから。Tupac は良い友達だったし。(ムショにいるやつらも含め)その辺をうろついている人間が、私の人格を汚し、ヒップホップ界の悪役にしようとしてる、これは悲しいことだね」。

なお、2Pac は、ジミー・ヘンチメンのことも、彼のラップのなかで酷評していた。ヘンチメンに嫌疑がかかったのも無理はない。

しかし 2Pac が亡くなってから9年も経過してしまった。時の経過とともに、真実が解明される確率は低くなる、これはまちがいない。長い時間が経ったからこそ、事実へ接近することが可能になったということもあるが、そのときこそ、われわれ歴史家が登場する時だ。

2005年09月06日

Mobilze Black Power Agaist Conservative Onslaught!

イライジャ・カミングスを初めとする黒人連邦議会連盟(Congressional Black Caucasus)のメンバーたち、さらにはヒップホップスターKayne Westがブッシュ政権の批判を公言し始めた。

わたしは、受動的なただ単なる被害者として黒人を描くことは避けてきた。彼ら彼女ら(そしてわたしたち)は歴史を創り、社会を創り、世界を創る主体だからだ。

ニューオーリンズが始まる世界創り、現在は詳報を収集中であるが、逐一ここ、もしくは

http://www.fujinaga.org/

で報告していく。

conservative onslaughtに対する反撃は、これから始まる。

2005年09月07日

カニエ・ウェストの発言、なぜか検閲される

ラップ・シンガー、カニエ・ウェストが行った、ハリケーン被害に対するブッシュ政権の行動批判が、アメリカのテレビネットワークの一部で検閲にあい、放送されなかった。

彼は、こう語った。

「ジョージ・ブッシュは黒人のことなんて考えちゃいない。だいたいメディアが俺たち黒人を描く姿だって大嫌いだ。黒人家族が歩いていたら、略奪者集団呼ばわり。白人家族だと、食べ物に困っていると言う。救済活動が始まるまで5日もかかったのは、被害者のほとんどが黒人だったからだ。こうやって批判をしている俺にしても、偽善者かもしれない。だって、テレビを観ていて辛くなるばかりだから、現実から目を逸らしてしまったんだ。それに、寄付をする前に買い物にも行った。そんな調子でも、いまマネージャーを通じて、俺の財布からいくら出せるか、その最大限の額がいくらになるのかを調べてもらっている。つまり、赤十字はいま最善を尽くしているだろう。その一方で、救助に使うべき人びとがいままた別の戦争を起こそうとしているんだ、その許可を貰っているんだ。俺たち黒人を撃ち殺す」。

この発言の最後の部分は、治安回復のために、政府が窃盗犯射殺命令を出したことに触れている。

それにしても、自らを「偽善者」だと認め、良心の呵責に苦しんでいるこの発言は、ひとのこころをえぐりとっている。その刃の鋭さに恐れをなしたものがいるのだろう。さもなければ、なぜこの発言が放送禁止になるのかわからない。

2005年09月08日

ヒップホップ・アメリカ、ハリケーン被害者救済に動く!

Jay-Z が、カニエ・ウェストの擁護に出た。

ビルボード誌の取材に答えた彼は、検閲を受けたカニエ・ウェストの発言に対し、「ウェストを100%支持する。ここはアメリカ、言いたいことは何だって言う権利がある、言論の自由は俺たちの権利だ」と述べた。

そしてウェストの発言に援護射撃。曰く「ほんと萎えてしまうよ、こんなことがアメリカで起きるなんて。『いったいなにが起きているんだ What's Going On?"』と思うだろ。なんで反応がこんなに鈍感なんだ。さっぱり理解できない」。

アメリカの大都市の通りに何日も死体が放置されている、まさに「萎えてnumbing」しまう事実だ。このようなことが続けば、きっと人間は無感動(numbing)になる。

だから、現在、彼は、何とパフ・ダディと、ハリケーン被害者のなかでも黒人被害者救済を目的とした音楽イヴェントを協議中だと言う。

これは、ある特定の人種を救済の対象としていることで、人によっては「偏狭だ」と批判するかもしれない。しかし、白人にコーポレート・アメリカがついていて、メディアがそれを支援しているなら、黒人にはヒップホップ・アメリカがついている、わたしはそう思いたい。きっとサッチモも喜んでいるだろう。

ところで最後になりましたが、ニューオーリンズの観光名所にもなっている、ジャズ好きなら一度は訪れる場所、Preservation Hallが救済基金を設立しました。少しでも、募金、よろしくお願いします。

http://www.preservationhall.com/2.0/

2005年09月14日

BETがハリケーン被害者支援へ

黒人を主な視聴者としている黒人経営のケーブル局Black Entertainment TV 通称 BET がハリケーン被害者救済のためのチャリティ番組を放送した。番組のタイトルは、「わたしたち自身を救おう」(Save Ourself Relief)。「自分たち」と言っているのは、この天災が人災に転じたために、被害者の多くが黒人になっているからである。

その番組には、約束どおり、Jay-Z と Sean "Diddy" Combs (aka. Puff Daddy)が登場し、番組のなかで100万ドルの小切手を赤十字に手渡した。メアリー・J・ブライジも出演、10カラットのダイアモンドを番組のなかでオークションし、それをすべて寄付。

この番組だけで1000万ドルの寄付が集まった。

番組が放送したのは、このようなチャリティだけではない。ヒップホップの精神そのまま、ストリートから発せられた政権批判が飛び出た。今度はQ-Tip。

彼はこう述べている。「俺たちは、メキシコ湾地域の再建のために基金を作ろうとしているんだ。もともとこの地域は、一級のウォーターフロント地区。だからディック・チェイニー副大統領がそこにいったときピンときたね。アイツには隠れた目的があるんだよ。こんなときに限って、困っている人を食い物にしてやろうというヤツが出てくるんだ。だから、俺たちヒップホップ・コミュニティのメンバーは、その地域の土地が人でに渡ってしまわないように、黒人が持っていたものが他の手に渡らないように、ベストを尽くさなくちゃいけない」。

2005年09月16日

ジャズのないニューオーリンズ

復興されたニューオーリンズからジャズが消えるかもしれない。

そのような危惧が聞こえ始めた。そう語ったのは、ジャズ一家といて有名なマルサリス家のジェイソン・マルサリス。彼はこう述べている

「ニューオーリンズの音楽とは、そこに生きている人びとのことを語ったものなんだ。これで古い家は取り壊さなくちゃならなくなってしまった。そうすると、水が消えてなくなると同時に、この地の文化も消えてなくなるかも知れない」。

ある文化史家は、ヒップホップの精神とはジャズの精神と同じだと規定している。ストリートの音、それこそ、これらの音楽文化の核にあるものだから。

もしニューオーリンズ再開発が、観光業と大規模商業施設誘致に終始すると、ジャズの文化を育んだ裏通りalleyが消えてしまう。そうなると、ニューオーリンズはもはやニューオーリンズではなくなる。

昨日より、ビジネス関係者を中心にニューオーリンズへの立ち入りが許可された。ビジネス先導で復興が行われると、まちがいなくalleyは消えていく。(ちなみに、ナット・ヘントフもそう言っている)。

そうなるのを避けるためには、復興がかつてその地に住んでいた人のため立案され実行に移されるように監視していくことだろう。

少なくとも、いまこの約200年間で初めて、この街から音楽、音が消えた。ネーギン市長ーー連邦政府の対応の遅さに苛立ち、退去命令を出す会見で泣き崩れた人物ーーは、来年のマルディ・グラは予定通り行いたいと語り、「凄い」awesomeジャスのパレードでその祭りを締め括ろうと声を上げている。

ジャズが生きるにはalleyが必要だ。いまはネーギン市長を信じたい。

2005年10月07日

ヒップ・ホップ界がネイション・オヴ・イスラームと共闘へ!

この10月15日は、ネイション・オヴ・イスラームのリーダー、ルイス・ファラカンが呼びかけで実施され、予測を上回る人びとを動員したMillion Man Marchの10周年になる。参加者を黒人男性に限定したことで、セクシズムとの批判を受けた運動ではあったが、今日から振り返ってみると、アフリカン・アメリカンのアクティヴィズムが見られた直近で最大のイベントになっている。

その10周年にあたり、the Millions More Movementが結成され、以前のMarchには批判的だったアンジェラ・デイヴィスらが幹部を務めるBlack Radical Congressでさえも運動への参加を訴えている(もちろん、それには、セクシズムを乗り越えたという事実があってのことではあるが)。

そして、さらには今度はヒップ・ホップ界が、行進参加への呼びかけを行った。契機は、そう、このブログでも伝えてきたハリケーン・カトリーナが引き起こした災害である。Jay-Zは、このブログで紹介した発言を実行に移したのだ!。

彼のほかに呼びかけに参加しているアーティストは、有名な人間のみ挙げて、以下の通り:

Reverend Run, Sean Diddy Combs , Damon Dash, Jermaine Dupri, Kanye West , Ludacris, LL Cool J, Queen Latifah, Common, Wyclef Jean, Missy Elliott , Foxy Brown, David Banner, Snoop Dogg, Ice T , Jim Jones, Juelz Santana and Jha Jha of the Diplomats, Master P, Juvenile, Erykah Badu, Questlove of The Roots, MC Lyte, Fab Five Freddy, Biz Markie, Kid Capri, Cassidy, The Wu Tang Clan , Xzibit, Tony Austin, Humpty Hump, the Ruff Ryders, dead prez, Russel Simmons.

2Pacとビギーが好きな人はご存じだろうが、前のMillion Man Marchのときは、まだウェストコーストとイーストコーストの「ラップ戦争」が起きる以前であり、彼ら二人をフューチャリングしているテイクが録られた。これは、ヒップ・ホップが好きな人間にとって、"We Are the World'でのマイケル・ジャクソンとスプリングスティーンの共演を凌ぐ価値をもつものである。

さあ、じっくり今回の呼びかけを行っている人をもう一度ご覧くだされ!。ウェストコーストのSnoopとイーストコーストのPuffyの名前がある!(詳細は、http://www.millionsmoremovement.com)

そしてまた、これは単なるエンターテイメントではなく、強烈なメッセージをもった政治運動である。彼ら二人が台上に立つのも興奮するだろうが、ワシントンD・Cのモールに集まる人びとの光景の方がもっと人びとを奮い立たせるだろう。15日、そこにどれだけの人びとが集まるであろうか。

多くの職員を解雇せざるをえない立場に追い込まれたネーギン市長の悔しさを忘れずにいよう。そのうえで、さあ、Keep On Moving, Move on Up!。

募金お願いします。
http://www.jrc.or.jp/sanka/help/news/817.html

2005年10月20日

ビギーの母、息子の生涯を語る

ビギー(aka. Notorious B.I.G)の母、Voletta Wallaceが、息子の生涯を伝記にした。タイトルは、Biggie: Voletta Wallace Remembers His Son。発売日は現地アメリカで11月1日

売り上げの一部は、すでにウォレスがビギーの死後に設立し、都市中央部でのギャング紛争解決、財政難に苦しむ公立学校の支援をおこなっている、クリストファー・ウォレス(ビギーの本名のこと)基金に寄付される。

またこの伝記に基づいて映画も制作されるらしい(果たして誰が、あの強烈なリリスト、ビギーの役をするだろうか?

