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この週末、ライブドアブログで書いていた記事を、このブログに統合しました。
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この週末、ライブドアブログで書いていた記事を、このブログに統合しました。
さて、下の記事では、50セントの意見を紹介しながら、「奇妙に、そしてそれでもしっかり正鵠を射たものに私には聞こえる」と述べた。しかし、何も彼の声がヒップホップ界を象徴しているわけではない。他のさまざまな世界と同じく、この世界にも多様さが存在する。今日は、そのような意見のひとつを紹介したい。N-word の使用に対して、「今こそヒップホップ界が変わるときである」と主張しているものがいる。
Master P は、ウェブサイト AllHIpHop.com に、50セントの見解に触発されて、それを論駁する記事を書いた。そこで、彼は自分の意見が50セントのものとどう違うのかを、極めて明瞭に書き記している。
・自分は社会問題の写し絵ではなく、問題の一部なのだ、それを認める。
・息子には自分の失敗を繰り返して欲しくない。自分よりも善良な人物になり、より素晴らしい仕事をしてもらいったい。そう言っているからこそ、息子はいま勉学に励んでいる、それを応援したい。
・自分のゴールとは、継承できる資産を蓄え、不動産をもつことがどれだけ重要なのか、それを我らの同胞に教育することにある。
・ほんもののエンターテイナーであるからこそ、自分のボスは、レコード会社の重役ではなく、神なのである。だから、いまは問題の一部であることを止め、解決策のひとつになろうとしているのだ。エンターテイメント関係のメディアが欲しているのは、ネガティヴなニュース。それに惑わされていたら負けることになる。
こう語る彼は、シャキール・オニール、ウィル・スミス、ラッセル・シモンズ、クィーン・ラティファ、チャールズ・バークレー、ビヨンセなどに声をかけ、積極的な方向でエンターテイメント界を動員することを考えている、と言う。ギャングスタ・ラッパーに現在の行状を改めろとは言わない、それが彼ら彼女らの飯の種だから。しかし、他にも途があるのだというのを示したい、そう彼は主張している。NAACPなども動員しつつ、現在のポップカルチャーの問題を議論しようというのだ。
このような議論の対立は、黒人史では有名な「デュボイス対ワシントン論争」、はたまた「デュボイス対マーカス・ガーヴィ論争」をも思わせる。そういう意味において、これは歴史を通じて流れる豊かな知的対話である。
そして、アメリカ時間で6月3日の日曜日、デトロイトでこの問題を論じる大会を、NAACPは開催することになっている。
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&uotヒップ・ホップの歌詞が人種的偏見を助長する言葉を用いることがアメリカで大きな問題になってきていることは、これまでも書いてきた。〈人種〉が関係した社会問題が起きる度に登場する人物が、この問題でも活動を始めている。2004年の大統領選挙に落選すると目されつつも立候補した人物で、National Action Network の会長、アル・シャープトン牧師がその人である。
シャープトンが牧師を務めている教会があるニューヨークを皮切りに、NAN は、「品行方正なヒップホップ促進運動」Decency in Hip Hop Campaign を4月から開始し、この度、NAACPと共同でデトロイトで討論会を開催した。同地の観光名所のひとつ、モータウン・サウンドを「生産」したスタジオ、ヒッツヴィルUSA を訪れて、彼はこう語った。
「1960年代といえば、ジェイムス・ブラウンとモータウンの時代です。しかし、彼らは N-Word を使ったり、女性の人格を貶めるようなことはしなかった」。
さて、果たしてそうでであろうか。いろいろと解釈はあるだろうが、二つほど紹介しよう。
まず、モータウン・サウンドを代表(70年代だが)する名曲、マーヴィン・ゲイの「レッツ・ゲット・イット・オン」
この曲は、当時としては露骨すぎる性的表現が問題となった。メイクラブの歌とも捉えられるが、「女性を性の対象としてしか見ていない」という批判がされても仕方がない。
