« 2005年12月 | メイン | 2006年02月 »

2006年01月 アーカイブ

2006年01月06日

ニューオーリンズ復興ニュース1

ニューオーリンズの不動産市場が過熱状態にあるらしい。それは、ハリケーン直撃直後ではまったく考えられなかった規模になっている。

例えば、ミシシッピ川の西に拡がるウェスト・バンク地区では、ある不動産業者によると、昨年11月の売り上げは、対前年比99%の上昇を示したらしい。隣接郊外になると、さらに活況状態は激しくなる。市の西側の郊外では、対前年比189%を記録した。

しかし、この活況は、想像がつく人びともいるに違いないが、洪水の被害を受けた場所ではなく、そもそもハリケーン被害のもっとも少なかったところにかぎられている。

実のところ、不動産市場を加熱させているのは、復興計画が未策定のままでは自分の持ち家の将来がどうなるのかわからないので、「第2の家」を買おうとしている人びと。

この情況を見て、地元の不動産業者は、「待った甲斐があったってものだ、やっと(災害保険の)チェックが届いたんだよ」と述べている。

もちろん、もっとも被害の激しかった第9区は、もっとも保険加入率が低く、その逆に失業率が高い。「第2の家」など望むべくもない。

このようななか、連邦政府は被災者への支援の打ち切りを矢継ぎ早に発表している。何もかもビジネスに任せたらどうなるのか、その残酷な矛盾がいまニューオーリンズに現れている。

2006年01月16日

今日はキング・ホリデイです

今日、1月第3月曜日は、アメリカ黒人にとって特別な日である。マーティン・ルーサー・キングの誕生日(1月15日)を記念し、この日は、連邦政府の定めた休日となっている。

キングの誕生日を休日にしようとする運動は、1980年代に頂点を迎えた。スティービー・ワンダーがその運動のデモに加わり逮捕されたこともあった。多くの日本人が歌詞を理解していないように思われるが、彼の名曲、"Happy Birthday"は、その逮捕の時の怒りを語り、キング牧師への感謝の気持ちを歌い上げたものである。

休日になったのはいいものの、しかし、ここのところこの日が近づく度に、キングならびにキング家に対するネガティヴな報道が続いている。例えば…

『ニューヨーク・タイムス』は、キングの墓、研究施設、ミュージアムの複合施設、Marthin Luther King Center for Nonviolent Social Change(写真は、その施設にある公園、墓を中心にした池のまわりを黒人の子供たちが闊歩する姿)を売却しようとする動き、ならびにその動きに対して、キングの子孫のあいだでの対立が激化していることを伝えている。

『ワシントン・ポスト』は、キング家が名演説「私には夢がある」の知的所有権を保持しているがゆえに、演説の全部を多くの人びとが聞くことができない、と伝えている。(このことに問題があることは確かだが、彼の演説は、上記のセンターに行くとたった10ドルで売られているし、ネットで購入することもできる。学校が買えば、教材としての使用は自由だ。『ワシントン・ポスト』は、キングがもっとも愛した「もっとも恵まれていない人」がキングの財産管理人の貪欲さの犠牲になっている、と仄めかしているが、正直なところ、私にはこの論理がわからない。10ドルの教材を学校が買うことができないならば、それは根本的には教育をないがしろにしている行政の問題である)。

さらに、地元アトランタの『アトランタ・ジャーナル=コンスティチューション』は、キングの母親が所有物であった聖書が、本日、ネットオークションにかけられることになっている、と報道している。

『ワシントン・ポスト』が典型的にみられるように、これらすべてが、キングの子供たちの生き方を批判したものだ。上に書いたように、なかにはさっぱり論理がわからないものがあるが、多くのものは、残念ながら、正鵠を射ている。キングの子供たちは、キングほど「立派」な人物ではない。

しかし、そもそもマーティン・ルーサー・キングという人物自体が、人類の歴史上稀にみるカリスマと政治的嗅覚とをもった人物であった。彼と比較されては、しかも偶像化され英雄化された彼と比較されては、ほとんどのものが色褪せる。

雑音に惑わされないように、この日の意味を確認しよう。

キング博士、Happy Birthday!