2005年11月04日

「ブッシュが最も恐れた小学生」がテレビに毎週出演!

20051104mcgruder.jpg「ブッシュが最も恐れた小学生」が、今週末よりアメリカのケーブルテレビに毎週登場する。番組のタイトルは『ブーンドックス』。

日本でも翻訳出版されている「漫画」ゆえに、このタイトルをご存じの方もいるだろう。「ブッシュが最も恐れた小学生」は邦語訳のサブタイトルである。

これは、異常にませた黒人少年ヒューイ・フリーマンとその弟ライリーが繰り広げる、辛辣で愉快な政治的メッセージたっぷりの4コマ漫画。

ヒューイ君の名前は、ブラック・パンサー党の創始者でカリスマ的指導者だったヒューイ・ニュートンに由来し、彼の政治思想は小学生なのになぜかラディカル。60年代のゲトーではなく、21世紀の郊外の中流住宅地にすんでいながらアフロヘア。ライリー君はギャングスタラップが大好き。

作者はアメリカ黒人のアーロン・マグルーダー。シカゴのサウスサイド生まれで、メリーランド大学でアフリカン・アメリカンスタディーズを修めたインテリで、当初は黒人指導者になろうとしたらしい。しかし、「もしそれで成功したら、34歳までに殺されてしまう」と「悟り」、漫画という媒体で「活動」を始めた。当初は大学新聞、その後全米中の新聞に掲載されるようになった漫画だが、邦語訳が出ているとはいえ、そのあまりにもの過激さに掲載を中止したところもある。

さっそく第一回でヒューイ君はこう語るらしい。

「イエス・キリストは黒人だ、ロナルド・レーガンは悪魔、9・11なんて政府の嘘」。

もっともマグルーダーは、いにしえのパンサー党のイデオロギーや古典的ブラック・ナショナリズムだけを吹聴するのではない。かつて彼の漫画は、シカゴに住んでいる人気トークショーの司会者で恰幅の良い黒人女性オプラ・ウィンフィリーから抗議を受け、今回のテレビシリーズではそれが放送できないらしい。テレビ局が、絶大なる人気を誇るこのトークショーのホストを、恐れたのだ。そこで、マグルーダー曰く。

「いやさ、誰だってオプラは怖いよ、そいつが健康ならばね」。

ちなみに、このブログでも紹介したカニエ・ウェストの発言についてはこう語る。

「黒人のことなんて政府はかまっていない、そんなこと、黒人でわかっていなかったら、もうとっくにトラブルに巻き込まれているよ。これで、白人もやっとわかってきただろうね、ジョージ・ブッシュは、フツーの白人のことも気になんかしていなくて、いっそのこと死ねばいいと思っている、てことが」。

さて、ヒューイ君の毒舌は何を引き起こしていくれるだろう。

なお、こんな恐ろしい漫画を配信するのは、何とソニー・ピクチャーズ。

2005年12月12日

リチャード・プライアー死去

20051212pryor.jpg1960年代後半から1980年代にかけて活躍した黒人のコメディアン、リチャード・プライアーが死去した。享年65。またひとり、公民権時代を生きた世代の黒人著名人が亡くなった。

ここのブログで、ビル・コスビーのヒップ・ホップに対する批判を紹介したことがある。プライアーは、コスビーとは異なり、人種主義を赤裸々に描くことで人気を博したコメディアンである。1974年に発売された彼のコメディを録音したレコードのタイトルは、コスビーが嫌うことばを使ったもの、『あのニガーはクレイジーだ』である。

そんな彼はこんなことを言っていた。

最初のブラックスプロイテーション・ムービーが現れた頃:
「映画に行って、黒人のヒーローが観たくてたまんないんだ。そのうち、テレビの画面にも黒人のヒーローが映し出されると思うよ。あっ、ほら、空を見ろ。黒いカラスがいる。いや、まちがえた、コウモリだ。いやいや、ありゃ、スーパー・ニガーだ。高いビルもひとっ飛び、臓物(チトリン)の入ったボールも一口で丸呑み」

常日頃、黒人ゲトーでみかける人びとのことをコメディで語り、テレビや映画で演じ、彼は議論の的になっていた。そんな彼はこんなことも言っている。

「真実っていうものは笑いを誘うものなんだ。だけど、人びとはそんな真実を恐れているんだ。この世界でいちばん悪いものは嘘。だから、芸術とは真実を語る能力のことを指す。特に自己了解についての真実を語る能力のことをね」。

ここまで書いて、なぜだか2Pacのことが頭に浮かんだ。
そして、マルコムXのことが…。

2006年01月16日

今日はキング・ホリデイです

今日、1月第3月曜日は、アメリカ黒人にとって特別な日である。マーティン・ルーサー・キングの誕生日(1月15日)を記念し、この日は、連邦政府の定めた休日となっている。

キングの誕生日を休日にしようとする運動は、1980年代に頂点を迎えた。スティービー・ワンダーがその運動のデモに加わり逮捕されたこともあった。多くの日本人が歌詞を理解していないように思われるが、彼の名曲、"Happy Birthday"は、その逮捕の時の怒りを語り、キング牧師への感謝の気持ちを歌い上げたものである。

休日になったのはいいものの、しかし、ここのところこの日が近づく度に、キングならびにキング家に対するネガティヴな報道が続いている。例えば…

『ニューヨーク・タイムス』は、キングの墓、研究施設、ミュージアムの複合施設、Marthin Luther King Center for Nonviolent Social Change(写真は、その施設にある公園、墓を中心にした池のまわりを黒人の子供たちが闊歩する姿)を売却しようとする動き、ならびにその動きに対して、キングの子孫のあいだでの対立が激化していることを伝えている。

『ワシントン・ポスト』は、キング家が名演説「私には夢がある」の知的所有権を保持しているがゆえに、演説の全部を多くの人びとが聞くことができない、と伝えている。(このことに問題があることは確かだが、彼の演説は、上記のセンターに行くとたった10ドルで売られているし、ネットで購入することもできる。学校が買えば、教材としての使用は自由だ。『ワシントン・ポスト』は、キングがもっとも愛した「もっとも恵まれていない人」がキングの財産管理人の貪欲さの犠牲になっている、と仄めかしているが、正直なところ、私にはこの論理がわからない。10ドルの教材を学校が買うことができないならば、それは根本的には教育をないがしろにしている行政の問題である)。

さらに、地元アトランタの『アトランタ・ジャーナル=コンスティチューション』は、キングの母親が所有物であった聖書が、本日、ネットオークションにかけられることになっている、と報道している。

『ワシントン・ポスト』が典型的にみられるように、これらすべてが、キングの子供たちの生き方を批判したものだ。上に書いたように、なかにはさっぱり論理がわからないものがあるが、多くのものは、残念ながら、正鵠を射ている。キングの子供たちは、キングほど「立派」な人物ではない。

しかし、そもそもマーティン・ルーサー・キングという人物自体が、人類の歴史上稀にみるカリスマと政治的嗅覚とをもった人物であった。彼と比較されては、しかも偶像化され英雄化された彼と比較されては、ほとんどのものが色褪せる。

雑音に惑わされないように、この日の意味を確認しよう。

キング博士、Happy Birthday!

I just never understood
How a man who died for good
Could not have a day that would
Be set aside for his recognition
Because it should never be
Just because some cannot see
The dream as clear as he
that they should make it become an illusion
And we all know everything
That he stood for time will bring
For in peace our hearts will sing
Thanks to Martin Luther King

Happy birthday to you
Happy birthday to you
Happy birthday
     
Happy birthday to you
Happy birthday to you
Happy birthday
(From Stevie Wonder, "Happy Birthday")
Stevie Wonder - Hotter Than July - Happy Birthday

この歌は、一般に流布しているイメージと違って、友達や家族に捧げた歌ではないんです。キング牧師の誕生日を休日にする運動のテーマソングなのです。

2006年01月20日

ウィルソン・ピケット

ウィルソン・ピケットが、アメリカ時間19日、ヴァージニア州の病院で亡くなりました。享年64。

まさか連載エッセイ「リズム・アンド・ブルーズの政治学」で彼に触れる前に彼が逝去するとは、同エッセイ寄稿時には思っておりませんでした。ショックです。

ご冥福をお祈りします。

2006年01月22日

ハリー・ベラフォンテ、ブッシュ政権を酷評

ベテランの黒人シンガー、ハリー・ベラフォンテが、ブッシュ政権を酷評。彼は、ブッシュ政権をナチになぞらえ、こう述べた。

「国家保安省という名称の装いを新たにしたゲシュタポが、こっそりとスパイ活動をして回っている暗い時代に突入してしまった。市民の立憲上の権利が停止状態にあるのだ」。

さらには続けてこう述べた。

ブッシュは「かなり怪しい経緯を経て権力を獲得し(2000年大統領選挙のことーー筆者注)、この国の国民に嘘八百を並べ、国民を過った道に導き、過った情報を伝え、数十万人にのぼる我々の子供たちを、我々を攻撃したことのない国への侵略のために送りだした」。

ブッシュはこう言われても仕方がないだろう。2000年大統領選挙の結果は、その後の調査が明らかにしているところによると、ゴアが勝利者。さらにイラク戦争開戦前のいわゆる「大量殺戮兵器」の情報に関しては、それが間違ったものであると公式に認めている。

そんなブッシュを、ベラフォンテは、「世界でもっとも凶悪なテロリスト」と呼んでいる。

ベラフォンテがここまで怒るのも無理はない。彼は、公民権運動の最盛期、学生非暴力調整委員会やブラック・パンサー党など、急進派を熱心に支援した。一級のエンターテイナーであった彼は、相当の額の資金援助を行っている。

しかし、その公民権運動急進派は、政府から破壊されてしまった。そのときに行われたのが、市民のプライバシーの権利を蹂躙して行われたスパイ工作である。そして、9・11テロ後に制定された「愛国者法」は、このスパイ工作を合法化してしまったのだ。

ベラフォンテは、だから、十分承知している。この政権がいかに危険なのかを。

2006年01月23日

旧モータウン本社が解体〜変わりゆくデトロイト

20060123detroit1968年から1972年までモータウンの本社として使用されていたデトロイト市にあるビルが解体された。2月5日に同市で開催されるスーパー・ボウルのための再開発事業のひとつとして、この街を活気づけた場所が消えゆくことになったのだ。(ベリー・ゴーディ元社長は、この事業を支持しているという)。

アメリカの行事では最大級のものの一つ、スーパー・ボウルを誘致するにあたり、デトロイト市は、その経済効果を3億ドルと見積もっている。この試合の観戦、そしてそれに伴うお祭り騒ぎのためにやってくる人は10万人を予想。

しかし、そもそもこの街の産業の根幹だった自動車産業は、未だ不況に苦しんでいる。今月も、フォード自動車は、同市にある複数の工場の閉鎖と3万人の解雇を発表したばかりである。同市の失業率は6.8%、ニューオリンズに次いで全米都市ワースト2位であるのも、無理はない。

このように産業の基盤が70年代以後完全に破壊されてしまった街には、10万人が訪れようとも、ホテルが十分にない。有名なホテルチェーンでダウンタウンにあるものは、リッツ・カールトンだけである。

多くの観光客は、したがって、郊外にあるホテルに泊まり、ゲームに併せて「8マイル・ロード」を越えて都市中央部にやって来る、ゲームが終わるとすぐに去ることになる。そのための道を空けるために、モータウン旧本社ビルは解体された。

これでデトロイトはかつての光を取り戻せるのだろうか?