さらには、ジェイムス・ブラウンから「イッツ・ア・マンズ・ワールド」。
この曲は、「メイル・ショーヴィニズム」の表現として批判され、その批判の先頭に立ったのは、かの「ソウルの女王」「アメリカの和田アキ子」、アレサ・フランクリンである。「あんた、もう一回よく自分がやろうとしていること考えなよ!」とシャウトしているソウルの名曲 "Think"が、その曲だ。
つまり、シャープトンは、60年代の歴史を政治的に利用しているとしか私には判断できない。史実は違うことを語っているのだから。さらに、個人的趣味の問題ではあるが、「品行方正なヒップホップ」というもの自体、そもそもまったくクールに聞こえない。「ディストーションのかかっていないヘヴィメタルギター」のようなものだ、と言えば、私が感じている異和感がよく(?)伝えられるだろうか。
もちろん私もヒップホップの語彙に社会的問題があること、それは認める。しかし、シャープトン型の運動がポジティヴな変化に繋がるとは思えないのだ。私にはマスターPの努力の方がよほど真摯に見える。
なお、シャープトンがデトロイトで会合を開いたのと同じ日、デトロイト市議会議員クワメ・ケニヤッタと、ヒップホップグループ Infinity Solutionz がタウン・ミーティングを開催していた。こちらの方は、ラップで歌われている現状を変える方法を討議するものだった、と、『デトロイト・ニュース』紙が伝えている。大切なのはこのような努力だ、と私は思う。
ニューオリンズの復興に関して久しぶりに書き記しておこう。
ハリケーンの被害自体が人種的に不均等な結果をもたらしたということは現在では広く知られた事実だが、復興後の状況も人種間格差が存在しているようだ。5月初頭に世論調査機関 Kaiser Family Foundation が明らかにしたデータによると、ハリケーンの被害から丸1年が経過した時点での調査で、「生活が破壊されている」と答えた白人が29%であるのに対し、黒人のそれは59%にのぼる。
白人の率が約3割に達しようとしているのも、通常のいわゆる「先進国」での災害を考えるとたいへんな高率だ。そしてこの調査対象のなかには、既にニューオーリンズを「見棄て」てしまい、そのほかの土地に移住したものは含まれてはいない。そのようななか、堤防が決壊したのは政府の責任であるとして損害賠償を求める動きが活性化している。『ワシントン・ポスト』紙によると、政府を訴えた人びとの人数は25万人に達し、請求総額は2780億ドルに達する。(政府がメキシコ湾岸地域の災害復興に充てた予算は1250億ドルであり、それをはるかに上回る)。
自然災害にあたり政府に責任を問うこと、それには多大な法的障害があり、原告が勝訴する確率は決して高くはない。あるものによっては、これは「訴訟社会アメリカの悪の側面だ」と指摘する向きもあるだろうし、私自身、それが「アメリカ的特質」であることに同意はしなくても、方法的・法論的妥当性には疑問を強く感じる。
そこで、とても心が温まるエピソードを紹介することにしよう。
「復興開発」による建築労働者の需要が高まるなか、同地には数多くのメキシコ人労働者がやってくることになった。ところが季節性と循環性が高い建築労働の質上、労働期間は決して長くない。建築事業が終われば、「飯場」もなくなる。そうすると、廃屋となった住宅に「居座る」squwatしかなくなってしまう。当然、ニューオーリンズに在住の人びととの軋轢は増え、対立は高まるし、そもそも「スクワッター」は法律を犯しているために逮捕されてしまうことすらある。
この2月、ニューオーリンズ市郊外のグレトナで、そのような事件が起き、17人のラティーノが挙動不審・浮浪の容疑で逮捕されることになった。頼るあてのない彼らは、しかし、その日のうちに保釈されることになった。もっとも被害の大きかったニューオーリンズの黒人ゲトー、第9区に本拠地がある「ニューオーリンズ生存者の会」 New Orleans Survivors Council という団体に属するメンバーが保釈金を払ったからだ。なおその人物と17人のラティーノとのあいだにそれ以前の親交はなかった。
