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デトロイト暴動から40年

アメリカが7月23日を向かえた。この日は、正確な数字が残っているものとしては、当時アメリカ最大の人種暴動(43人死亡、7000人逮捕、92年のロサンゼルス暴動のみがこの死亡者数を上回っている)となり、公民権運動の時代の終焉をつげる序曲となったデトロイト暴動がおきてちょうど40年目にあたる。わたしが住んでいるここ日本もとても暑い日だったが、暴動がおきたその日のデトロイトも華氏90度を超える酷暑だったという。

その日から、デトロイトは大きく変化した。この街の活力の源泉そのものであった自動車産業は、みなさんご存じのとおり衰退。暴動がおきた67年当時でさえ、自動車工場はより労働力の安価な地域に移り初めており、デトロイト市内にはクライスラーの工場しかなかった。クライスラーが投資ファンドに買収されたいま、かつてこの街を支えた工場すべてが一度はこの地を去ったことになる。

さらにはまた、この街の名と一緒に世界中に知れ渡ることになったモータウン。モータウン・サウンドを量産したスタジオ、Hitsville U.S.A. は実は暴動の中心地となった12番街・クラアモント通りの交差点からわずか徒歩で5分ほどのところにある。そのサウンドの中心地も、73年にはハリウッドのサンセット大通りに移転し、90年代に歴史的建造物として補修改装されるまで、「見棄てられたインナー・シティ」のなかにぽつりと位置することになった。

この73年は、また、デトロイトで初めて黒人が市長に当選した年でもある。つまり、デトロイトにおける黒人政治力の伸張は、同市の社会的・経済的インフラの崩壊と同時に進行したのだ。では現在はどうであろう…。

現在同市の約90%が黒人であり、市長も黒人であれば、市議会の多数派も黒人。67年の暴動は警官と黒人市民との衝突が直截的原因となったものであり、その当時、警察官4326人中237のみが黒人であった。しかし、現在は警察署長も黒人。

ところが、同市の貧困者の率は全米平均の3倍に達し、貧困から脱出する最も近い道が教育を得ることなのにもかかわらずインナー・シティでの高校(アメリカでは義務教育)中退率は55%から75%という異常な高率を示している。つまり、この街は60年代の黒人の運動のパラドクスをそのまま象徴している街になっているのだ。

『デトロイト・ニュース』紙は、暴動から40年を経過した日の社説で、まず教育の充実を、「子供のことを考えてやること、それが暴動が残した教訓を生かす道だ」と語っている。さて、ポストブラウンの時代の到来が声高に言われている今日にあたり、どうすれば教育の充実がはかれるだろうか?。(さて、;a href="http://www.jaah.jp/" target="_blank">来るアメリカ史学会年次大会で、デトロイト暴動に関する研究報告を行うがゆえに、ここでこれ以上語るのはやめておこう、乞うご期待)。

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2007年07月24日 00:01に投稿されたエントリーのページです。

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