2006年02月02日

ラッセル・シモンズ、ニュージャージー市から顕彰される

デフ・ジャム・レコードの創設者のラッセル・シモンズが、ニューアーク市から表彰されることになった。

2004年大統領選挙の際、シモンズは、反ブッシュ票の掘り起こしのために、Hip-Hop Summit Action Network (HSAN)という組織を結成した。彼の意に反してブッシュは当選したが、HSANはその後も社会福祉の分野で活動を続け、今回はその功績が認められるかたちとなった。

しかしながら、幾分この表彰には政治的思惑が見え隠れし、それは今日のブラック・アメリカの政治的行き詰まりを物語っているように思える。

ニューアーク市は、過去30年以上にわたり、黒人のシャープ・ジェイムスが市長を務めてきた。彼が市政で頭角を現したのは1967年の暴動の直後。現在に至るまでに、同市の経済的基盤は大混乱に陥った。企業が次から次へと「逃げて」いったのである。この情況は、そう、まさにニューアーク暴動の直後に暴動の炎に包まれたデトロイトとまったく同じである。そして、黒人の市長が、市の社会経済的環境の荒廃を止められなかったのも同じだ。

もちろん経済環境の悪化はジェイムス市長に一義的責任があるものではない。ところが、これまたデトロイトと同じく、彼の市政は汚職が絶えたことがない。にもかわわらず、彼はいまだ市庁舎にいる。強烈な利益誘導型のボス政治体勢を築き、反対派を徹底的に潰してきたからだ。市長が州議会議員を兼ねる同地の特殊な政治構造もまた、ボス支配を支えている。

そのような彼が初めて本格的対抗馬を迎えたのが2002年の選挙だった。イェール大学のMBAを持つ黒人青年実業家がボスに挑み、30年あまりも無風選挙だった同地の市長選が沸いた。

このとき、旧来の公民権世代はジェイムス市長を支持、年が若くなるにつれて対抗馬の支持率が高くなる傾向があった。今年、同じ構図で「再戦」が行われる。

今回、シモンズは福祉活動を讃えられて表彰されることになったのだが、もともとHSANは政治組織である。つまり、前回の選挙で見られた黒人青年層のある種の離反を食い止めるためのジェイムス陣営の選挙戦略とも考えられるのだ。

ほんの15年ほど前は、黒人候補が白人現職に挑むという光景が都市選挙で多く見られた構図だった。ところが、近年は、黒人対黒人、黒人対ラティーノ、黒人・ラティーノ連合対白人、白人・黒人連合対ラティーノという具合に、都市政治は複雑さを極めている。

これはブラック・アメリカの変貌を物語るとともに、70年代・80年代に流行していた「アイデンティティの政治学」がもはや退潮ーーすくなくともかつてほど単純ではないーーにあることを示している。

その潮の流れのなかに、ヒップ・ホップ界のサクセスストーリーの主人公ラッセル・シモンズは、謀ってか謀らずか、身を投じることになった。

2006年02月08日

グラミー特別賞

3人の黒人アーティストがグラミー名誉賞を受賞した。

ソプラノ歌手のジェシー・ノーマン、リチャード・プライアー、ロバート・ジョンソンがその3人。このなかでも驚いたのがロバート・ジョンソンの受賞である。

なぜならば、彼が殺害されたのは1938年、日本の時代区分でいうと「戦前」の話。

なぜ今年になったのかというと、昨年、彼に息子が存在しているということが立証されたからである。初期のブルーズアーティストの生涯については、いまだ不明、否、もはや不明の部分が多々あり、この事例はそのなかのひとつである。

いずれにせよ、やっと"king of Delta blues"の業績が「公認」されることになったのだが、あまりにもその道のりは長かった。

2006年02月09日

Fugees再結成

かねてから噂が絶えなかったFugeesの再結成が実現した。

1997年、"The Score"のメガヒットの直後、突如として同バンドは解散。その中核メンバー、Lauryn Hill、Wyclef Jean、Prasの3人が一堂に会すのは、2005年BET Award以来初めて。

コンサート会場となったハリウッドの駐車場には、8000人が詰めかけ、噂を聞いて駆けつけた車の列は12ブロックに達したという。

BET Award以来、再結成の噂はいつもあったが、いま現在ツアーや新作発表の予定はないという。

さて、この話を聞いた後、スーパー・ボウルのローリング・ストーンズなどを観ていてこう思った。伝説的バンドはそのまま「伝説」のなかにいた方がいいのかも知れない。

2007年05月10日

ヒップホップと「黒人」大統領候補

20070510snoop.jpg既に各種のメディアが報じている通り、2008年大統領選挙では、人種的には「黒人」に属しているバラック・オバマ上院議員が民主党の最有力候補として浮上してきている。ここで私は「黒人」、と、カッコつきで彼の人種的アイデンティティを記したが、簡単にその理由を説明しよう。

 彼の父親はケニア人、母親はヨーロッパ系アメリカ人である。その後、父親はケニアに帰国し、オバマはハワイで育った。ハワイと言えば、アジア系の人口比率も高く、彼が育ったのは「黒人ゲトー」ではない。さらには、その後の彼はハーヴァード大学ロースクールに進学し、シカゴ大学ロースクールで教鞭を執った。つまりある意味においてエスタブリシュメントの一員である。もっとも、シカゴ時代に、極めて献身的法律家として市民運動を支援したというキャリアはもっているものの、彼のキャリアはそれまでの黒人政治家と大きく異なる。そんな彼は、ヒップホップ・アーティストの語彙を批判することで、ヒップホップ界の重鎮、ラッセル・シモンズと対立することになった。

奇妙なことに、その論争の発端は、白人のトークショー・ホスト、ドン・アイムズが放った、おぞましい発言にある。アイムスは、多くが黒人女性のプレイヤーからなるルトガース大学のバスケットボールチームを形容し、「ちりちりの毛をした売女の軍団」"kinky-haired bunch of ho"と語った。これがネットワークテレビに流れてしまい、公民権運動家・黒人政治家の猛烈な抗議のなか、数々のネットワークテレビが彼との契約を破棄することになった。

これより以前、バスケットボールチーム関係で言えば、シカゴ・ブルズが全盛だった1990年代中頃、ネットワークテレビのスポーツ解説者が「黒人はバスケットボールが得意だ、なぜなら腰の位置が高い、そうしたのも棉畑で良い労働者になるように白人主人が奴隷を「交配」したからだ」といった発言を行い、同じく喧々囂々の抗議のなか解雇されたということがある。

しかし、このとき、そのスポーツ解説者の発言を聞き、「あぁ、そうだね、黒人は腰が高いね」などと言う「黒人」はいなかった。ところがこの度は、バラック・オバマがドン・アイムスの意見には一理がある、という発言を行ったのである。

オバマは、「「ちりちりの毛をした売女の軍団」という発言を非難するには、同じ言語を使用しているヒップホップの歌詞を非難しなくてはいけない」と語っている。さらに彼はこう言う。

「黒人たち自信が認めなくてはなりません、「売女」"ho"という言葉を聞いたのはこれが初めてのことではないということを。ラジオのスイッチを入れてください。同じ言語を使っている歌の数は夥しいし、そのような歌が家の中、学校の教室、iPodのなかで流れるのを許しているではないですか」。

このようなオバマの発言は、当然、ヒップホップ世代の批判の対象になった(このヒップホップ世代対公民権世代の社会認識に関しては、ついこのほど、筆者は最初の試論を著した)。デフ・ジャム・レーベルの創始者、ラッセル・シモンズが言うには、「そもそもそのような言葉を発しなくてはならない環境の改善を考えるのが政治家の仕事ではないか、ラップの歌詞を批判するのはやめてくれ」となる。

さらには、"ho"という言葉を連呼することでは、おそらく悪名高いラッパーのひとり、スヌープ・ドッグはこう言う。

「全然背景が違うじゃないか、教育やスポーツで成功し、高いステージに昇った女学生のことを俺たちがそう呼んでいるのではない。俺らは街角でやばいことばかりやっている奴らのことを"ho"と呼んでいるんだ。ニガを見ると金をぶんどることしか考えないバカ女のことを言っているんだ」。

ここでわたしは「ニガ」という言葉を使った。これは原文では"n.-a"と記されている。さて、かかる婉曲語法を使って何が起きるだろうか…。

その後、シモンズは、オバマへの批判を和らげ、いわゆる「Nから始まる言葉」や"ho"といった言葉を、レコード会社が自主的に規制し、ラジオ局は「ピー」という音で消すように提言している。これでこの言葉が消えるだろうか。この言葉が極めて攻撃的な侮蔑的言葉として、その毒牙が「ピー」で消えるのだろうか?。わたしはそう思えない。

既発表の論文で引用したばかりだが、その昔、2Pacはこう断言した。

「ニガーNiggerとは首にロープを巻かれて木から吊される奴ことだ。俺はニガNigga。ニガの首には純金のネックレスがぶらさがっている」。

2Pacの大胆な姿が恋しい。

2007年05月22日

ラップの検閲、アゲイン


クリントンが大統領に初当選した1992年の大統領選挙、ヒップホップの歌詞が、人種的・性的に不快な表現を使っているとして選挙戦で決して小さくない問題となった(この模様については右の著書が詳しい)。先のエントリーでも述べたが、近日、その問題がまたかまびすしくなってきている。事の発端は、白人DJが黒人を侮辱する発言を行ったことが原因であったのだが、いつの間にか問題は「ブーメラン」のように飛んできて、黒人ラッパー、特にギャングスタ系が非難・批判の対象となってしまっている。

要は、"nigga"、"ho"、"bitich"という言葉を使うなということだが、それに関して、50セントがこの度反論を行った。決して論理一貫したものではないが、それでもこれはゲトーの市民の感情をある面で物語ったいるように思えるので少し紹介しよう。

彼はこう述べている。

いま起きていることは悲しいことだね。みんなこの国がいま戦争を行っているということを忘れちまっているんじゃないか?。ヒップホップのような音楽での言葉遣いはやたらと問題にして、それが暴力を助長しているなんて言っているが、暴力的な内容の動画には何も言わないじゃないか。だからどうしてもこう考えてしまうんだよ、企業を攻撃することよりも個人を攻撃することの方がずっと簡単なんでそうしているんだって。だから、パラマウントやコロムビアのような映画会社を相手にするんじゃなくて、個人のヒップホップ・アーティストを追っかけ回してているんだってね。

さらに彼はこう続ける。

音楽っていうのは写し絵なんだ、ヒップホップは俺たちが育った壮絶な環境を写し出しているんだ。何ならあんたら赤色を使わずにアメリカの国旗を書いてみなよ、そんなのできないだろ。保守的なアメリカ人のなかには、その育ちやライフスタイルが原因で、ヒップホップが表現しようとしていることがわからない奴らがいる。俺たちが生きてきたリアリティとは無縁だったんでね。それはわかるよ。それで、何で俺がいつも攻撃されるのかもわかる。挑撥的なところがない内容で、ヒップホップの世界で成功するのは難しいもんな。

少しシニカルに聞こえるだろうが、ダブルスタンダードはどこの世界にも存在するだろう。それを非難するのはたやすい。

それでもなお、50セントの発言は、奇妙に、そしてそれでもしっかり正鵠を射たものに私には聞こえる。

2007年05月25日

「ヒップホップ誕生の地」が消える!?