このニュースを聞いたラティーノの団体、「日雇い労働者の会」 Congreso de Journaleros は、「ニューオーリンズ生存者の会」への感謝の意を表すために、第9区に存在している未だ改築されていない住宅を無償で補修した。そうして、現在、この二つの団体はこうして復興された家で、毎週集会をもっている。
さて、保釈金を支払った奇特な人物の名前は、カーティス・モハメド Curtis Muhamad。なにやら、カーティス・メイフィールドとモハメド・アリの名前が一緒になり、「わくわくさせる」響きがある。実は、この二つの60年代精神の体現者と、カーティス・モハメドの来歴とは無縁ではない。彼は、60年代の公民権団体のなかでももっとも勇猛果敢で急進的だった学生非暴力調整委員会 Student Nonviolent Coordinating Committee (SNCC) のベテラン活動家だった。
SNCC関係の文献ではカーティス・ヘイズ Curtis Hayes と記されているその人物であり、その後、篤信家ムスリムになった活動家だ。Oh, Keep Your Eyes on the Prize , Hold on!。がんばれ、カーティス!。
&t6月7日付けの『ニューヨーク・タイムズ』紙は、1965年に可決され、黒人の投票権を連邦政府が保障することで南部、ひいてはアメリカ政治の近く変動を起こした投票権法制定にあたり、多大な功績を成した人物が逝去したと、いささか斜に構えた訃報を掲載した。亡くなった人物は、アラバマ州セルマのジム・クラーク保安官(当時)。一般的に彼は白人優越主義者で、公民権運動家を人間とは思わず、凄まじい暴力を奮った人物としてしられている。私が「斜に構えた訃報」という所以はここにある。
しかしながら、ジム・クラークに対する評価として、これはかなり広く言われているものでもある。私が知っているかぎりでは、64年公民権法制定にあたって、公民権活動家に警察犬をけしかけたり、高圧放水を浴びせたりで対抗した同じく白人優越主義者の警察署長、バーミングハム市のブル・コナーに対して、「公民権法制定の功労者」という形容をしたのはロバート・ケネディであり、『ニューヨーク・タイムズ』の記事はその変奏にあたる。
では実際、ジム・クラークは何をしたのだろうか。もっとも有名なのは、1965年3月7日、投票権法制定を求めてセルマからモントゴメリーまでの行進を開始した公民権運動家を強力で弾圧したことであろう。この事件は、「血の日曜日事件」として知られている。この事件の報道が全国ネットで流されていたとき、あるネットワーク局は、ニュンルンベルグにおけるナチス戦犯の裁判の記録映画を放送していた。もちろん、その映画にはナチによるユダヤ人虐殺の模様も含まれている。ところが、セルマでの激しい衝突が起きたために局はこの放映を一部中断し、南部からの映像を伝えた。そうして、ナチに匹敵しかけない残虐性がアメリカ南部に存在しているということが、その局の意図ではなくても、一般視聴者に伝わっていった。(「血の日曜日事件」以前、実際に彼は、牧師で公民権運動家のC・T・ヴィヴィアンに「ヒトラー」と罵られてカッとして、ヴィヴィアン師を殴打、手の甲の骨を骨折したこともあった)。
公民権運動家(そのなかにはキング牧師も含まれる)は、そこで、全米に向かって「良心への訴え」というコールを発表し、セルマ=モントゴメリー間の行進を再度実行に移すので、それに参加するように呼びかけた。このような運動の盛り上がり、そして公民権運動に対するシンパシーの高まりを受け、リンドン・ジョンソン大統領は、当初は彼の政策日程にはまったくなかった新公民権法(投票権法)の議会上程を決意する。テレビで放送された演説で法案の趣旨説明を行ったジョンソン大統領は、演説の最後を公民権運動のスローガン、「我ら打ち勝たん」 We Shall Overcome" で締め括った。それを観ていたキング牧師の頬には涙がつたったと言われている。このような劇的な運動に関し、キングの伝記でピュリッツァー賞を受賞することになる公民権運動史家デイヴィッド・ギャローは、「公民権運動中もっとも統率がとれ、もっとも効果的だったものだった」と評価している。
この投票権法によって、セルマでは公選の職である保安官だったクラークの「政治生命」は絶たれた。黒人有権者数の急増の結果、1966年の選挙で落選すると、可動式住宅(映画『8マイルズ』でエミネムが住んでいるキャンピングカー式の住宅)のセールスマンとなり、1978年にはマリファナを販売したとして逮捕され9か月の懲役に服さねばならなくなった。裕福や幸福さからはほど遠い生活を送っていくことになったことが、ここからは窺える。
