1964年のミシシッピ、3人の公民権運動家(黒人のジェイムス・チェイニー、白人のマイケル・シュウェルナー、アンドリュー・グッドマン)が行方不明になり、軍隊を動員した捜査の結果、死体で発見された。彼らを殺害したのは、地元の保安官補を含むKKKのメンバーたち、このショッキングな事件は公民権運動の大きな転換点のひとつとなる政治社会的激震を引き起こすとともに、そのストーリーの衝撃から映画やドラマのテーマになってもいる。そのなかで最も有名なのは、アラン・パーカー監督、ジーン・ハックマン主演で、FBIが大活躍しKKKを追い詰める様を描いたアカデミー賞受賞作『ミシシッピー・バーニング』であろう。
しかし、この映画は、公民権活動家のあいだでひじょうに評判が悪かった。なぜならば、大活躍するFBIは実際には存在せず(否、KKKと結託してたケースすらある)、3人の活動家の死自体、身の危険があるとFBIに何度も連絡をしたのにもかかわらず、必要な保護措置がとられなかったから起きたものであった。この「史実の改竄」に対し、活動家のなかには映画のボイコットを訴えたものもいる。(右の著作は、この「事件」の研究書の中でもっとも優れた「決定版」である。そこにはFBIの「ていたらくぶり」が詳述されている)。
本日の『ニューヨーク・タイムズ』は、このときに殺害されたジェイムス・チェイニーの母親、ファニー・リー・チェイニーが5月22日に逝去したと伝えている。享年84。驚いたのは、その年齢にもかかわらず、パン工場の労働者として、何と週給28ドルの労働を強いられていたということである。さて、アラン・パーカー監督は、ジェイムス・チェイニーの死にインスピレーションを得た映画で、いくらの収入を得ただろうか?
今日では「歴史の転換点」と言われる事件の登場人物のひとり、ファニー・リー・チェイニーは、ミシシッピ州に住み続けることはできなかった。なぜならば白人優越主義者の脅迫が続き、遂には家が爆破されたこともあったからである。その後、ニューヨーク、ニュージャージと移り住まざるを得ず、その生活は裕福どころか楽でさえなかった。
3人の殺害が起きたとき、検察は、殺人や故殺では起訴できず、公民権侵害の廉でしか有罪に持ち込めなかった。その結果、最大の量刑は懲役6年であった。ファニー・リー・チェイニーはさぞかし口惜しかっただろう。
ところが2005年、この事件の捜査を再開した連邦司法省は、生存する殺害者のひとりエドガー・レイ・キレンを起訴し、懲役60年の有罪判決を勝ち取った。キレンの年齢を考えると、無期懲役に等しい。(死刑に反対している私にとっては、これが「極刑」である)。
この裁判の過程で、ファニー・リー・チェイニーが再び証言台に立つことがあった。量刑が言い渡され裁判が終わったとき、彼女はこう言ったらしい。「うんと昔のこと、あの頃いた人たち、もうみんな死んじまっているでしょう」。彼女のこころの寂しさは、この判決では埋められなかった。
かつて、マーティン・ルーサー・キング博士がこう言ったことがある。「遅く成された正義は正義とは言わない」。この「事件」の訴追はあまりにも遅すぎた。したがって「正義とは言われない」のかもしれない。
(現在、連邦司法省は、60年代に訴追できなかった白人優越主義者の極悪犯罪の訴追を次々に行っている。その嚆矢となったメドガー・エヴァース殺人事件の訴追、有罪に持ち込む過程については、全米図書館賞を受賞したノンフィクションをもとに、ウーピー・ゴールドバーグ、アレック・ボールドウィン、ジェイムス・ウッズといった錚々たる顔ぶれでGhost of Mississippi という映画になっている。)