I just never understood
How a man who died for good
Could not have a day that would
Be set aside for his recognition
Because it should never be
Just because some cannot see
The dream as clear as he
that they should make it become an illusion
And we all know everything
That he stood for time will bring
For in peace our hearts will sing
Thanks to Martin Luther King

Happy birthday to you
Happy birthday to you
Happy birthday
     
Happy birthday to you
Happy birthday to you
Happy birthday
(From Stevie Wonder, "Happy Birthday")
Stevie Wonder - Hotter Than July - Happy Birthday

この歌は、一般に流布しているイメージと違って、友達や家族に捧げた歌ではないんです。キング牧師の誕生日を休日にする運動のテーマソングなのです。

2006年01月17日

ゴア元大統領候補とキング博士

ゴア元民主党大統領候補が、ブッシュ批判を展開した。

いまとなっては、ゴアはかなり昔の政治家だった感がする。しかし、彼が大統領選を戦闘ったのは、わずか6年前。しかも、現実のところ、ブッシュに勝利していた。

したがって、ブッシュが就任したとき、彼の支持基盤はきわめて脆弱なものだった。投票の結果に大きな影響をもったのが連邦最高裁の判決だったことから、「裁判所に指名された史上初の大統領」と揶揄されたこともある。そんな彼の支持を固めてしまったのが、皮肉にも、911テロ。

そんな選挙で敗れたゴアが、キング博士の名前を喚起しながら、ブッシュを批判した。驚いたのはその内容。キングの思想は非暴力、ブッシュは戦争が好きだ、といったものではなかったのだ。キングもかつて政府の違法なスパイ活動の犠牲者であり、ブッシュがやっていることは当時の政権と同じだ、と語ったのだ。

キングやミリタントな黒人活動家が、FBIから監視され、嫌がらせをされ、さらには迫害されたことは現在では異論の余地のない事実である。しかし、そのことに言及し、現政権の批判をすることは、極めて稀なことである。なぜならば、このことは、よくキングの業績に関するパブリック・メモリーから消え去っている時代、体制批判をすることで急進化した1966年以後のキングの姿だからである。

1963年に「私には夢がある」と語ったキングは、ある意味では、「ナイーブ」だった。1967年には、しかし、マルコムXのいう「アメリカの悪夢」を直視したうえで、「わたしにはそれでも夢がある」と語るようになっていった。そのように述べるにあたって、国内の貧困の撲滅より、ベトナムの共産主義者と闘うことに湯水のように税金をつぎ込む政権の批判をするようになっていった。

キングへのFBIの監視は、この時期に急激に強化されている。ゴアは、その時代のキングのイメージを喚起したのだ。

他方、ブッシュは、キング・ホリデイの日、国立公文書館で「奴隷解放宣言」の原典を観に訪れ、「キングの思想はリンカーンのものに拠って立っている」と、あたりさわりのないことを述べた。

正直なところ、リンカーンとキングの思想的類似性がどこにあるのか、私にはさっぱりわからない。リンカーンは、奴隷解放の後、黒人をアフリカに送還しようと考えていたのである。なぜならば、黒人と白人が共の暮らす社会など「夢にさえ」考えられなかったのだから。

キングとリンカーンに関係があるとすれば、それはキングの名演説がリンカーン記念堂で行われたということに過ぎない。

ブッシュの喚起したキングのイメージと、ゴアのそれとには大きな違いがある。そして、この違いは大きい。なぜならば、それはアメリカの60年代、公民権運動をどう解釈するかにかかっており、共産主義との戦いとテロとの戦いを同一視するブッシュの世界秩序解釈・歴史解釈をどう評価するかにかかってくるからである。

2006年01月20日

ウィルソン・ピケット

ウィルソン・ピケットが、アメリカ時間19日、ヴァージニア州の病院で亡くなりました。享年64。

まさか連載エッセイ「リズム・アンド・ブルーズの政治学」で彼に触れる前に彼が逝去するとは、同エッセイ寄稿時には思っておりませんでした。ショックです。

ご冥福をお祈りします。

2006年01月22日

ハリー・ベラフォンテ、ブッシュ政権を酷評

ベテランの黒人シンガー、ハリー・ベラフォンテが、ブッシュ政権を酷評。彼は、ブッシュ政権をナチになぞらえ、こう述べた。

「国家保安省という名称の装いを新たにしたゲシュタポが、こっそりとスパイ活動をして回っている暗い時代に突入してしまった。市民の立憲上の権利が停止状態にあるのだ」。

さらには続けてこう述べた。

ブッシュは「かなり怪しい経緯を経て権力を獲得し(2000年大統領選挙のことーー筆者注)、この国の国民に嘘八百を並べ、国民を過った道に導き、過った情報を伝え、数十万人にのぼる我々の子供たちを、我々を攻撃したことのない国への侵略のために送りだした」。