60年代当時、ジム・クラークのような人物は決して少なくはなかった。例えば、アラバマ州知事であったジョージ・ウォーレスも、セルマに運動家弾圧のために州兵を派遣する決定をくだしていた。ところが、その後のウォーレスが良心の呵責にさいなまれ、「血の日曜日事件」の時に頭蓋骨骨折の重傷を負った活動家で現在は連邦下院議員(ジョージア州選出)をしているジョン・ルイスなどを自らの自宅に招待し、公式に謝罪し赦しを請うたのに対し、クラークはまったく変化しなかった。昨年、アラバマの地方紙のインタビューに答え、彼は、当時の場面にいまもう一度立ったとしても「基本的にまったく同じ命令をくだす」と明言している。
ジム・クラーク、享年84歳。彼のような人物のことを英語では unreconstructed と形容するが、そのような人物が逝去した。過去に残虐な行為を犯しておきながら、「敗北」が決まるとその途端、そのような行為への加担を否定したり言い訳をしたりするものは多い。ウォーレスのように改心するもの、クラークのように頑迷さを突き進むもの、それらよりかかる類型の人物の方がおそらくは多数であろう。例えば、日本が行ったアジアへの侵略行為、それとまともに立ち向かわず、政治的情況次第で発言を変える人間は老若を問わず現在激増中である。またリベラル派の respectable な政権を含めて、アジア太平洋戦争で日本の民間人を標的にした空爆や原爆投下を謝罪した大統領はいない。それを考えると、彼の死は、どこか寂しい感じすら受ける。
そう言えば、マルコムXは言っていた。白人優越主義者は批判しつつ己の人種主義的行為は顧みない北部のリベラルの偽善より、南部白人優越主義者の頑迷さの方が、実直さという面において道義上優れている、と。
ジム・クラークのことを、一晩考えて、ある映画(アカデミー賞をいくつかとった名作のひとつ)を思い出した。
それは、シドニー・ポアチティエ主演、『夜の大捜査線』。
ポアティエ扮する主人公は、南部の田舎町の駅で乗り継ぎの電車を待っていた。偶然、近くで殺人事件が起き、その地の保安官は頑迷な白人優越主義者だった。それで、駅にいたポアティエを浮浪者として逮捕し、殺人事件の犯人にしようとした。ところが、ポアティエにはアリバイがあり、そのうえ、彼は、シカゴの敏腕刑事 plain cloth pliceman だった。(バカな人種の)「ニグロに刑事がいるか」と保安官は豪語、そこでポアティエは、シカゴ警察の上司に直接電話、その事実を証明する。保安官は、「野蛮な人種」の黒人が警官であること、さらには田舎警官の自分より遙かに高給取りだということに強い反感を憶えた。
話が妙な展開をするのは、それから後。シカゴの上司は、市民生活の保護に努めている同志として「捜査に協力すること」をポアティエに命じた。これで、田舎者の白人優越主義者でまぬけな保安官と黒人の敏腕刑事の「ドタバタ劇」が始まる。
当初、保安官は、もちろん、「野蛮な人種」の「協力」を拒否した。ところがところが、殺害された人物は地域の富豪、その奥さんは北部出身の「セレブ」だった(この時代設定で北部出身の富豪となると、それは「リベラル」を意味する)。
しかも、ポワティエ扮する刑事は、シカゴの都市で鍛えられた敏腕を発揮、初期捜査での不備を指摘し、それを補うために次から次へと対策を立てていく。それを目の当たりにした夫人は、ポワティエが捜査に協力、否、指揮することを強く望む。地域の名士の奥さんの望みだから、保安官は断れない。ドタバタ劇は続かざるをえない。そうしたところ、やがて、保安官は、「ニグロ」の刑事から、捜査の技術をいうものを「学ぶ」という経験をしていく。
結局、そのふたりの努力あって、事件は解決する。
その間、ふたりは自分の生い立ちを話し合い、ひとりの人として触れあうときが何度もあった。それで、ふたりがわかったことは、両者とも貧しい家に生まれながら、世の中を少しでも良くしようと警察官になったということ。このときにこころは通じ合った。
だが、映画ではずっと罵りあう。つまりお互いが自分の感情に素直になれなかったのだ。保安官は「ニグロは大嫌いだ」と言って憚らないし、ポワティエはこんな田舎者の人種主義者 bigot の近くにはもういたくない、という感情を露骨に表す。