20070526west_bronx.jpg文化」というアモルファスな領域に属する音楽のジャンルの起源はどこにあるのかが定かでないものが多い。たとえば、ジャズはいつどこで生まれたか?。ブルーズはどこで生まれたか?。これに答えられるものはほとんどいないだろう。いたとしても、それはひとつの「仮説」に過ぎない。

ところがヒップホップは違う。「記録」がしっかりと残る「現代」に生まれたこの文化様式は、ニューヨーク市ウェストブロンクス、セジウィック・アベニュー1520番地で、1973年に生まれた。同地のコミュニティセンターで開催された「ダンパ」(そのときのビラは右下を参照)、DJ. Kool Hercという人物が創ったサウンドが、ヒップホップの原点である(左の写真がその場所の入り口)。

いま、その場所が変貌しようとしている。そのことは、ある意味において好ましいものなのだが、別の面では、今日の「ゲトー」で何が起きているのかを示す興味深い事例となっている(←欧米か!、典型的な欧文脈失礼!)。

20070526kool_herc.jpgニューヨーク州では、減税と担保の一部を州政府が負担し、賃貸住宅の家賃を低く抑える政策、ミッチェル・ラマ・プログラムというものがあった。セジウィック・アヴェニュー1520番地の住宅の所有者はそのプログラムに参加していて、住民は低賃金で働く労働者(そのなかでラティーノの占める割合は高い、ここは決して「黒人ゲトー」ではない)。しかし、近年住宅市場が活況になったため、このプログラム(担保の負担は不況下においては所有者にとっても利得のあるものだった)との契約を切る住宅所有者が増加している。『ニューヨーク・タイムズ』が報じるところによると、同市でこのプログラムに参加していた住宅は1990年には6万6千戸あったのに、それが現在は4万まで減少しているらしい。

そのような環境下、今年の2月、セジウィック・アヴェニュー1520番地の所有者が、プログラムとの契約を切ると通告した。これは、具体的には、家賃を上げるということを意味する。家賃をあげるためには、もちろん、この住宅はリノベートされなくてはならないし、所有者もその意思をもっているらしい。つまり、ウェストブロンクスにも、いわゆる「ジェントリフィケーション」の波が押し寄せてきたのである。

そこで、住民たちは、いまや世界大に拡がったヒップホップ文化の発祥の地として、この地を「史跡」に指定し、そうすうすることで現在の住宅のキャラクター(貧困者が一所懸命いきる街のアパート)を保持しようとした。ヒップホップは、アフリカン・アメリカン、ラティーノたちが、貧しさと格闘するなかで生まれた文化である。その文化の徴を残すには、住宅の外観だけでなく、質も「保存」しなくちゃいけない。それが住民たちの主張だ。

しかし、環境保護や史跡保護に詳しい人間の意見では、このようなことは前例がないらしい。やはり、史跡の保存とは概観のみを指すというのだ。

でも、NHKの番組「世界遺産の旅」によると、オーストリア=ハンガリー帝国の女帝、マリア・テレジアが建設を命じたシューブルン宮殿は、世界遺産としての指定を受けているとともに、そのなかの質も「保存」されているらしい。この宮殿の一部は、第1次世界大戦後の帝国の解体と社会党政権の誕生によって、国を真に支えている労働者に開放され、いまもそのときに住み始めた労働者階級の人びとの子孫が住んでいる。

1973年8月11日、DJ. Kool Herc は、妹が学校に行くための服を買ってやるために、パーティを開催した。それがヒップホップの誕生の瞬間。この文化は、一所懸命生きる人びととコミュニティが創りだしたものである。ニューヨーク市やニューヨーク州に、その気があれば、このセジウィック・アヴェニュー1520番地の住宅は、ヒップホップを誕生させた環境とともに「保存」することが可能ではないのだろうか。

2007年06月04日

ヒップホップ界の政治的意見の多様さを紹介します

さて、下の記事では、50セントの意見を紹介しながら、「奇妙に、そしてそれでもしっかり正鵠を射たものに私には聞こえる」と述べた。しかし、何も彼の声がヒップホップ界を象徴しているわけではない。他のさまざまな世界と同じく、この世界にも多様さが存在する。今日は、そのような意見のひとつを紹介したい。N-word の使用に対して、「今こそヒップホップ界が変わるときである」と主張しているものがいる。

Master P は、ウェブサイト AllHIpHop.com に、50セントの見解に触発されて、それを論駁する記事を書いた。そこで、彼は自分の意見が50セントのものとどう違うのかを、極めて明瞭に書き記している。

・自分は社会問題の写し絵ではなく、問題の一部なのだ、それを認める。
・息子には自分の失敗を繰り返して欲しくない。自分よりも善良な人物になり、より素晴らしい仕事をしてもらいったい。そう言っているからこそ、息子はいま勉学に励んでいる、それを応援したい。
・自分のゴールとは、継承できる資産を蓄え、不動産をもつことがどれだけ重要なのか、それを我らの同胞に教育することにある。
・ほんもののエンターテイナーであるからこそ、自分のボスは、レコード会社の重役ではなく、神なのである。だから、いまは問題の一部であることを止め、解決策のひとつになろうとしているのだ。エンターテイメント関係のメディアが欲しているのは、ネガティヴなニュース。それに惑わされていたら負けることになる。

こう語る彼は、シャキール・オニール、ウィル・スミス、ラッセル・シモンズ、クィーン・ラティファ、チャールズ・バークレー、ビヨンセなどに声をかけ、積極的な方向でエンターテイメント界を動員することを考えている、と言う。ギャングスタ・ラッパーに現在の行状を改めろとは言わない、それが彼ら彼女らの飯の種だから。しかし、他にも途があるのだというのを示したい、そう彼は主張している。NAACPなども動員しつつ、現在のポップカルチャーの問題を議論しようというのだ。

このような議論の対立は、黒人史では有名な「デュボイス対ワシントン論争」、はたまた「デュボイス対マーカス・ガーヴィ論争」をも思わせる。そういう意味において、これは歴史を通じて流れる豊かな知的対話である。

そして、アメリカ時間で6月3日の日曜日、デトロイトでこの問題を論じる大会を、NAACPは開催することになっている。

2007年06月06日

モータウン・サウンドには汚い言葉はなかった?

&uot20060607sharpton.jpgヒップ・ホップの歌詞が人種的偏見を助長する言葉を用いることがアメリカで大きな問題になってきていることは、これまでも書いてきた。〈人種〉が関係した社会問題が起きる度に登場する人物が、この問題でも活動を始めている。2004年の大統領選挙に落選すると目されつつも立候補した人物で、National Action Network の会長、アル・シャープトン牧師がその人である。

シャープトンが牧師を務めている教会があるニューヨークを皮切りに、NAN は、「品行方正なヒップホップ促進運動」Decency in Hip Hop Campaign を4月から開始し、この度、NAACPと共同でデトロイトで討論会を開催した。同地の観光名所のひとつ、モータウン・サウンドを「生産」したスタジオ、ヒッツヴィルUSA を訪れて、彼はこう語った。

「1960年代といえば、ジェイムス・ブラウンとモータウンの時代です。しかし、彼らは N-Word を使ったり、女性の人格を貶めるようなことはしなかった」。

さて、果たしてそうでであろうか。いろいろと解釈はあるだろうが、二つほど紹介しよう。

まず、モータウン・サウンドを代表(70年代だが)する名曲、マーヴィン・ゲイの「レッツ・ゲット・イット・オン」 Marvin Gaye - Let's Get It On - Let's Get It On

この曲は、当時としては露骨すぎる性的表現が問題となった。メイクラブの歌とも捉えられるが、「女性を性の対象としてしか見ていない」という批判がされても仕方がない。

さらには、ジェイムス・ブラウンから「イッツ・ア・マンズ・ワールド」James Brown - The Godfather of Soul, 1933-2006 (Live) - It's a Man's World

この曲は、「メイル・ショーヴィニズム」の表現として批判され、その批判の先頭に立ったのは、かの「ソウルの女王」「アメリカの和田アキ子」、アレサ・フランクリンである。「あんた、もう一回よく自分がやろうとしていること考えなよ!」とシャウトしているソウルの名曲 "Think"Aretha Franklin - Aretha Now - Thinkが、その曲だ。

つまり、シャープトンは、60年代の歴史を政治的に利用しているとしか私には判断できない。史実は違うことを語っているのだから。さらに、個人的趣味の問題ではあるが、「品行方正なヒップホップ」というもの自体、そもそもまったくクールに聞こえない。「ディストーションのかかっていないヘヴィメタルギター」のようなものだ、と言えば、私が感じている異和感がよく(?)伝えられるだろうか。

もちろん私もヒップホップの語彙に社会的問題があること、それは認める。しかし、シャープトン型の運動がポジティヴな変化に繋がるとは思えないのだ。私にはマスターPの努力の方がよほど真摯に見える。

なお、シャープトンがデトロイトで会合を開いたのと同じ日、デトロイト市議会議員クワメ・ケニヤッタと、ヒップホップグループ Infinity Solutionz がタウン・ミーティングを開催していた。こちらの方は、ラップで歌われている現状を変える方法を討議するものだった、と、『デトロイト・ニュース』紙が伝えている。大切なのはこのような努力だ、と私は思う。

2007年06月23日

マーティン・ルーサー・キング記念聖堂建設基金コンサート

現在、ワシントンD・Cでは、リンカーン記念聖堂とジェファソン記念聖堂とのあいだに、マーティン・ルーサー・キング記念聖堂の建設が進行中である。

20070623mlk.jpg2008年に完成が予定されているこのプロジェクトの総予算は1億ドル、ワシントンD・Cのモールと呼ばれる国立の公園地域に、アフリカン・アメリカンを顕彰する碑が建つのは、もちろんこれが初めてになる。

リンカーンとジェファソンのあいだに立つ、キングの像、その立地はアメリカの歴史を考えると、とても素晴らしい場所だ。キング博士がアメリカの政治思想のなかで果たした場所として、ここより適したところはない。

他方、AP通信が報じるところによると、その予算の大半は、寄付によってまかなわれるようである。

そこで立ち上がったのが、黒人のセレブ(日本語のセレブではなく英語の意味で解釈してください)たち…。

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2007年06月27日

デス・ロー・レコーズの終焉

20070627deathrowrecords.jpgデス・ロー・レコーズのCEO、マリオン・“シュグ”・ナイトのマリブ・ビーチに面したプライベートビーチも備えた770平方メートルの豪邸が、620万ドルの下限価格でオークションにかけられた。

2Pac、スヌープ、ドクター・ドレーら、ウェストサイドのギャングスタ・ラップ──世代的には Old Skool に属する私はやはりどこか照れてしまって「ウエサィのラップ」とは表現できない──の象徴であったこのレコード会社は、2006年4月に破産宣告がなされており、負債総額は1億ドルにのぼっている。破産宣告のために法廷に出された書類によると、シュグ・ナイト個人の資産は5万ドルしかないらしい。