ブッシュはこう言われても仕方がないだろう。2000年大統領選挙の結果は、その後の調査が明らかにしているところによると、ゴアが勝利者。さらにイラク戦争開戦前のいわゆる「大量殺戮兵器」の情報に関しては、それが間違ったものであると公式に認めている。

そんなブッシュを、ベラフォンテは、「世界でもっとも凶悪なテロリスト」と呼んでいる。

ベラフォンテがここまで怒るのも無理はない。彼は、公民権運動の最盛期、学生非暴力調整委員会やブラック・パンサー党など、急進派を熱心に支援した。一級のエンターテイナーであった彼は、相当の額の資金援助を行っている。

しかし、その公民権運動急進派は、政府から破壊されてしまった。そのときに行われたのが、市民のプライバシーの権利を蹂躙して行われたスパイ工作である。そして、9・11テロ後に制定された「愛国者法」は、このスパイ工作を合法化してしまったのだ。

ベラフォンテは、だから、十分承知している。この政権がいかに危険なのかを。

2006年01月23日

旧モータウン本社が解体〜変わりゆくデトロイト

20060123detroit1968年から1972年までモータウンの本社として使用されていたデトロイト市にあるビルが解体された。2月5日に同市で開催されるスーパー・ボウルのための再開発事業のひとつとして、この街を活気づけた場所が消えゆくことになったのだ。(ベリー・ゴーディ元社長は、この事業を支持しているという)。

アメリカの行事では最大級のものの一つ、スーパー・ボウルを誘致するにあたり、デトロイト市は、その経済効果を3億ドルと見積もっている。この試合の観戦、そしてそれに伴うお祭り騒ぎのためにやってくる人は10万人を予想。

しかし、そもそもこの街の産業の根幹だった自動車産業は、未だ不況に苦しんでいる。今月も、フォード自動車は、同市にある複数の工場の閉鎖と3万人の解雇を発表したばかりである。同市の失業率は6.8%、ニューオリンズに次いで全米都市ワースト2位であるのも、無理はない。

このように産業の基盤が70年代以後完全に破壊されてしまった街には、10万人が訪れようとも、ホテルが十分にない。有名なホテルチェーンでダウンタウンにあるものは、リッツ・カールトンだけである。

多くの観光客は、したがって、郊外にあるホテルに泊まり、ゲームに併せて「8マイル・ロード」を越えて都市中央部にやって来る、ゲームが終わるとすぐに去ることになる。そのための道を空けるために、モータウン旧本社ビルは解体された。

これでデトロイトはかつての光を取り戻せるのだろうか?

Notorious B.I.G. 殺害事件に新しい展開

Notorious B.I.G. (以下、ビギー)殺害事件に新たな展開があった。

合州国連邦地裁は、ロサンゼルス市に対し、ビギーの遺族に110万ドルを損害賠償として支払うように命じた。ビギーの遺族は、ロサンゼルス市を相手取り、証拠秘匿の廉で200万ドルの賠償を請求していたのであるが、これで、その半分以上の額の支払い命令が下ったということになる。これは、2Pacとビギーのいわゆる「ラップ戦争」の捜査の進展にとって極めて大きな意味を持つ。

判決を言い渡すにあたり、連邦地裁は、ロサンゼルス市警が意図的に自分たちに不利な証拠を隠滅したというビギー遺族の言い分を認めた。つまり、ビギー殺害に関して、市警が関与していたということを認めたということになる。

「ラップ戦争」には、警察を含めた行政当局が関与していという噂がかねてから流れていたが、この判決は、それがまんざら「噂」ではないと認めたということを意味する。ビギー殺害、ならびに2Pac殺害に関しては未だに調査が行われているが、これらの事件の捜査は、この判決を機に新たな展開に突入することが簡単に予測される。少なくとも市警は関与していたのだ。

2006年01月25日

投票権法の現在

今から40年前に制定された投票権法(別名、1966年公民権法)は、19世紀末に選挙権を実質上剥奪されていた南部に住む黒人の投票権を保証し、その後の黒人政治家の成長を促した画期的な立法だとされている。