それでも、最後にふたりが素直になるときがある。それは、ポワティエがシカゴに帰るために駅のプラットフォームに立ったとき。ポワティエを駅まで送ってきた保安官は思わずこう訊いた。「次、この街を通りかかるのはいつだい?、そのときは連絡してくれ」。
さて、ポワティエは何と答えたか…。とても心温まる会話が交わされる。そのときのふたりの表情がたまらない。
ちなみにこの映画のテーマソングを歌っているのは、御大レイ・チャールズ。是非、一度観てほしい。世の中捨てたものじゃない。
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このブログで以前にも紹介したことのある黒人政治家、ニューアーク市政を約20年にわたって握っていた「ボス政治家」、シャープ・ジェイムスが、近々、起訴されることになった。罪状は、ブラジルやカリブへの旅行に際して、税金をつかったということと、市保有の所有地を不当にやすい価格で友人に販売する便宜をはかったという、「政治腐敗」のなかでもきわめて「ありきたり」のものである。なかでも後者は、現市長のコーリー・ブッカーが選挙戦の焦点にしたものであった。
都市のインフラの疲弊に経済的衰退と、シャープ前市長が格闘した問題は巨大なものであった。しかし、それとて、彼の行為を免罪できるいいわけには決してならない。裏切られたのは、彼に票を投じ続けてきた支持層、つまりニューアーク市の黒人市民である。
『ワシントン・ポスト』が報じるところによると、1960年代の南部で黒人を殺害した白人優越主義者がまた起訴されたらしい。今度のケースは、1964年5月2日(ミシシッピで最大級の公民権運動が開始される夏の直前)に起きた黒人2名の拉致殺害事件であり、当時は、起訴されなかったものである。
この殺害に関与したものはミシシッピ州メドヴィル近辺で活動していたKKKのメンバーたちであり、1966年に下院非米活動委員会に召喚されて証言を求められたのであるが、そのときには「自己に不利益な証言の強制」を禁じた憲法修正第5条に則り証言を拒否していた(同時代のミシシッピ州における極右組織の活動については、右の日本人研究者による著作が詳しい)。
しかし今度の証言は、殺人事件を裁く法廷で行われることになった。そして、このときのKKKのひとりのメンバーが法廷取引を行い検察側の証人として、実際に殺害を行ったものに対して証言することになった。この証言を行ったものは、KKKには「闘うクリスチャンの誓い」というのがあり、それは外部のいかなるものに対しても、組織のことを漏らさないということであった。
snitchということばで警察の捜査に協力することを拒むヒップホップのサブカルチャーが批判されることがある(日本語に翻訳するとsnitchは「ちくる」だろうか?)。また国際テロリスト組織やマフィアの「掟」も悪名高い。どうやら、しかし、そのような文化は、ある特定の文化に固有のものではなく、普遍的にみられるものだと考えた方が良いであろう。
ちなみに、被告人はすでに71歳。有罪が確定すると、最大で終身刑に服さねばならなくなる。
このところ、同様な事件での連邦司法省の「活躍」には目を見張るものがある。しかしながら、それを別の視点から見ると、60年代の訴追がいかに「おざなり」のものであったのかもわかるのである。なぜならば起訴し有罪を勝ち取る十分な証拠があったのだから。いまの司法省の活躍をみるにつけ、私には、何故、この1964年を境に黒人青年たちが急進化していったのか、アメリカン・リベラリズムに「幻滅」を感じたのかが改めてわかってきた。ここでの正義もあまりにも訪れるのが遅すぎた。そういうとあまりにも斜に構えすぎだろうか…。
ずいぶんと長い間、新エッセイの発表が遅れてもうしわけございません。新エッセイを現在執筆しているなかで、過去のエッセイのリンクや内容等々、かなりの部分を修正しました。ほぼすべての部分に修正を加えております。メジャーな部分は、インデックスで、UPDATEのバナーを貼っております。
近々、新エッセイをアップロードしますので、どうかまたご訪問下さい。
アフリカン・アメリカン研究 /ブラック・スタディーズリンク集のなか、アフリカン・アメリカンおよびアフリカ文化関係のサイト、を更新しました