シュグのこの経済的情況の真偽はさておき、1990年代後半はもっとも勢いのあるレーベルであったこのレコード会社を、かかる情況に追い込んだのは、数々の刑事事件。そのなかには、未だ未解決の2Pac、ノートーリアスB.I.G.殺害事件も含まれる。シュグ自身も、ジャーメイン・デュプリーを脅迫するなど、直接刑事犯罪に関わった。(これらは、Randall Sullivan の LAbyrinth に詳述されている)

過日、歴史的シンボルとしてのモータウン・レコーズの政治的利用に関して批判的論評を行ったが、デス・ロー・レコーズの行きついた場所を考えると、やはりベリー・ゴーディが築いた業績は光輝いている。シュグの現状を考えると、そしてそれまでの過程を考えると、悲しくなってくる。

2007年07月24日

デトロイト暴動から40年

アメリカが7月23日を向かえた。この日は、正確な数字が残っているものとしては、当時アメリカ最大の人種暴動(43人死亡、7000人逮捕、92年のロサンゼルス暴動のみがこの死亡者数を上回っている)となり、公民権運動の時代の終焉をつげる序曲となったデトロイト暴動がおきてちょうど40年目にあたる。わたしが住んでいるここ日本もとても暑い日だったが、暴動がおきたその日のデトロイトも華氏90度を超える酷暑だったという。

その日から、デトロイトは大きく変化した。この街の活力の源泉そのものであった自動車産業は、みなさんご存じのとおり衰退。暴動がおきた67年当時でさえ、自動車工場はより労働力の安価な地域に移り初めており、デトロイト市内にはクライスラーの工場しかなかった。クライスラーが投資ファンドに買収されたいま、かつてこの街を支えた工場すべてが一度はこの地を去ったことになる。

さらにはまた、この街の名と一緒に世界中に知れ渡ることになったモータウン。モータウン・サウンドを量産したスタジオ、Hitsville U.S.A. は実は暴動の中心地となった12番街・クラアモント通りの交差点からわずか徒歩で5分ほどのところにある。そのサウンドの中心地も、73年にはハリウッドのサンセット大通りに移転し、90年代に歴史的建造物として補修改装されるまで、「見棄てられたインナー・シティ」のなかにぽつりと位置することになった。

この73年は、また、デトロイトで初めて黒人が市長に当選した年でもある。つまり、デトロイトにおける黒人政治力の伸張は、同市の社会的・経済的インフラの崩壊と同時に進行したのだ。では現在はどうであろう…。

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2007年07月25日

デトロイト暴動、40年後、その2

20070724prayer_for_riot.jpg暴動から40年目、デトロイトではその惨事を悼むために祈りを捧げる行事が、暴動の起点となった場所で行われた。

その模様を、『デトロイト・フリー・プレス』紙は、「これまでのものとは異なるもの」と報道している。

というのも、行政区画上はデトロイト市とは異なっている郊外の都市の首長がこの祈りに参加したからだ。デトロイト都市圏郊外からの人々の参加と言えば、それは、この地域では「黒人と白人がともに」ということを意味する。インナーシティの人口は約90%が黒人、郊外といえばそのまったく反対の事情が存在している。

かつてデトロイト市郊外の街、ディアボーンの市長、オーヴィル・ハバードは、北部にしては珍しい名だたる人種隔離論者だった。それゆえ彼の名前は、インナー・シティの黒人には人種主義と同義である。しかし、現市長はデトロイト市と友好関係を保つために、この祈りの行事に参加した。その祈りにあたり、デトロイト市長のクワメ・キルパトリックはこう語った。

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2Pac 遺産管財団体が差し止め請求を行う

デス・ローのCEO、シュグ・ナイトの財産が競売に付されているのは先に報じたとおりだ。この事実が物語っているように、デス・ローの資産は、破産宣告にともなって処分される過程に入っている。

問題はその資産のなかにはまだ未公開の2Pacの録音があるということ。彼の作品は、死後も次から次へと発売されている。そのなかには、音源も悪く、質も決して高くないものがある。つまり、彼が生きていたならば、発売されることを望まないはずのものが、既に市場に出回っているのだ。

そこで、7月20日、彼の母で、元ブラック・パンサー党の活動家、アフェニ・シャクールを長とするTupac Shakur Estateが、2Pacの録音の競売ーーつまり安価な切り売りーーをストップさせるため、彼の録音をデス・ローのカタログから除外することをもとめて、裁判所に差し止め請求を行った。

彼のファンとしては、新しいものがもはや聴けなくなるのは寂しいことだ。しかし、差し止め請求が下されれば、それが彼を弔う最善の方法かもしれない。

2007年10月23日

インディアン・アメリカンが州知事に当選

この先週の土曜日、ニューオーリンズのあるルイジアナ州で知事選挙が行われた。その勝者は州知事としてはアメリカ史上初となるインディアン・アメリカン。通例、アメリカと言い、続けてインディアンというと同地の先住民を指す。一時期、その呼称は勘違いしたコロンブスの無知を表すものであり、アメリカ先住民を侮辱するという一方的主張を行うものがいたが、実のところ、インディアンはアメリカ先住民自らが使う自称にもなっており、侮蔑的意味合いはないと考えるのが一般的である。

しかし、そのインディアンは「インド系」の意味だった。ここのところ、エンジニアリングや医療、IT技術において世界的プレゼンスを増大しているあの南アジアの大国のことである。

ところで、若い頃のデンゼル・ワシントンが主演した映画に『ミシシッピ・マサラ』というとても興味深いものがある。設定は、ミシシッピ、同地で生まれ育った黒人男性がインド人の女性と恋に落ちるという話だ。その女性、インド人はインド人であってもアフリカ出身のインド人、帝国イギリスの政策によって19世紀に現在のウガンダに移住し、ウガンダの軍事政権が「インド人追放政策」をとったためにアメリカに移民してきたという家系の出身である。さらには舞台の設定はミシシッピ、それは「人種差別がもっとも厳しいところ」を表象する。

当然、女性の両親は、両者の交際に反対どころか驚愕した。人種的偏見が厳しいこの世界で生きていけるのかという女性の父親に対し、デンゼル・ワシントンは、きっぱりこう応える。「あんた何言っているんだ、俺の生まれ育った場所はミシシッピ」だ。結局、その父親は、むかし政変があるまではアフリカ人の友達が多くいたことなどを思い出し、人間同士の「愛」を再発見する。「マサラ」とは、ご存じの方も多いだろうが、インドの香辛料。この映画では、人間同士のあいだの愛(それは性愛も含む)が抗しがたい魅力をもつことを表象している。

話をもとに戻して、ルイジアナの選挙のこと…

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2007年10月29日

モータウン50周年、その悲哀

20071029hitsville_at_501週ほどここに掲載するのが遅れてしまったが、先週末、デトロイトでは、モータウンのガラ・コンサートが開催された。ここのところ毎年開催されているようだが、今年は少し趣きが違う。なぜならば、今年は、モータウンの前身タムラ・レーベルが創設されて50周年にあたり、ガラも50周年と銘打って行われたからだ。

これにあわせて、かつてのモータウン本社、現在のモータウン歴史博物館があるウェスト・グランド・ブールヴァードは、創業社長でモータウンサウンドを創りあげた人物の名前に因んでベリー・ゴーディ・ストリートと名づけられた。

この通りをモータウン博物館を過ぎて西に500メートルほど行けば、マーティン・ルーサーキング公演という小さな公園があり、その公園の角を北に行けばローザ・パークス・ブールヴァードが始まる。つまり、ここには50年代から60年代を突き抜けた黒人社会の息吹が記念されることになったのである。(ちなみに、通りの名前変更は、マーサ・リーヴスの提案によるらしい。わたしは、恥ずかしいことに、彼女がデトロイト市議会議員になっている!とは知っていなかった)。

さすがに今回のガラには「大物」が集まったようだ。なかでも、モータウン・ファンにとって嬉しいのが、ブライアンとエディーのホーランド兄弟が参加したということ。ホーランド兄弟とラモント・ドジャーのHDHトリオこそ、初期のモータウンサウンド(軽妙なタンバリン、ジェイムス・ジェイマソンのテンポが良くてトリッキーなベース、タムの4連頭打ちに、打楽器のように叩かれるピアノ等々)を創りだした人物だが、ゴーディ社長が暴利を貪っているということで裁判となり、両者の間柄は長いあいだ冷え込んでいた(これは右の本が詳しい)。

しかし、何か寂しいところがある。というのも、世界中に中継された25周年のときに較べると、さすがにモータウンサウンドも輝きが鈍くなったか、と思わざるを得ないからだ。というのも、

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2007年11月01日

どこかで見たような謝罪 〜 連邦司法省

大統領選挙を来年に控え、選挙の手続きに関する法整備が進んでいる。その理由は、もちろん、2000年のフロリダ、2004年のインディアナで起きた投票資格をめぐる論争・政争をいかに解決するかにあるが、現在そのインディアナ州を含めて拡がりつつあるものが、投票を行うに際して、写真入りのIDカードの提示を義務づけるとする動きであり、連邦司法省もそれを推している。

これに対し、NAACPを初めとする公民権団体は反対の意思を表明している。というのも、彼らの主張によると、自動車の所有率が低い等々、この法律が可決されると、人口比に不釣り合い率で黒人が対象にされるからだ。人種には触れていない立法が人種差別的に機能する、その意味において、この立法はかつてのジム・クロウ諸方を思わせるというのである。

そのような論争が繰り広げられている最中にあり、「黒人が不釣り合いに法の犠牲者になるわけではない」と、司法省投票権部部長、ジョン・K・タナーが主張した。これに続いたのがとんでもない理由付け。「なぜならば、どうせ黒人は早く死ぬのではないですか」。

当然、黒人議員を初め、野党民主党議員は激怒し、連邦議会でタナーを詰問し、彼は謝罪を行った。そこで彼が言ったことば、

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2007年11月04日

世にも恐ろしいひどい話 〜 続々編

サブプライムに関してまた新しい記事を読んだ。それは、「昔はレッドライニング、いまはサブプライム」と、このブログでわたしが論じたのと同じことを紹介しつつ、ひとつの具体例を挙げている。人種と住宅というと決まって名前がでる街、デトロイトの話。

住宅抵当開示法を利用したサブプライムローンの実態の調査が進むにつれ、デトロイト近郊ではこんなことが起きていた。二つの場所、それは「エイト・マイル・ロード」で隔てられているだけ。この「エイト・マイル・ロード」、地理的にはデトロイト市と郊外の境界を示すのだが、その社会的意味は、〈黒人が住んでいるところ(デトロイト市)〉と〈白人が住んでいるところ(郊外)〉の境界を示す。(エミネム主演の映画『エイト・マイル』は、したがって、彼が境界線上で生きてきたという隠喩である ── Dr. Dreは彼のことを「黒人として育った白人」と言っていた)。

