ミネソタ州、ハムリン大学で、ハロウィンの日、白人が体と顔を真っ黒にし、「アフリカ」の「未開部族」の仮装をしたことで停学処分になった。この学生たちに近しいものは、事件が文脈を無視して誇大に伝えられており、処分を受けた学生たちにアフリカン・アメリカンを中傷する意図はなかったと述べている。
同様の事件は、実のところ、頻発している。
たとえば、2005年11月、シカゴ大学では、「極道渡世一直線パーティ straight thugging party」と題したダンスパーティを白人学生が開催し、その会場には、衣装として、手錠を片手にはめて、マニラ紙に包まれたビールを呑む学生がみられた。そのテーマに憤慨した黒人学生が抗議のために現場に向かったところ、白人学生のひとりが「ヘイ、リアルなヤツがきたぜ、俺たちはお前たちみたいになりたいよ」といった発言を行ったらしい。その学生は、シカゴ大学、つまりバラク・オバマが教鞭を執っていた大学の学生であり、「リアルな極道」ではない。そしてまた、大きすぎるバギー・ジーンズとTシャツ、それにベースボール・キャップといった「ヒップホップ」流の恰好とはほど遠い、「名門私立の大学生らしい」、ごくふつうの恰好をしていたという。
では、何が、彼ら黒人は「ゲトー・ギャング」(白人学生の表現)の世界からやってきたリアルなブラックと思われたのだろう?
人種ゆえに、としか言いようがない。
上の二つのエピソードは、それ自体としては、何ら差別的なものはない、とわたしは思う。しかし、黒人学生を「リアルなやつ」と呼んだときに、人種間のエチケットの一線が超えられた。ミネソタのケースでは、黒く肌を塗った学生の写真がウェブサイトに公開され、"spook"(1950年代頃に広く使われた黒人の蔑称、このことばはアンソニー・ホプキンス、ニコール・キッドマン主演の『白いからす』の重要なシーンで使われている)という、はっきりと侮蔑的なことばが写真に付されていた。
人種主義的意図を疑われても仕方がない。
このような場合、得てして加害者の役割にまわったものが言うことは「その意図はなかった」、「親しみを込めて言った」というものである。たしかに、異人種間の交流には、腹蔵のない対話が必要であり、「政治的妥当性」に過度に敏感になるのもまた別種の問題、よりやっかいな問題を抱えることになる。したがって、そこにはより豊かな未来への道と不幸な過去とが衝突しながら織りなす、将来へのステッピングボードが横たわっている。つまづき転ぶか、それとも跳躍するかはわれわれひとりひとりの行動如何にかかっている。
さて、ミネソタのケースでは、処分を受けた学生を弁護するのに、「彼らにはアフリカン・アメリカンやアメリカ先住民の友人だっているんです」ということばが用いられている。ここには、「自分が良い人間であることを示すために、アフリカン・アメリカンとアメリカ先住民の存在を利用する」、という深層心理がひそんでいる。そう言うのは厳しすぎるだろうか。
わたしは、シェルビー・スティールなら同意すると思う。