任期も残り2年となったブッシュ政権だが、『ニューヨーク・タイムズ』は、この6年間で連邦司法省公民権部の方針が大きく変わったと報じている。
そもそも公民権部は、1957年公民権法の規定により制定され、黒人の権利を保護するための監視機関だった。ところが、近年では、人種による差別から宗教団体や信仰の自由に対する差別への取り締まりが強化されている。思想信条に対する差別は、それ自体重大な問題だし、特に911テロ後にムスリムへの「ヘイトクライム」が増加していることを鑑みるならば、むしろ評価すべき変化かしれない。否、アメリカン・ムスリムを、言われのない暴力や中傷から守る方策を講じていること、これは高く評価するべきである。
ところが、問題は、公民権部の職員や予算が拡大されないかぎり、宗教に対する差別と人種に対する差別の取り締まりがゼロサムゲームの関係にあり、黒人の公民権に関する調査がおろそかにされてしまったということにある。公民権の分野に長けた法律家はほかの部局に配置換えになるか降格され、その空いた席の部分に宗教問題に長けた法律家の登用が進んでいる。その結果、たとえば、投票権法違反で公民権部が提訴した件数は、クリントン政権期のそれが8件に及んだのに対し、ブッシュ政権によるそれはわずか1件にとどまっている。
それよりもさらに大きな問題は、『ニューヨーク・タイムズ』の記事によると、公民権部のこの変化の裏に政治的思惑があるというところである。つまりブッシュ政権等の保守派政権のバックボーンである福音派の右派キリスト教団体の指示を確保するねらいがあるというのである。黒人のブッシュ政権に対する支持率はわずか6%、もうここを懐柔することはできない。ならば、いっそのこと「切り捨て」て、新たな票田を開拓した方が良い、戦略的思考からそう判断されているのである。
その結果、無理もないことだが、とても奇妙な自体が生じることになった。キリスト教への宗教心が篤い人びとの慈善団体〈救世軍〉が、団体職員の雇用に宗教心を基準にした。これは、ムスリムや仏教徒などで雇用される側からされると、思想信条によって「差別」されることになる。しかし、公民権部の判断では、〈救世軍〉が宗教心を尊ぶ「自由」を尊重し、それを支持する決定を行った。
さて、これまで共和党がむしろ全面に出さなかった宗教的右派からの支持固め、いわば政権の右旋回が、来年の選挙で有権者の支持を得られるだろうか。
現在、ワシントンD・Cでは、リンカーン記念聖堂とジェファソン記念聖堂とのあいだに、マーティン・ルーサー・キング記念聖堂の建設が進行中である。
2008年に完成が予定されているこのプロジェクトの総予算は1億ドル、ワシントンD・Cのモールと呼ばれる国立の公園地域に、アフリカン・アメリカンを顕彰する碑が建つのは、もちろんこれが初めてになる。
リンカーンとジェファソンのあいだに立つ、キングの像、その立地はアメリカの歴史を考えると、とても素晴らしい場所だ。キング博士がアメリカの政治思想のなかで果たした場所として、ここより適したところはない。
他方、AP通信が報じるところによると、その予算の大半は、寄付によってまかなわれるようである。
そこで立ち上がったのが、黒人のセレブ(日本語のセレブではなく英語の意味で解釈してください)たち…。
以下のリンク集を更新しました
リズム&ブルーズの政治学のなか、
7-3 「オックスフォード・タウン」ーージェイムス・メレディスのミシシッピ大学入学
を改訂しました。
長い間、この項を執筆したのを最後に、新しい項を執筆することができませんでした。何をどこまで語ったのかを、最近、確認しました。それも既に終わりましたので、近々、最新項を公開する予定です。
ジェームス・M・ヴァーダマン
『黒人差別とアメリカ公民権運動 ── 名もなき人びとの戦い』(集英社新書)
最近流行の「新書」の形で、アメリカ黒人史、わけてもわたしが専門としている公民権運動関係のものが出版された。同様のテーマが、一般読者に求めやすい形で出版されるのは、1993年に岩波新書から出版された辻内鏡人・中條献『キング牧師──人種の平等と人間愛を求めて』、1994年に講談社新書から出版された上坂昇『キング牧師とマルコムX 』以来、10年以上もの時間を閲してのことになる。学生の関心も高く一般のあいだでの認知度も高いこの運動に関して、取りつきやすく理解しやすい筆致で書かれた書籍は、実のところ少ない。
