この週末を迎える前、各種の最新の世論調査が発表されたが、概してオバマが 10% 程度のリードを保っている。アメリカ大統領選挙が、州別の Winner-Take-It-All 制度のために、一般投票がそっくりそのまま投票結果に反映するということはありえないが、このリードは、しかし、ブラッドレー効果があったとしても、オバマが勝利する高い可能性を示している。
ブラッドレー効果は、多かれ少なかれ見られるであろう。
こちらで知り合いになったインド系アメリカ人からこんな話を聞いた。友人のなかに「黒人をホワイトハウスの住人にしたくはないから、オバマには投票しないよ、ここだけの話だけどね」という人間がいたらしい。その発言に驚き、「ちょっと何を言ってんの?、わたしを見てくれ!」と訊ねたところ、発言の主はじっと黙り込んだままになったらしい。これはわたしが住んでいるきわめてリベラルな街でおきたことだ。
しかし、オバマが、ここまで 1976 年のカーター以来、白人男性からもっとも高い支持率を記録した民主党候補であることもまた事実だ。少なくとも民主党予備選において、ブラッドレー効果は大規模なかたちでは起きなかったのである。
予備選から通してのこの選挙戦ではいくつかの「転機」があった。オバマは、ヒラリー・クリントンと同じく、包括的政策によって中流以下の層の生活環境の改善を主張している。実のところ、〈大きな政府の復権=民主党〉対〈破綻した小さな政府の改善維持=共和党〉というきわめてはっきりした構図が描かれている本選挙に較べ、民主党予備選の方は政策論的対立がほとんどなかった。そこでは、政権中枢にいたヒラリー・クリントンと、外部にいたバラク・オバマとの個性とキャリアの対立であった。
わたしは、当初、黒人候補に勝ち目はないと思い、ヒラリー・クリントンを支持していた。
なぜならば、黒人が直面している社会政治的問題のほとんどは、人種問題として規定するよりも階級的問題であり、人種主義という人間のこころの問題に対処するよりも、現下のアメリカの貧富の格差を考えると、階級的問題に対処することが急務であると考えたからだ。そのためにはかつてこの国に存在していたニューディール連合に近い政治連合を復活させる必要がある。それができる一番近い人物はヒラリー・クリントンだと思っていた。
そして黒人市民もそう考えるものが少なくなく、連邦議会黒人議員幹部会 Congressional Black Caucus に至っては、ほぼ全員がかかる観点からヒラリー・クリントンを支持していた。
ところが、その流れが一気に変わってしまったのは、おそらくサウス・キャロライナ予備選の後、ペンシルヴァニア州予備選までのあいだだろう。より正確に言えば、オバマが長く親交を暖めている牧師は、アメリカを酷評し、テロの標的になっているのは「自業自得だ」と説いているということが突如「発見」されたあとのことだ。
わたしは人種主義にこだわることもしなければ、それを無視したりもしない、より完璧なユニオンに向かって努力することこそがアメリカの果たすべき役割であると述べた彼のそのときの演説は、おそらく2004年民主党大会の基調演説とともに、これまで彼が行った演説のなかで最高のものだ。
そしておそらくアメリカ黒人史上でも、フレデリック・ダグラスの独立記念日の演説、マーティン・ルーサー・キングの幾多の名演説などに匹敵する名演説だ。この演説は、単なる選挙遊説ではなく、アメリカの歴史経験が滲み込んだきわめて秀逸なものである。
前にも述べたことであるが、ここで彼は白人票に簡単に言ってこう訴えたのである。
そうです、わたしは「黒人候補」です。だけど安心してください、わたしは怒っていません。しかし忘れもしません。いまは忘れられるときではないのです。だからお願いです、一緒に努力しませんか。
さて、このような観測にたって、はっきりとこう述べたい。
もはやこの選挙は勝利の帰趨が問題なのではなく、オバマがどのような勝ち方をするかが問題である。過日も述べたノース・キャロライナ州とヴァージニア州がどうなるか、そして同時に行われる上下両院選挙がどうなるか、それが問題だ。
ここに来て、ノース・キャロライナ州やヴァージニア州だけでなく、ジョージア州も民主党になる可能性が取りざたされている。特に上院議員選はかなりの接戦になっており、もし上院が民主党になるとすると、それだけでも快挙なのだ。
喧伝されているブラッドレー効果は、おそらく選挙結果を左右するかたちでは起きない。なぜならば、トム・ブラッドレーが善戦した州知事選挙からすでに24年の月日が流れており、その間、アメリカ市民の多くが黒人に投票することに過度の「アレルギー反応」を示さなくても良いようになったはずなのである。その証拠に、白人の票を多数獲得して選挙戦に勝利した「黒人市長」のことを考えてみれば良い。都市部に住む白人の多くは、「黒人政権」に恐怖を感じるほど愚か者ではない。(なおジョージ・W・ブッシュが、コリン・パウエル、コンドリーザ・ライスを国務長官という要職に登用したことも、人種的恐怖を減じるにあたっては多いに貢献したはずだ)。
昨日ここで紹介したハロルド・ワシントンは、こう言ったことがある。
「わたしはできることなら白人たちの恐怖心をなだめたいと思っています。しかし、白人のアメリカ人、そして彼らが中心となっているビジネス界の人びとに向かって、「ほらわたしは良いやつです、わたしはまっとうな教育を受けてもいますし、信頼できる人間なのです」などと言って回ることに人生の多くの時間を費やしたくありません。そんなくだらないことで時間を無駄遣いしたくないのです」
オバマも、おそらくフィラデルフィアで演説を行う前、どうようの感慨に包まれたことだと思う。誰でも想像つくだろう、能力がある人間が、その能力とは別の判断基準をもとに能力を否定され、そして「わたしには力があります、わたしは善良な人間です」と「証明」しなくてはならないことの「鬱陶しさ」は。
来る政権の政策がどう動くか、それはいまの時点で予測することは不可能だ。
ただし、人種的差異を原因とする恐怖心の超克、この可否はもうすぐ結果が出る。わたしは、きっと、Yes We Can!, Why Not? という結果が出ると思っている。
政治や社会はゆっくりにしか変わらない。それでもはっきりと変わるときがある。ゆっくりとはっきり変わるときがある。