ミセス・ローザ・パークスが逝去したのが10月25日。その陰で、公民権運動への貢献においては決して彼女に「劣って」いない女性がこの世を去っていた。その黒人女性の名前はミセス・C・デロレス・タッカー。
死亡したのは10月12日。葬儀にはアル・ゴア元副大統領(2000年大統領選挙の本当の勝者で真実の大統領)も出席している。彼女の死去は、しかし、ミセス・パークスの本葬が終わるまで公にされなかった。理由は明かされていない。
投票権法制定へ巨大な世論を動員したセルマ闘争のとき、マーティン・ルーサー・キングのすぐ横に並んで行進したのが彼女。その後、彼女は、黒人女性、否、黒人の政治家がまだ少なかった時代の1971年、ペンシルヴェニア州州政府の閣僚を務めた。投票権法の精神を生かすため、郵便による有権者登録を可能にし、21歳だった選挙権を18歳にした。そして全米黒人向上協会(NAACP)の理事も務めた。
しかし、1992年、彼女の名前は、汚れたものになってしまった。2Pacら、ギャングスタ・ラップの歌詞に抗議し、それを弾圧する運動を、「ドラッグとの戦争」の指揮官として全米の刑務所服役者数ーー人口に不釣り合いな割合が黒人ーーを一挙に引き上げたウィリアム・ベネットと組んでしまったのだ。
その後、彼女は、タイム・ワーナーの株式を、株主総会で発言権が得られるまで買い、総会の場で経営陣に同社が発売しているラップの歌詞、なかでもその露骨に卑猥な箇所を読み上げるように迫った。(なお、経営陣は彼女の要求を無視し、逆に彼女を告訴した)。
また2PacがNAACPの「イメージ向上貢献章」にノミネートされたとき、彼女はかつて理事を務め、100万ドル以上の私財を寄付したこの歴史ある人権団体の大会でピケを貼った。
2Pacも黙っていなかった。とても彼らしいことではあるが、歌詞で露骨に彼女を揶揄したのだ。その後、両者の対立は、彼の死後も、彼女が2Pacの遺産相続人を名誉毀損・冒涜罪で訴えるに至る。
そういえば、ミセス・ローザ・パークスも、晩年はアウトキャストやIce Cubeと名誉毀損・冒涜で訴訟を起こしていた。
公民権世代の感性とヒップ・ホップ世代の感性は明らかに異なる。だから「評価」も難しい。(なおこの記事は、彼女たちが闘ってきたものを尊重し、彼女たちには敬称を付けた)。