本書は、その意味でおいて、きわめて貴重な存在であるし、大学で教員を務めているわたしは、さっそく今季から授業で使うことになろう。わけても、エメット・ティル・リンチ事件や、リトル・ロック危機、ミシシッピ大学とジェイムス・メレディス、ミシシッピにおける SNCC の運動を、このように詳細に述べている邦語の文献は類をみない。このサイトの訪問者にも、強くお勧めする。(おそらく参考にしている2次文献が同じなのだろう、私が「リズム&ブルーズの政治学」で語っている内容と本書との間に事実関係上の齟齬はほとんどない)。
その上で、本書の問題点をいくつか指摘したい。まず、訳語の問題。訳者の水谷八也は、おそらく segregationist に「差別主義者」という訳語を与えているように思われる。しかし、これは本来、「人種隔離論者」とするべきではなかろうか。訳者は、segregation に対しても、ある時には「分離」あるときには「隔離」と訳語を使いわけているが、この南部史特有の言葉を日本語にこのように「意訳」してしまてっては南部社会の本質が見えてこない。具体的にその一例を挙げよう。本書163頁にこのような訳がある。
デス・ロー・レコーズのCEO、マリオン・“シュグ”・ナイトのマリブ・ビーチに面したプライベートビーチも備えた770平方メートルの豪邸が、620万ドルの下限価格でオークションにかけられた。
2Pac、スヌープ、ドクター・ドレーら、ウェストサイドのギャングスタ・ラップ──世代的には Old Skool に属する私はやはりどこか照れてしまって「ウエサィのラップ」とは表現できない──の象徴であったこのレコード会社は、2006年4月に破産宣告がなされており、負債総額は1億ドルにのぼっている。破産宣告のために法廷に出された書類によると、シュグ・ナイト個人の資産は5万ドルしかないらしい。
シュグのこの経済的情況の真偽はさておき、1990年代後半はもっとも勢いのあるレーベルであったこのレコード会社を、かかる情況に追い込んだのは、数々の刑事事件。そのなかには、未だ未解決の2Pac、ノートーリアスB.I.G.殺害事件も含まれる。シュグ自身も、ジャーメイン・デュプリーを脅迫するなど、直接刑事犯罪に関わった。(これらは、Randall Sullivan の LAbyrinth に詳述されている)
過日、歴史的シンボルとしてのモータウン・レコーズの政治的利用に関して批判的論評を行ったが、デス・ロー・レコーズの行きついた場所を考えると、やはりベリー・ゴーディが築いた業績は光輝いている。シュグの現状を考えると、そしてそれまでの過程を考えると、悲しくなってくる。
たった今『ニューヨーク・タイムズ』電子版が報じたところによると、ケンタッキー州ジェファソン郡(ルイヴィルを含む都市圏)で行われていた、学校の人種統合を目的とした児童・生徒の割り当て政策に違憲判決がくだった。これは連邦巡回控訴裁判所の判決を覆すものであり、最高裁でその政策に反対していた側が逆転勝利を収めたことになる。
ケンタッキー州は、公立学校における人種隔離を「その政策の本来の性格からして不平等である」と断じたブラウン判決(1954年)年の際に、そのような政策を行っていたところのひとつであり、その後、隔離撤廃 desegregation 政策を実施することを法廷から命じられていた。そこでは、当然、児童・生徒の学校割り当てにあたっては人種を考慮せざるを得なくなる。
そしてその後高まった公民権運動などの影響(キング牧師の実弟はルイヴィルで牧師をしていたし、ここは何よりもモハメド・アリの故郷として有名である)の結果、過去の人種隔離政策が導いた人種間格差を解消することに積極的に乗り出していた。最初は裁判所に命令されたものであったが、裁判所の監視下から離れても、その政策を継続してきた。なぜならば、人種間格差がまだ残っていたからであり、そのようななかで人種を考慮しない政策を実施すると、再び公立学校が人種隔離されてしまうからである。
しかし、この政策は、「より良い教育」を目指すものに負担を強いることになる。過去の悪政の精算を求められる謂われはない、という反撥が当然でてくる。その結果、同地の白人は教育委員会を相手取り、その政策が「逆差別」にあたるという訴訟を起こした。
そして、原告が勝った…