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ブラウン判決の時代が過ぎ去ったを嘆くのはやめよう

ブラウン判決を破棄したともとれる判決がくだったことについて、ついこのあいだ言及した公民権運動を綴った名作ドキュメンタリー Eyes on the Prize の監修をつとめた JJuan Williams『ニューヨーク・タイムズ』紙にエッセイを書いている。

ウィリアムズは冒頭でこう述べている

「ブラウン判決を讃えよう、だが今やその判決を葬り去るときがきた」。そして、それを嘆くのは止めようと主張している。

この記事のなかで、ウィリアムズは、ブラウン訴訟の原告弁護団長を務め、その後連邦最高裁判事になるサーグッド・マーシャルにインタビューをしたときの興味深いエピソードを伝えている。

マーシャルは、白人と同じ学校に通わせることが彼の活動の目的だったことは一度もない、と述べたらしい。50年代中葉の環境を考えるならば、人種隔離制度の環境下において、白人の通う学校に手厚い関心が支払われているという紛れもない事実がある。なぜならば、教育委員会は全員白人であり、自分たちの子息のことしか考えていないから。そのような事情では、人種統合をもとめることこそが、黒人が優れた環境下で教育を受けることの近道になる、その近道を歩んだ、そう彼は自分の活動歴と活動の目標を明示したらしい(右の書籍はブラウン判決に関する決定的研究書である、何度も曲がりくねる法判断や多用される法律用語には苦労するが、最後の判決の瞬間まで辿りついたとき、その苦労ゆえにとても充実感があります)。

今日、既に鬼籍に入ったマーシャルの意見を聞くことはできない。しかし、上の事情が伝えているのは、人種統合は目的ではなく手段であり、教育の質の改善こそが目標であったということはまちがいない。

ウィリアムズは、そこで、今日の教育委員会の多数派が黒人やラティーノなどのマイノリティであり、その環境下において公立学校のパフォーマンスが下がっているという厳然とした事実を指摘する。そして、いまや人種統合は教育の質を高める手段たりえない、と主張しているのだ。

この判決については、かなり多くの論考・エッセイが発表されている。できるかぎりここでそれを紹介していく予定ではあるが、このウィリアムズの指摘には考えさせられるところがある。わけても、質の低い教育環境に子供を置いているのは大人、その大人の失政の責任を、人種隔離撤廃政策のため遠くの学校に通わされる子供が負っている、これでは問題は解決できない、と述べている点は、はっと考えさせられるところがあった。

さて、日本はいよいよ選挙モード。教育改革は与党の目玉。でも、現場は悲鳴をあげているんです。子供のことよりも、国家のことを考えるのが「改革」と思っていないか、誰が子供のことを考えているのか、よく考えよう!

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2007年07月06日 00:37に投稿されたエントリーのページです。

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