そのエイト・マイル・ロードを挟んで二つのコミュニティがある。その様相を記すと

1.プリマス
   97%が白人
   所得中央値:51000ドル

2.エイト・マイル・ロードを挟んですぐ東
   97%が黒人
   所得中央値:49000ドル

1のコミュニティのサブプライム利用者:17%
2のコミュニティのサブプライム利用者:70%

さて、2000ドルの所得の違いがこのような差異を生むだろうか。この結果を生んだのは、人種別人口構成であると結論してどこかおかしいところがあるだろうか?。このニュースを報じる『ニューヨーク・タイムズ』は、黒人のサブプライム利用者は白人の2.3倍、ラティーノは2倍に達するという。

ここで急いで付け加えなくてはならないのは、黒人とラティーノに経済観念がないから、こうなったのではない。なぜかというと、

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2007年11月11日

2Pacシャクール芸術センター破壊事件容疑者逮捕

日本でも大々的に報道されたルイジアナ州の「ジェナ・シックス」事件を初め、ここのところアメリカでは黒人を対象にした「ヘイト・クライム」の増加が伝えられている。連邦司法省長官人事、さらには同省高官のセンシティヴィティを欠く発言も相俟って、司法当局の態度が厳しく問われ、今月6日には、アル・シャープトンやマーティン・ルーサー・キング3世などの公民権運動家──このような事件では「お馴染み」の面々──が、16日に、ワシントンD・Cでヘイト・クライムへの取締・捜査の徹底を要求する「巨大なデモ」を慣行するという宣言を発表した。

そのような緊張した脈絡において、アトランタにある2Pacシャクール芸術センターの外装が破壊され、「ジーナ・シックス」Jena Six 事件と同じく、この革命家の息子であるラッパーの銅像のクビに(ジム・クロウ時代のリンチを暗示する)「首つり縄」nooseがかけらえる事件が起きた。左のビデオにある通り、この事件は、したがって、当初「ヘイト・クライム」の嫌疑で捜査が進められた。

しかし、とんだ結末になってしまった。

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2008年04月14日

アフェニ・シャクール(2Pacのママ)もメンフィスで

キング博士が暗殺された日に講演していました。

こちら、からお聴きください。いきなり音が出ることはないので、安心してクリックしてください。

Davey D. がポストしているので、後ろの音ーー G Unit の Hate It or Love It 50 Cent - The Massacre - Hate It or Love It (G-Unit Remix)ーー もいかしてます。このサウンドが、しかし、南部キリスト教会の雰囲気にあうとは意外だった。

2008年09月27日

ぶっちゃけ言ってーーTell Like It Is

思い切って翻訳すれば「ぶっちゃけ言って」Tell Like It Isという名曲がある。

こちらに来て、アーロン・ネヴィルが60年代に歌った"Tell Like It Is"はプロテストソングだということを知った。作詞作曲は別人だが(Lee Diamond, George Davis)彼が歌ったときに、この曲は1960年代の「時代精神」を映し出すものになったのだ。その歌詞はこうなっている。

Tell It Like It Is

If you want something to play with
Go and find yourself a toy
Baby my time is too expensive
And I`m not a little boy
If you are serious
Don`t play with my heart
It makes me furious
But if you want me to love you
Then a baby I will, girl you know that I will
Tell it like it is
Don`t be ashamed to let your conscience be your guide
But I know deep down inside me
I believe you love me, forget your foolish pride
Life is too short to have sorrow
You may be here today and gone tomorrow
You might as well get what you want
So go on and live, baby go on and live
Tell it like it is
I`m nothing to play with
Go and find yourself a toy
But I... Tell it like it is
My time is too expensive and I`m not your little boy

これは単なるラブソングだ。ところが、"you"をアメリカ白人に置き換えると、「自由だ自由だということばをもて遊ぶ play with」ことに対する抗議となる。

Tell like it is!とは、ちなみに、黒人教会では頻繁に聞こえてくる「合いの手」だ。

今回の大統領選挙、人種やジェンダーといった本来は「テクスト」であるものが「サブテクスト」になっていることは、6月のアメリカ学会年次大会で報告した通りだ。その解釈をこちらでディナーの席でちょっと話してみると、「そうすることでより危険なことになっている」という意見を頂いた。

第一回ディベートまであと30分。会場は、公民権運動の激戦地のひとつミシシッピ大学だ。なかには"Tell like it is!"と声をかけたくなっているものもいると思う。ちなみに、デトロイト・ニュース紙によると、ミシガン州の最新の世論調査ではついにオバマのリードが10%まで拡がった。これまで奇人変人のマケインは何度も「ギャンブル」をしかけてきたが、今回の選挙戦中止ギャンブルには誰もひかからなかったようだ。

2008年10月06日

有権者登録運動について(3) ── Operation Registration, Get-Out-the-Vote

20081005_voter_regstration_small_jpgこのサイト運営開始となった最初の記事を見て欲しい。わたしは、その頃、2000年の大統領選挙の際にフロリダ州で大規模な投票妨害が起きたことに対する抗議を記している。

その後の2004年もまた今度は北部のオハイオ州で投票妨害が確認された。それを契機に、投票前に有権者の確認を厳格化することを通じて、選挙の実施をスムーズにしようという理由で選挙法の改正が行われていった。

その代表例的手法が、2005年のジョージア州の州憲法改正を皮切りに次々と可決されていった、投票の際に写真付きIDの提出を求めるというものである。

さて、読者のなかで写真付きIDをもっている者がどれだけいるだろうか?

さらに、ミシガン州の改正された選挙法律は、IDの住所は有権者登録を行った住所と同じでなくてはならない。

もっとも、ミシガン州では、IDをもっていないものでも、有権者当人と同一人物であることの誓約書affidavitを書けば投票をできることになっている。ところが、下の州政府が配布している案内書をみてもらいたい。affidavitに関する説明にはゴシック体の強調も何も施されていなく、5頁目の冒頭にさりげなく書かれているにすぎない。

ところで大統領選挙は11月4日に実施される。この日付をカレンダーで見ていただきたい。何か日本の選挙との違いに気づかれないだろうか?。

そう、この日は平日である。したがって投票するためには、午後8時まで行われている投票場に仕事が終わるとすぐに直行しなくてはならない。

さらにまた、アメリカでは投票所の案内が送付されてくることなどなく、どこで投票すれば良いのかの情報を得るのは市民の「自己責任」とされている。そして、これは日本でも同じだが、投票場を間違えると投票はできない。

こう聞かされるともううんざりする人も少なくはないであろう。アメリカで投票することは日本よりも増して面倒くさい、そう言っても過言ではないであろう。

だからこそ、2大政党は、有権者の動員に必死になるのである。

ひとつ下の記事に、オバマがミシガン州を確保したと書いたが、それはこのような事情の強い影響を受けての判断だ。共和党はミシガン州から運動員の大半を引き揚げた。アメリカの選挙では政党が投票場までの交通手段を提供(この国はおそろしく公共交通機関が脆弱である、ほとんどのところが車がなくては生活できない)することは決して少なくない。運動員が少ないということは、したがって、きわめて不利な状況を生み得る。

さて、今日の記事冒頭の写真は、ミシガン大学のキャンパスの中心で有権者登録を行っている民主党運動員の姿である。わたしは有権者登録を呼びかけているマケイン支持者にはついぞあわなかった。

ちなみに、各州で有権者登録の厳格化に乗り出したのは共和党である。アメリカでIDをもっていない人の推計は11%。この数は決して少なくはない。なぜならば、民主主義の原則は、だれもが一票を行使できるというところにあり、この原則だけは譲ることが許されないからだ。アメリカの人口全体に占める黒人の比率が12%。この12%の権利が否定されることで、どんな暗い歴史が作られたのかを考えてみれば、この問題の大きさもわかるであろう。またここで、奴隷解放によっていったんは投票権を得た黒人男性の権利が剥奪されるとき、「黒人は投票してはならない」という法律が可決されたのではなく、婉曲的表現や暴力によってそうされたのだという歴史的経緯も忘れてはならない。

マケインもペイリンもアメリカ市民のこと、ごく普通のアメリカ人のことを考えていると言っているが、果たして投票率の低下を望んでいる政党の候補がそのようなことを言えるだろうか。

昨日、デトロイトのコボ・アリーナでは、Jay-Zが、オバマ応援のために有権者登録を促すコンサートを開き、1万人を動員した。明日、わたしの隣町にオバマ本人が遊説にやってくる。モータウンの故郷、黒人の率が約9割にのぼるデトロイトでラッパーが支援に乗り出せば、製造業の不振に苦しむミシガン州南西部イプスランティ(ミシガン州の失業率は8%強にのぼり、全米平均の3%も高い)の労働者の動員にブルース・スプリングスティーンがやって来る。

そして明日はミシガン州の有権者登録受け付け締切日である。初の「黒人候補」が挑む大統領選挙まで1か月を切った。

次回は、なぜマケインはミシガン州から撤退したのかを、アメリカ大統領選挙の仕組みを解説しつつ解説したい。

2008年10月07日

「オバマ後援会」主催のコンサート(1)

20081006_springsteen_rally_small.jpg隣町のイースタン・ミシガン大学の野球場で開催されたオバマ支援コンサートに行ってきた。来る2月にはスーパーボウルのハーフタイムショウに出演することが決まっているブルース・スプリングスティーンが出演、しかも入場料は無料だ。

右の写真(クリックすると拡大)は、その最寄りのバス停に張られていたビラである。そうこの日、ミシガン州は有権者登録受付の締切を迎えた。もちろんビラを貼っているのはオバマ陣営なのだが、このブログでも何度も述べてきたが、わたしはほんとうにマケインがこのような努力をしているのを見たことがないのである。

スプリングスティーンは黒人アーティストではないではないか、と思われるふしの方もいらっしゃるかも知れないが、わたしは実は高校生の頃より彼の大ファンである。彼は実はブルージーなのだ。かつての白人の強烈なフォーク・ロック・シンガーはブルージーである。公民権運動のテーマソング、「ウィー・シャル・オーヴァーカム」はそのような伝統が息づく、テネシー州のハイランダー・フォークスクールで生まれた。

労働者階級の奥底に深く入っていけば、黒と白の境界は消えていく。

さて、スプリングスティーン曰く。「俺の敵はどうやら退散したそうだが、まだ勝利を当て込んではならない、後はどれだけの人間が選挙当日に票を投じるかが問題だ」。

さて人種の観点から見たこのコンサートの報告はこれから少しずつ行っていく。次にこのコンサートに触れるときには、まずは観客層について思ったことを綴りたい。

2008年10月12日

バトルグラウンドからの報告(8) ── ジャッキー・ロビンソンとバラク・オバマ

英語で play hardball という慣用句がある。文字通りだと、「硬式で試合をする」だが、これは「激しくやりあう」という意を持つ。

日本であまりにも一般化したスポーツだけにわかり難いが、野球は危険なスポーツである。いわゆるアメリカの4大球技(ベースボール、フットボール、バスケットボール、アイスホッケー)のなかで考えても危ない部類に入るだろう。よく「野球をやっていた」と言う人がいるが、そのなかで「公式野球」をやった人はあまり多くはいないはずだ。何はともあれ、石のようなボールが当たると痛い。

そして野球というスポーツは、痛いときに痛いやつはたいていひとりだ。

体が接触するプレーだと、相手に怪我をさせるようなことをした場合、そのプレーの激しさで自分も傷つく危険がある。だからハードなプレーには自ずとブレーキが働く。しかし、野球はちがう。ピッチャーが遠くからバッターの頭を狙えば良い。

