日本でも名前が知られてきたバラク・オバマと経歴が良く似ている人物として、このブログでニューアーク市のコーリー・ブッカーのことを以前紹介したことがある。『ニューヨーク・タイムズ』紙が伝えているところによると、ブッカー市長誕生直後の「旋風」の後、今度は彼が守勢に立たされ、リコール運動さえ起きているらしい。
その記事のなかで、特に注目されるのが、〈人種〉の意味である。「コーリー・ブッカーは実は黒人ではなかった」、そんな噂が同市では流れており、それが市長の「弱点」とされているのだ。ジム・クロウ時代の南部では、「黒人の血が一滴でも流れていたら…」ということが人々の社会的・政治的・経済的地位や命運を否定的に決定づけた(この様子はフォークナーの小説などを読むとよくわかるであろう)。しかし、現代の北部都市ニューアーク市では、その構図が逆になっている。
ここで興味深いのが、彼のリコール運動の先頭にたっているのが、ブラック・パワー時代の象徴的黒人詩人であったアミリ・バラカだということである。バラカは、ブッカーが市民以外のものを重用し、これまでのジェイムス・シャープ市政で重んじられていたものを遠ざける彼の施策を激しく攻撃し、「ニューアーク市は(よそ者に)占領されている」とさえ述べている。
つまり新しいタイプの黒人政治家が「伝統的」黒人政治勢力と対決するという構図が、ここに描かれることになったのだ。これは、ある面においては黒人内部の意見の多様性が表面に出てきたことを意味し(歴史的に言って、黒人内部で政治的に多様な意見が存在していたのはいつの時代にもあったことである、ところがそれが「表面化」することは特異な政治的・時代的脈絡においてでしか起きていない)、それは「多様性」 diversity を尊ぶアメリカ現代社会の象徴と肯定的に評価できよう。しかし他面では、いまだ人種偏見に立ち向かわなくてはならない黒人の「分裂」と否定的な評価もくだされ得る。公教育における連邦最高裁の判決がここ半世紀の人種関係のルールの変更を迫っている現在にあっては、後者の意見をとる人間は決して少なくない。「いまは分裂しているときではない、黒人として団結するときだ」と。
しかし、ここでいま少し考えてみよう。そもそも黒人とは誰を指すのか?。それがもし、都市中央部に住む貧困層という意味を強く帯びるとすれば、それはそもそも「色」とは何も関係のないことである。では、「黒人」を「貧困層」として表象するのはまちがってるのであろうか。それもそうとは断定できない(たとえば、すぐ下の記事にあるジュリアン・ボンドの演説内容を参照、ここで彼は貧困と「黒人」の密接な関係を主張している)。
コーリー・ブッカーのように、高学歴を持ち富裕な人間が「黒人」ではないのだとすれば、「黒人」とは社会的にネガティヴな表象の多くを引き受けてしまうものになってしまう。このような人種的表象をめぐる政治のなかで、ブッカーが「黒人」でないのであれば、オバマもそうであるし、そしてさらには近代黒人解放運動の父、W・E・B・デュボイス(ハーヴァード大学歴史学博士)もそうであろう。
とすると、黒人が直面しているさまざまな問題が「解決」される日がもし訪れたならば、それは皮肉にも「黒人」という存在がアメリカ社会から「抹殺」されたときを意味する。それで良いのだろうか?
デュボイスは、この問いに、断乎としてノーというであろう(その論拠は詳しくは右の名著の冒頭部分を参照されたし)。