6月24日、またしても警察官による黒人青年への暴力行為がビデオに収められ、全米に報道された。場所は、1992年の大暴動の現場、ロサンゼルスのサウスセントラル地区。警察の残虐な行為は、暴動の原因となった、ロドニー・キング殴打事件にそっくりだ。
しかし、類似はここで終わる。
1992年当時の警察署長は、人種差別的とも思われる発言を繰り返していた問題の多い人物だった。現在の警察署長は、そのような警察を改革した人物として高く評価されている人物である。
また、ロドニー・キングの罪科はスピード違反だった。無防備の人間を、スピード違反したからといって、殴る蹴るの狼藉を働く警官は明らかに常軌を逸したものだったし、それゆえ多くの者が怒りを抱き、その果てに暴動がおきた。しかし、この度、暴力を受けた人物の罪科は車の窃盗。しかも、警察とカーチェイスを行い、犯人が武装しているのかどうかも警察の側には不明だった。そして暴力を行使した警官のなかには黒人警官もいた。
このような事件の被害者は、非常に高い割合で、黒人(アフリカン・アメリカンとアフリカ人)である。しかし、わたしは、「人種差別」だけが、このような事件の原因だとは思えない。アメリカのメディアは、人種的側面だけに注目するが、アメリカという国自体が、銃器をもつ「自由」を認めている等々、きわめて暴力的な社会だということも見落としてはならないだろう。
かつて、ブラック・パワー運動の中心にいたH・ラップ・ブラウンは、「暴力というものは、アメリカン・パイと同じほど、アメリカ的なものなのだ」と、アメリカ社会の残虐性を批判した。そのことばが、この事件の顛末を追いかけていたわたしの脳裡に浮かんだ。