確かに、1970年代に入ると、州議会や連邦下院において、黒人議員や公職者の数は急増した。しかし、その法律がいま3つの面で、大きな問題に直面している。

まず第一にあげられるのが、過去25年のあいだ、1992年から2000年までの8年間を除き、共和党保守派(レーガン、ジョージ・H・W・ブッシュ、ジョージ・W・ブッシュ)が行政権を握ったため、この法律へのコンプライアンスを監視する機関、連邦司法省公民権委員会の担当部局の人員が激減された。過去9か月をみても、投票権部局の人員は3分の2に人員カットされている。

また、10年毎に行われる連邦下院議員の選挙区改正では、政治的思惑から黒人の政治力のダイリューションを狙った政策が追求されている。一部の選挙区を黒人多数にするーーmanority-majority districtと呼ぶーー一方、それより多くの選挙区で白人過半数を維持する。そして、暗に人種を争点とした選挙戦を繰り広げ、人種のあいだにくさびを打ち、人種対立を煽ることで、南部保守勢力を維持しようという政策が追求され、そしてまたこれが成功している。このような政治的思惑をもった一種のゲリマンダーは、共和党保守政治の土台のひとつとなっている。

つまり、現在の政治的状況下では、同法は、黒人の政治力を保証する力にはなり得ていないのである。

そこに最後の問題が出てきた。同法は時限立法であり、今年がその時効の年にあたる。共和党保守派が連邦政府を主導するなかで、黒人が有利になる選挙区変更は「逆差別」の名のもとに却下され、白人が有利となる政策が追求されているいま、同法の制定によって最初に「恩恵」を受けたベテランの黒人議員から、時効の延長に反対するものが現れてきているのだ。

投票権法が歩んだ道のりは、ポスト公民権運動の時代の隘路を見事に映しだしている。

2006年01月30日

ニューオーリンズ復興ニュース2

20060130katrinaブラウン大学の社会学者が、驚愕する予測を発表した。

もしハリケーン被災地が再建されず、貧困者へ政府が支援を行わないとすれば、黒人市民の80%がニューオーリンズに帰ってこなくなる可能性が高いらしい。

この数値は、国勢調査資料データと被災地の地図の分析から導きだされたものである。災害の程度が中位以上のもののなかに黒人が占める比率は75%、そのうち29%貧困ライン以下の所得しかなく、失業率は10%を超えていた。したがって、転居至近の援助がなければ、そのまま現在避難している場所に居続ける可能性が高い。

また、ニューオーリンズに帰れなくなる白人も50%にのぼる。

その結果、災害直前に48万人だった同市の人口は、14万人まで急減することになるらしい。

なお共和党議員でさえも、復興公社を設立し、連邦政府が再建事業に積極的役割を担うことを求める法案を提出しようとしているが、行政府の反応は良くない。ブッシュ政権は、公社をつくると公務員が増えるという理由で反対し、復興の中心はあくまで「民間」にするという方針を堅持している。「民間」が儲からない復興事業に乗り出すであろうか?

ニューオーリンズは、19世紀の一時期、ニューヨークやボストン、フィラデルフィアを凌ぎ、一時期全米一の人口を誇った時期がある。その街がいまやなくなろうとしている。

2006年01月31日

シーン・ディディ・コームがデトロイトへ

かつてデトロイトがナショナルイベントの会場になったのは、70年代のワールドシリーズのときだった。そのときは、マーヴィン・ゲイが国歌斉唱を行った。今年は何かあるだろうか?、と考えていたところ、スーパー・ボールの祭りを演出するものの一人が判明した。

Bad Boy Entertainment 会長のSean "Diddy" Combが、同市に古くからあるクラブを貸し切り、前夜祭のイベントを行うらしい。

3日間連続して行われるコンサートの売り上げの一部は、St. John Hospitalとホームレス支援組織、Coalition of Temporary Shelterに寄付される。

大きなメディアイベントより、より恒久的な経済復興の方が望ましいのにまちがいはない。イベントより、かつてのモータウンのような「地場産業」が存在する方が望ましいのにまちがいはない。

それでも、しかし、何もないよりましだろう。

続きを読む "シーン・ディディ・コームがデトロイトへ" »

About 2006年01月

2006年01月にブログ「ブラック・ワールド 今日の出来事」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2005年12月です。

次のアーカイブは2006年02月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34