1947年、ブルックリン・ドジャースのプレーヤーとして、黒人として初めてのメジャーリーガーになったジャッキー・ロビンソンは、その選手生命のなかで、何度も文字通り生命を狙われた。黒人が「でしゃばる」ことを良く思わない投手から、フラッシュボールどころか、頭めがけて何度も何度も何度もボールを投げられたのである。

現在なら、そんなことがあれば、乱闘試合になる。しかし、ジャッキー・ロビンソンは、ひたすら耐えた。そもそもロビンソンを「抜擢」してくれたドジャースのオーナ−、ブランチ・リッキーとの約束が「反撃しないこと」「かっとならないこと」であったし、当時の時代状況からして、反撃したりすれば、ロビンソンは非難の嵐に巻き込まれたであろう。だから耐えに耐えに耐えに耐えた。それは己の生命すらも危うくすることだった。

さて、サラ・ペイリンが、暴言を吐いてたまらない。ところが、それに対しオバマが反撃すると、上のような公告を流される。

白人に対して黒人は手をあげてはいけない。これはロビンソンが生きていた時代のアメリカの掟だった。

白人女性のことを黒人は語ってはいけない。これは奴隷解放後からいままで生きているアメリカの掟のようだ。一度のペイリンを(正当に)批判し上のような公告を流されて以後、彼はひたすら耐えている。

おそらくリスクは多いのにも関わらず、政治家としての業績は凡庸なペイリンを起用したのは、共和党の戦略的思考による。「「黒人男性」が「白人女性を襲っている」」という構図をコード化した形で描くことにより、サブリミナルな人種主義に訴えかけようとしたのだ。もう一度、リンクを貼った動画が観てほしい。ここに描かれている「絵」は何だろう。

このような「きわどい」選挙戦に立っているオバマの支持者のなかでは、最近は「聡明なすばらしい人だとはわかっていたが、最近になってすごく勇敢 brave な人物なんだというのがわかってきた、普通の人には耐えられないことを耐えている」という人も現れている。

わたしもそう思う。

「黒人初めて」となった人物は、ジャッキー・ロビンソンのような苦しみをみなが経験してきた。いまその溜飲がおろされようとしているのだ。「黒人初のアメリカ合州国大統領」、これが誕生すれば、以後、この国からはロビンソンの苦しみは消える。

ここに「黒人団結票」が存在する理由がある。喧伝されている「ポスト人種」の時代が来るとすれば、それは2008年11月5日だ。

2008年10月16日

バトルグラウンドからの報告(12) ── 「オバマ後援会」主催のコンサート(2)

20081015_obama_rally_small.jpg1980年の大統領選挙、ミシガン州はその後のアメリカの選挙政治を特徴付けるひとつの「政治集団」を生み出した。レーガン・デモクラットがそれである。

1936年の選挙以来、アメリカの民主党は二つの大きな支柱をもっていた。それは黒人を始めとするマイノリティと労働組合である。ところが、1960年代以後、民主党がマイノリティの権利を擁護する姿勢を強めるなか、白人労働者階級は自分が支持してきた党に「見捨てられた」と感じ始めていった。

それはある意味では自然なことである。経済全体が拡大しない限り、マイノリティの生活が向上することは、彼ら彼女らと階層を接していたものたち(具体的に言うと、白人労働者階級)の間での経済競争の激烈化、いわゆる「パイの分け前争い」につながってしまう。その実、1970年代以後、アメリカ経済は長期の不況に見舞われ、経済の拡大どころではなかったのだ。

この時代を象徴するのが、日本製の自動車の「洪水」のようなアメリカ市場への進出である。ミシガン州は、フォード、GM、クライスラーが本社を抱える場所。この州はかつては「民主主義の兵器廟」(自家用車生産は戦時には簡単に軍用車両生産に切り替えることができる)と呼ばれた世界の自動車工場である。

この時代(第二次大戦期から1970年代まで)の経済体制を、ケインズ主義経済とも言えば、フォーディズム体制とも呼ぶ。フォーディズムの中核には労働組合が存在した。そのなかでも最大の組合が全国自動車労働組合(United Automobile Workers Union、UAW)であり、その本部はミシガン州デトロイトにある。この時期、日本でも、デトロイト発のニュースでアメリカの労働者がトヨタの自動車をハンマーでたたき壊す画像がよく伝えられたし、ビンセント・チンという名前の台湾人が日本人に「間違えられて」殺害されるという悲惨な事件も起きた。

この体制は、白人労働者階級(日本ではより穏便に響く「勤労者世帯」という言葉がなぜか好まれる)とマイノリティが利害の一致を見ている限り維持されるものだった。ところが、1980年、ケインズ主義的な経済政策、いわゆる「大きな政府」を解体することを中核としたロナルド・レーガンが提唱した政策が白人労働者階級に訴求したのである。実際のところ、英語ではただ working class と言うことの方が多いが、通例、ただ単に working class と呼んだ場合、そこに黒人は入らない。これは、正確には「黒人と利害が対立する階級の白人」を意味する「コード化された言葉」coded word のひとつである。そして日本人に向けられた敵意は、もちろん、黒人にも向けられたのだ。

しばしばデトロイト郊外のマコム郡は「レーガン・デモクラットのふるさと」と呼ばれる。

さて、日本でも広く報道された民主党予備選挙、特にその後半になってバラク・オバマは労働者階級に人気がないということが言われてきた。このときに白人労働者階級の支持を得ていたのは、もちろん、ヒラリー・クリントンである。したがって、11月の本選挙での問題は、このクリントン支持層がどう動くかにあった。

ミシガン州でオバマの支持率が高い。これは、では、何を意味するのであろうか?

白人労働者階級から広く支持を集め始めていると見なすのが自然であろう。ここに至ってのオバマへの追い風は、気がついてみれば業界こぞって悪徳高利貸し商法に加担していた未曾有の金融危機から吹いていることも確かである。規制緩和、規制緩和と、政府は小さければ小さいほど良いと唱えてきた政治のツケなのだ。これを何とかするためには、それこそ「根本的な改革」fundamental change が必要である。政治を考える思考自体を変えなくてはならないのだ。

さて、左上の写真は、ブルース・スプリングスティーンが駆けつけたオバマ支援集会の観衆の姿である(画像クリックで拡大)。小さな球場を埋め尽くしたその人びとは白人労働者階級だ。この集会のチケットには所属する組合の名前を記す欄があったが、そこに何らかの名前を書いた人はきっと多い。

1980年代以後の共和党の優勢は白人労働者階級とマイノリティとを敵対させることによって維持されてきた。今回、それが揺らごうとしている。少なくともミシガン州では大きく揺らいでいる。

スプリングスティーンは、下の YouTube ビデオで観られるように、「敵は退散したらしいが、まだ安心するには早いぜ」と語るとともに、これ以後、オハイオ州のコロンバス、ヤングスタウン、ペンシルヴァニア州フィラデルフィアでの集会に参加すると述べている。そう、これまでこのブログを訪問された方はご存じのように、これらはバトルグラウンドだ。

ちなみに彼は一貫して民主党支持であり、2004年にもジョン・ケリーの選挙応援を行った。きわめて「アメリカ的」に思える彼は、しかし、偏狭な「愛国心」のシンボルとして利用されることがある。それを最初に行ったのは、Born in the U.S.A.が大ヒットしていた1980年のロナルド・レーガンである。レーガンの政治利用を聞いた彼は、その後に行ったコンサート会場で、自分の立場を明確にするため、1970年代の鉄鋼不況を綴った名曲、"The River"を、アメリカ労働総同盟・産別会議会長に捧げると語って歌った。

ミシガン州での流れが何らかの意味を持つとすれば、それはこれらの州も「雪崩を打って」民主党陣営に加わるかもしれないということであろう。「レーガン・デモクラットのふるさと」が「本来のふるさと」の民主党に帰ってきたのだから。

本日の朝の時点でのCNNの予測では、マケインが勝利するには、まだ接戦となっている諸州で全勝するしかないらしい。予測は所詮予測だが、わたしがここで述べてきたのはこのような単なる数字上の計算ではなく、バトルグラウンドで感じた観測である。

よく言われているように、バラク・オバマは、これまでの「黒人政治家」とは異なる。ジェシー・ジャクソンにせよ、アル・シャープトンにせよ、かつて大統領予備選に出馬した黒人政治家は、選挙に勝つことではなく、選挙運動を通じて黒人のおかれている環境に対する関心を高めることが目的だった。ところがオバマの場合は、あくまでも勝利が目的である。ミシガン州での選挙戦は、同州の歴史上最大の選挙運動だったと報じられているが、それは勝利を目的にするオバマの選挙運動全体のなかで、この州が占める政治的意義が大きかったからだ(このカッコの部分は、討論会の報道を観たあとに書き足している、オバマはアメリカの経済的苦境を語るのに「デトロイト」という換喩法を用いた)。

さらに、南部ヴァージニア州やノース・キャロライナ州もオバマが逆転しそうになっている。ここはラストベルトと呼ばれる中西部や北東部とは違った意味合いを持つが、その解説は次回に譲りたい。そろそろ大統領候補討論会の時間だ。

2008年10月17日

バトルグラウンドからの報告(13) ── 怒らない「黒人政治家」

マケインは「時には怒りを見せ、また別のときには毅然として」振る舞い、オバマは、マケインからの攻撃をかわすにあたって「時には穏やかに、また別のときには参ったなという表情」をみせた。これは本日の『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面に掲載された昨日の大統領候補討論会に関する記事である。

黒人男性が白人女性を攻撃してはいけない、それはタブーを破ったことになる、という切り口から、「黒人初」の人物が追わなくてはならない重責についてつい最近ここで解説してみた。オバマは、感情的になって挑撥するマケインの手口には乗らなかった。黒人は怒ってはならないのである。

抗議運動型の「黒人指導者」、たとえばジェシー・ジャクソンやアル・シャープトンなら事情は別だろう。彼らの選挙戦は勝つことではなく、怒りを表現することに意義があり、その存在は決して軽んじてはならない。彼らのような存在はこれからも必要であろう。ところがオバマは違う。

マジョリティが白人のアメリカにあって、「黒人政治家」が必ず行わなくてはならないことは、「わたしは信頼できる人物である」ということがまず一つ。そしてそれにも勝るとも劣らず重要なのは「わたしは決してあなたに「復讐」はしない」ということを言外に伝えること。

誤解を恐れずに思い切って日本の文脈に置き直して考えてみよう。将来、在日コリアンの首相候補が出てきたとする。その候補が大日本帝国時代の日本のアジア政策をことあるごとに非難したとしよう。それでも結構主張は前向きだ。こんなことを言ったとしよう。「日本はかつての悲劇を乗り越えて、アジアの新しい時代を切り開かなくてはならない」。でも必ずこう言う。「あのときの犯罪行為をわたしは決して忘れません」と怒り猛って語る。さて、市民からこの候補は高い人気を得ることができるだろうか?

