ジェームス・M・ヴァーダマン
『黒人差別とアメリカ公民権運動 ── 名もなき人びとの戦い』(集英社新書)
最近流行の「新書」の形で、アメリカ黒人史、わけてもわたしが専門としている公民権運動関係のものが出版された。同様のテーマが、一般読者に求めやすい形で出版されるのは、1993年に岩波新書から出版された辻内鏡人・中條献『キング牧師──人種の平等と人間愛を求めて』、1994年に講談社新書から出版された上坂昇『キング牧師とマルコムX 』以来、10年以上もの時間を閲してのことになる。学生の関心も高く一般のあいだでの認知度も高いこの運動に関して、取りつきやすく理解しやすい筆致で書かれた書籍は、実のところ少ない。
本書は、その意味でおいて、きわめて貴重な存在であるし、大学で教員を務めているわたしは、さっそく今季から授業で使うことになろう。わけても、エメット・ティル・リンチ事件や、リトル・ロック危機、ミシシッピ大学とジェイムス・メレディス、ミシシッピにおける SNCC の運動を、このように詳細に述べている邦語の文献は類をみない。このサイトの訪問者にも、強くお勧めする。(おそらく参考にしている2次文献が同じなのだろう、私が「リズム&ブルーズの政治学」で語っている内容と本書との間に事実関係上の齟齬はほとんどない)。
その上で、本書の問題点をいくつか指摘したい。まず、訳語の問題。訳者の水谷八也は、おそらく segregationist に「差別主義者」という訳語を与えているように思われる。しかし、これは本来、「人種隔離論者」とするべきではなかろうか。訳者は、segregation に対しても、ある時には「分離」あるときには「隔離」と訳語を使いわけているが、この南部史特有の言葉を日本語にこのように「意訳」してしまてっては南部社会の本質が見えてこない。具体的にその一例を挙げよう。本書163頁にこのような訳がある。
「…アラバマ州知事ジョージ・ウォーレスは人種差別主義者の有権者に好印象を与えるために、無抵抗のままアラバマ州一の大学に人種統合を許してはならないと考えた。結局、「いまここで人種隔離を!、明日も人種隔離を!、永遠に人種隔離を!」というスローガンを掲げて白人有権者を結集したのはウォーレス自身であり、彼は簡単には屈しなかった」。
ここで引用されている宣言は、公民権運動史上有名なものであり、"Segregation Now, Segregation Tomorrow!、Segregation Forever!"が原語である。しかし、ウォーレスは、自分のことを人種隔離論者 segregationist とは言っても、人種差別主義者racistとは言わなかった。むしろ差別 discrimination の意図は「隔離 」 segregation にはないと信じ切っており、それゆえ、連邦最高裁の判決に敢然と立ち向かったのだ。人種隔離という「南部の伝統」の擁護者として、連邦政府に公然と刃向かったのである。したがって、原著が、racist ということばを使っているのならばまだしも、segregationist ということばを使っているのならば、ここは訳語を統一するべきところである。また228頁に「超分離主義」という訳語があるが、これは Massey や Denton らが使った hyper-segregation ではなかろうか。だとすると、これは明らかに「隔離」の意味である。
「隔離」と「差別」の相違に私が拘泥するのは、これを理解せずして、アメリカ南部社会という異文化の理解はあり得ないからである。親切すぎる「意訳」はその相違を消し去ることを意味し、結局、異文化理解の貴重な契機が失われてしまう。人種隔離は差別を意味しない、今日それがひどい詭弁に聞こえたとしても、南部白人の多くはそう考えていたのだ。著者は本書においてリトル・ロックの白人暴徒のその後の改心を本書で説明しているが、かかる改心はウォーレス自身も経験した。彼は、自分の命令で殴打した公民権運動家を自宅に招き、公式に「赦し」を請うたのだ、その経験を追体験したければ、segregation、discrimination、separation、white supremacy、racism の区別を曖昧にしてはならない。
また、瑣事のように思えるかもしれないが、著者はバッキ裁判の原告の主張を誤解している。原告のバッキは、当初、このアファーマティヴ・アクション政策自体が逆差別であると論じたのではない。白人だが恵まれない環境で育った自分を「特別入学枠」に入れないことに異議を唱えたのだ。この裁判は、司法上の難解な展開が何度も繰り返される複雑なものであるが、「逆差別」という今日では一般的になった概念の出自を理解するあたって、ここのところは正確を期すべきであろう。この裁判と、当初から「逆差別」を争点とした2003年のミシガン州立大学の裁判とは原告の主張が異なる。実のところ、著者のバッキ裁判の説明では、読者は何が何だかさっぱりわからないはずだ。なぜならば、著者は、この一連の係争でもっとも問題となっている文言をまったく紹介していないからだ。連邦最高裁は、「有無をいわせぬ利益」 compelling interests の存在をアファーマティヴ・アクション実施にあたっての試金石にしている、その説明がない。
ところで、私は上のように訳語の選択を問題にするにあたって、原著の英語に触れることはできなかった。というのも、著者のヴァーダマンは本書の奥付によると早稲田大学教授であり、日本で文筆活動をおこなっているようである。それゆえか、本書には原著にあたる英文の書籍がない(探してみたが管見のかぎりでは見つけることができなかった)。さらに驚いたことに、著者は、ミシシッピの有名なポピュリストで白人優越主義者、ジェイムス・ギンブル・ヴァーダマン州知事の直系卑属にあたるらしい。
アメリカにおける公民権運動史の研究情況をふまえると、本書は決して「名もなき人々」のことを綴ったものではない。むしろ公民権運動「指導層」の動きを丁寧に追ったものであり、公民権運動史家のあいだでは「モントゴメリーからメンフィスへパラダイム」と言われ批判の対象になっているものに属する。ほとんどのエピソードは、アメリカでは極めて有名で、日本でもNHKが1990年代初頭に「海外ドキュメンタリー」で放送した記録映画、Eyes on the Prize に収録されているものだ。アメリカでは、彼ら彼女らは、通りの名前になっていたりする。つまり、本書の登場人物が「名もなき人々」なのは、日本においてであり、アメリカにおいてではない。(それは他面、日本における公民権運動史家の「社会還元活動」、古いことばでいえば「啓蒙活動」を怠った、その怠慢さを意味する、と自責の意味をこめて、私は思う。このサイトや「リズム&ブルーズの政治学」は、その「穴埋め」をする意図で運営している)。
しかし(否、それゆえ)、公民権運動の年代記すら欠けていた日本の出版情況からすると本書の刊行はとても嬉しいものである。実のところ、私は授業で度重なり Eyes on the Prize を使っているが、それを観た学生の大半は、南部ジム・クロウ体制の実情に衝撃を受ける。したがって、本書の存在の貴重さは計り知れないものであると思うし、広く日本の人々に読んでもらえたら、と期待する。ただ、惜しむらくは、本書が今日ではあまりにも一般的な通史にとどまり、著者自身が有名な白人優越主義者の直系卑属であること、そこに関する実存的語り、つまり彼だけにしか語れないことが書かれていない ことである。それがあれば、本書は「文学的価値」すら備えた「名著」になったであろう。