20世紀初頭の国際外交や世界秩序が帝国主義的拡張主義を必要としていた、だから日本がやらなければ逆にやられていた。これはいわゆる「自由主義史観」が唱える常套句だ。そしてこのような史観を述べるものはこう言うことがある。「日本がやったことは西欧が奴隷貿易を行ったようなこととはまったく違う、だいたい台湾や韓国には帝国大学を建設したのではないか」。

さて、奴隷制を行った人びとは逃げ場がない。そしてその実、この「犯罪行為」の「言い訳」をするのはたいへんなことだ。奴隷制を正当化する論理がないわけではない。たとえば野蛮なアフリカ人を文明化した、という主張がそうだ。ところが、このような論陣を張る人間は「ナチの亜流」と見なされるのが通常である。ほんとうに奴隷制を行った人びとは逃げ場がないのだ。

そのような歴史的経緯があるなかで「怒り猛った黒人」に票を投じるのは簡単なことではない。もちろん簡単に行える開明的な人物も多いが、大統領選挙を支配するほどそのような開明的な人物は多くはない。

つまり、《過去の歴史的悲劇に罪障感をもちつつもどこかで自分を防御したい人物》が固めた「疑念」と「防御」の腕組みをそっと優しく解いてやらなくてはならないのだ。

おそらくオバマはそれに成功したに違いない。今朝発表されたCNNの予測では、本日投票が行われた場合、オバマが選挙戦を制するらしい。ここまでどちらか一方に選挙戦が傾いたのは今回は初めてだ。

もちろん、これは「本日投票すれば」という仮定条件がついた予測である。まだ投票日まで19日ある。その間、たとえばオサマ・ビン・ラディンをついにアメリカ軍が逮捕したとしよう。このような劇的な事件が起きた場合、一気に形勢が逆転する可能性がある。

『デトロイト・フリー・プレス』紙は、昨日の討論会を報道するにあたり、「討論会第3ラウンド、両者強打の応酬」という大見出しを掲げた。わたしはこれとは違った見方をした。オバマは強打を繰り出していない。マケインの強打をかわしただけだ。

その姿は「時には蝶のように舞い、また別のときにはハチのように刺す」、ミシガン州のどこかにいまは静かに住んでいるあの人物、「もっともグレートなやつ」、モハメド・アリの姿を彷彿させるものだった。

2008年12月14日

バラク・オバマが目指す政治(5) ── 勝利演説完全解読(4)

前にエントリーを書いてから、学期末ということもあり、少しバテてしまった。今回は、この演説の「最初」の佳境に入る。このブログのために再度演説を画像からおこしていて、改めてこの演説の意味の重層性に驚いている。今回は、したがって、ヘヴィな解説になると思う。

まず英語の原文を示そう。

It's the answer that -- that led those who've been told for so long by so many to be cynical and fearful and doubtful about what we can achieve to put their hands on the arc of history and bend it once more toward the hope of a better day. It's been a long time coming, but tonight, because of what we did on this day, in this election, at this defining moment, change has come to America

これを訳すとこんな感じだろうか。

「またそれは、ずいぶんと長い間、ずいぶんと多くの人に、歴史が描く円弧を自身の手でしっかりとつかみ、それをもう一度より良い明日の方向へ曲げるには、やれシニカルになっている、やれ恐怖心で、そしてさらには猜疑心でいっぱになっていると言われてきた人びとが出した答なのです。この答がでるまでに、ほんとうにずいぶんと長い時間がかかりました。しかし、今夜、私たちが今日行ったことによって、この選挙によって、そしていまこの決定的瞬間に、変化のとき、それがアメリカにやってきたのです」。

さて、この訳を読むと、「歴史の円弧を自身の手で…」の部分、さっぱり意味が通じないはずだ。なかには、これを「手を伸ばすことができたのです。歴史を自分たちの手に握るため。より良い日々への希望に向けて、自分たちの手で歴史を変えるために」と訳しているところもあるが、正直言ってこれではこの一節が持つ重みがまったく伝わらない。

オバマは、3行目で "once more"と言っています。直訳は「もう一度」。さてでは最初の一回はいつのことだったのでしょう? 少し日本の新聞の訳をみたが、全部不正解です、まったくわかっていません。先に紹介した訳は、ここをまったく無視しています(さらにこの訳は、「あれはできないこれはできないと言われてきました」と訳していますが、そんなこと彼は全然言っていませんよ、achieve anything とは言ってないじゃないですか?、政治行動に関してだけここは述べているのです、その内実がわからないのでごまかそうとしていますね、この訳は)。

では、今回が"once more "ならば、前回はいつだったのでしょうか?

答え:公民権運動のときです。

なぜか、なぜそう言えるのか

それは、その直前にある"arc of history"という言葉があるからそう言えるのです。

人類の営為=歴史を天空を描くアーチに喩えることは、実はマーティン・ルーサー・キングが十八番としたものだった。彼は"bend"という動詞も使ってよくこう述べていた

The arc of the universe is long, but it bends towad justice。「空を描く天空の弧は長い、だがそれは正義がある場所に向かって弧を描いているのだ」

さてよく考えるとこの比喩はおかしい。だからすこしピンぼけな感じがする。比喩が懐にポンと落ちない。

おかしいのは、「天空の弧」の中心には「地球にいる人間」が立ち、それを「中心」にして宇宙の秩序が説明づけされているからだ。現代のわたしたちはこんな天空の描き方はしない。これは「天動説」なのである。

それもそのはず、この文言を最初に述べた人は、中世の神学者、アウグスティヌスである。彼の思想を現代の政治に持ち込んだのは、神学博士であるキングの解釈があってのことだ。

「あのねぇ、学者先生、それはあんたの深読みでしょ」、そう述べたい人がいるかもしれない。だから少し念を押しておこう。

ちがいますよ、オバマははっきりとキングの演説を意識しています。意識している証拠があります。

1966年投票権法の期限延長法案が連邦議会上院で討議されたとき、彼は、キングが行ったこの演説(それは投票権法の可決を迫るセルマ=モントゴメリー行進の最後の集会──公民権運動史上、主要黒人団体が最後の団結を示した行進──で述べられたもの)をはっきりと出典を明示して議場で、こう演説している。

Two weeks after the first march was turned back, Dr. King told a gathering of organizers and activists and community members that they should not despair because the arc of the moral universe is long, but it bends towards justice. That's because of the work that each of us do to bend it towards justice. It's because of people like John Lewis and Fannie Lou Hamer and Coretta Scott King and Rosa Parks, all the giants upon whose shoulders we stand that we are the beneficiaries of that arc bending towards justice.

「(セルマ=モントゴメリー行進の)最初のデモ隊が撤退させられたあと、キング博士はオーガナイザーと活動家、そしてコミュニティの人びとに対してこう述べました。「空を描く天空の弧は長い、だがそれは正義がある場所に向かって弧を描いているのです、だから悲嘆に暮れるべきではないのです」と。そうなるのも、わたしたち一人ひとりが、天空の弧を正義の方向に向かうように行動しているからです。ジョン・ルイス、ファニー・ルー・ヘイマー、コレッタ・スコット・キング、ローザ・パークス、その他もろもろ偉大な人びとの存在があってこそ弧は正義へと向かい、そんな彼ら彼女らの偉業のうえにわれわれは立っています。われわれは、弧が正義へと向かい始めたことの受益者なのです」。

つまり、1966年にははっきりとしていた天空の円弧の方向は、その後一度見えなくなり、2008年11月に再度そもそも向かっていた方向に「曲げられた」のだ、そう彼は述べたいるのだ。

ここの意味の重層性、強烈である。

その次の箇所はこれに比べるとそれほど重くはないが、それでもその時間感覚の表現は絶妙だ。

時制を少し変え、語句を抜き去れば、ここにこんなフレーズが見えてくる。

It's been a long time coming but , , , change has come. . .

こうすれば、リズム&ブルースの好きな人は、すぐにピンと来るでしょう。そうです、サム・クックの名曲、「ア・チェンジ・ゴナ・カム」の歌詞をもじっているのです。この曲は、映画『マルコムX』のなかで、マルコムXが煩悶の末にネイション・オヴ・イスラームを脱会することを決断するシーンで流れる曲でもある。

公民権法が成立した1964年(サム・クックが殺害される年)、クックはこう歌った。

It's been a long, long time coming, but I know, ou, ou, ou, a change's gonna come

ここでのポイントは時制にある。クックが近接未来形を用いた箇所で、オバマは大胆に現在完了・完了形を用いている。1964年公民権法が約束した変化の到来を、44年後に宣言したのだ。

なお、右のCDは、1990年代になって発売されたベスト盤だが、これに収録されている「ア・チェンジ・ゴナ・カム」は、公民権運動の歴史に少しでも関心があるものには必聴のものだ。64年に発売されたシングル盤にはない歌詞が入っているものが収録されていて、その「発掘された」歌詞の部分は、明らかに公民権法成立によって到来した新しい秩序のことを歌っているのである。

しかし、ほんとうにほんとうに実に長い時間だった。

さらにオバマの才覚。キングの演説(YouTubeのリンクを参照)では、"How long, not long”というフレーズが繰り返されている。ブラックパワー宣言が行われ、ロサンゼルス・ワッツ地区では大規模な人種暴動が勃発した1966年の夏、キングは、たちこめる暗雲(と催涙弾のガス)を振り払うかのように、夢が現実となる日まで「長くはない」と断言していた。黒人のキリスト教の伝統のコール・アンド・レスポンスを駆使しつつも、自分で自分に言い聞かせるかのように何度も何度ももそう述べていた。

そう、今回解説している箇所の前半部と後半部は、時間の表現、long によってつなげられているのだ。わかりやすく翻案すると、オバマはこう言っているのである。

「キング博士、あなたは長くはかからないとおっしゃいましたが、実際のところ長くなってしまいました。その間、人びとはシニカルになり、怖れを抱き、猜疑心でいっぱいになっていったのです。でも、それも終わりです、今夜、変化が来たのです、ご安心ください」。

さて、よく英語を聴いて欲しい。中学2年で習う文法が実に巧妙に使われている。クックの近接未来 is gonna come (is going to come) が、オバマでは現在完了 has come になっている。まだ現実でない(近接未来)の実現が完了したのだ。

これは、おそろしく大胆な宣言だ。

こうやってみると、オバマの演説の bottom line にはいつも「アメリカ黒人の経験」が存在しているのがわかるだろう。彼の演説の妙は、それを明示することで黒人の経験の特殊性を主張したりはせず、敢えて比喩や引用にとどめることによって人類普遍の経験を喚起しているところにある。

オバマの雄弁さは、ヒラリー・クリントンとの「死闘」を通じて、一般に知られるようになった。しかし8月の民主党大会の指名受諾演説(それまでの演説を繰り返しただけの間延びした退屈なもの)にがっかりした人は多い。それによって彼が旬だった時期はもう去ってしまったと思った向きも多い。

それゆえ、11月5日未明、わたしはオバマの演説に期待するとともに不安も感じていた。しかし、おそらくいまとなってははっきりとは思い出せないが、この辺りから、「今夜はちがう」と感じ始めたと思う。Tell like it is!、おそらくそう実際に叫んでいた。

ところで、クックの歌い方とオバマの話し方にはかなりの差異がある。クックの歌い方は、ジェシー・ジャクソンらの黒人教会が育んだ黒人指導層の話し方に近い。そう考えると、さまざまな意味をコラージュさせていくオバマの手法はヒップホップ的と形容してもいいかもしれない。

続く

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